昨夜は、ひさしぶりによく眠りました。だいぶ疲れが出ていたんですが、今朝は比較的きもちがすっきりしています。
花の写真を撮ったり、レース糸を買いに行ったり、とにかく自分をなんとかするためのことは、いろいろやりました。でもやっぱりいちばん効いたのは、爆睡ですね。よほどたまりこんでたんでしょう。
まっすぐに美しく生きることを主目的として、こつこつとやっていると、それを邪魔するものが、たくさんやってきます。ただ小市民的に、まじめにやっているだけでも、それがいやだといってよってくるものが、たくさん来るのです。
混沌の風の吹きすさぶこの世界では、美しいものをすべて汚染し破壊したいと思う、深く傷ついた獣がたくさん棲んでいる。それが、自己存在の痛みに気がつき始めて、あらゆる混沌の呪いを吐き出し始めている。
自分の真の苦しさを、初めて知ったからです。
自閉の籠の中で、わたしはずっとそういうものから自分を守ってきたのですけど、最近は特にひどい。ものすごくひどい。彼らは、まだ、わたしが馬鹿にならないのが、悔しくてならないというのです。
痛すぎること、苦しすぎることは、あるのですが、わたしはなんとか、もっています。愛を見失うくらいなら、死んだほうがましだからです。
画像は、近所の公園で撮った、カタバミです。とってもきれいでしょう。今年のカタバミは、ことのほかかわいく、美しく咲いてくれている。それは彼女たちが、傷ついたタンポポのかわりをしてくれているからです。
普段のカタバミは、もっとそっけなく、人間を冷たく離れてみています。いやなことやばかなことをする人間が多いからです。だから人間の方も、どんなにかわいい花でも、ふんと横を向いて通り過ぎるのです。カタバミによっていきたいと思う人は、まれです。なんとなく、わかるでしょ。
でも今年は、毎年、手放しで人間を「いい」と言ってくれるタンポポが、苦しくてたまらない。だから、同じ黄色い花であるカタバミが、できるだけ背を伸ばして、かわいらしく咲いてくれているのです。
もちろんカタバミは、タンポポのように明るく、真っ正直に言えないから、いつもよりはずっと注意深く、人間を見ている、て感じなのですけど。それだけでもとても美しく感じるのは、カタバミが、深い愛の気持ちでそれをやってくれているからです。人間が苦しいというよりも、タンポポが苦しんでいることが、たまらないのでしょう。
だれにたのまれたわけでもない。苦しんでいたものがいたから、やらずにいられなかった。意地も誇りもスタイルも、粉々になるほど、愛はすべてのものを、行動にかきたてる。
花は、それを、長いこと長いこと、やっている。なぜ咲くのか。なぜ咲くのか。なぜ咲くのか。愛しているから。愛しているから。すべてを、愛しているから。
道端の小さな花の中にさえ、その永遠の鈴が鳴り響いている。ここは愛の世界。愛が鳴り響いている。
わたしはここに、永遠に住んでいたい。