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OKSガイドブログ人

釣竿用ガイドの製作販売の関連記事、趣味の山野草、雑木庭園、昆虫、錦鯉、建築、ピアノ、お琴、歌謡曲等を書き込んでいます。

OKSガイド細腕繁盛せず記 (和竿用ガイドとコンパス)

2010-12-17 14:57:56 | 細腕繁盛…コンパスとガイド製作

http://www.oksguide.com/(←OKSホームページ)

http://oks.lolipop.jp/  OKSガイドカタログ版

YouTube: コンパス金具の二次加工機

この機械は方位磁石(コンパス)の中心に使われている、ガラス軸受けを取り付ける、真鍮金具の穴をテーパー状にする自動機です。それによって穴の縁が薄くなり板状の方針(虫と言っている)の穴にカシメ易く成ります。NC旋盤や自動盤で、長い真鍮棒から外観と穴が明けられたものを突っ切り落とすのを一次加工と言います、一個ずつになったのの反対側を加工するのを、二次加工と言います、一個ずつ人手でチャッキングしなくてはなりません。コンパスの中心に見えてるのがこの金具です、石もはいっています。

  

此れが石頭と言うコ ンパスの軸受けです。下は虫に金具をカシメタものです。

 

 

これはコンパス完成品。 

  ¥1200円(消費税別途)

詳しくはOKSカタログ版の方位コンパスをご覧くださいhttp://oks.lolipop.jp/index.htm

又は方位コンパスのページをどうぞhttp://oks.lolipop.jp/connpasu%202.html

 

かわはぎ竿に付けられたダブルインナートップ(ヒルゴン) 

これはトップリングがNo02リングが付いた大型のヒルゴンです。

浜川作キス竿ヒルゴントップ付クリスタルガイド搭載竿

 

YouTube: ヒルゴン PE-ライン用トップガイド¥1000円(消費税別途)で中通しガイドの糸がらみしない特性を外付けガイドで実現させたもので手作り成ればこそ。下の竿に付けられたトップは糸を通し安く改良したタイプ。

  http://www.oksguide.com/

 

昭和45年ごろだったかはっきりはしないが、OKSがレコード針のナガオカから仕事をもらうことになり、針の他の事業として生産していたクリスタルの軸受けの穴石。

大きい方が外形2.4Φ小さい方が1.9Φ

(東芝が東南アジアむけ戦後賠償替わりに積算電力計を輸出その中の軸の振れれとめにつかわれていた)を作らしてもらう交渉が成立色々と仕事を出してもらうことでスタートしたのです。当時レコードで使うダイヤ針が当たりに当たり大変な利益をあげていた。クリスタルの仕事場も針の生産にしたほうが良いと思っていたので,丁度タイミングの良い申し入れだった訳けでした。   引き受けたのは良いが何しろ 技術が伴ってなく方位磁石に使う石(クリスタル)の毎月20万個の生産は手放さなくてはならず数の少なかった穴石をひきうけざるを、えませんでした。  この出始めの選択の間違いがOKSの繁盛せず記の始まりになったのです。東芝の賠償は数年で終わってしまうのです。

OKSのコマーシャル(下の写真は石鯛ガイドSICリング入りOKSの最強ガイド 上の初めの写真は竿名オニヤンマ故元野竿師作OKS最新糸がらみ防止トップを付けた かわはぎ竿テストして性能確認済み片足ガイドもからマンズガイド付きの最上級品今は浜川で作っています.  二番目の写真はヒルゴントップの糸トウシテストのものです) LINK 

  

  

写真の説明が長くなったのは画像挿入テストでうまくゆかず3枚入ってしまった。                                     【オクトパス緊急情報】オクトパスリールシートがなくなるとのことですので急きょ作ります。もうとまりません。詳しくはOKSホームページで。   オクトパスクロームメッキ完成品。¥5500円(消費税込価格)

 金メッキ品¥8000円(消費税込価格)                             

OKSは昭和41年に会社にし、結婚したのが27歳、順調だったのは2年位で、東芝の仕事が終わってしまってからは、安定した注文がもらえなくなってしまった。レコード針の仕事をナガオカの社長に頼んで出してもらう様にしたり。(社長は私の事を一目置いてくれていた 当時ナガオカは精工舎の時計石の、生産を受注していた。機械時計には振り石 という、ルビーで加工したパーツが使われています。振り石というのは、外形が0.2ミリ位の円柱形をしています。外形を丸く加工しただけでは長過ぎるので丈をつめ,正確に寸法も出さなくてはなりません。   そこで寸法の出してある鉄板の上にラックという熱で軟らかくなるのものを塗り,ヤトイと言うガラス製の2ミリ角棒状で、長さ4㎝ほどのものを二本直角に組み、鉄板に張り付けその鉄板を斜めに立てて置き直角のかどを下にしたところへ振り石の長めの物をピンセットで一本ずつ置いていき,2㎝四方になったところで角のガラス棒を井桁に組みラックトいうヤニで品物を寄せて鉄板に直角立てる。この工程の整列を人海戦術でこなしていたのを見て、相棒を組んでいたM氏と画期的方法で解決してしまった。  8~12人位は少なくなった、研究部として初の合理化の実績であった.  他にも連動プレスと言う、鉄板に石を張り付ける時のネジプレスの手動の作業を、モーターとクラッチリレー回路を組み合わせた電動による、ねじプレスにして男子の仕事から女子にも出来るように、したりとかアナログ的計数器等も作った。それらの事は他の研究員は何もできないでいたので、かなり認められていたのであった)。振り石の整列機は見せないように囲っていたのに技術部長が精工舎の連中に得意になって見せてしまったのには開いた口が塞がらなかった。

   【OKSの石鯛ガイドを搭載した竿水さんの和竿のバランステストこの曲りは先端と手元が綺麗な放物状の曲りになっています、えものが掛かると竿は満月状態になります。】胴調子のショックを緩衝する和竿のすばらしい性能です。竿水さんは今や細身の石鯛竿の頂点を極めています。詳しくはTEL0467-31-2665までなおOKSのホームページに詳しく竿の映像を載せています。

 

         細腕繁盛せず記                      

◎王子工業を卒業してパンタグラフ等の鉄道部品と造船用のバルブなどを作っていた工進精工に設計の仕事を覚えたくて入社、本当は成績はトップだったので大手に、行けば人生それほど苦労せずに過ごせたのにとおもうが、後の祭り 現にクラス会であったとき本当に頭悪いのが大手の部長で退職したりしていて 勉強は駄目でも本当は頭いいのだ?  工進で設計の仕事を居眠りをこらえながら覚えていたら現場事務所に行かされてしまった。 そこは大きなコンプレッサーが回っている土間であった、あまり良い環境と環言えないが、そこの係長は小学校しか出てないのにえらく頭の切れる人で王高出の秀才もどきではとてもはがたちません。周りを見ると現場仕込の猛者揃いでして高卒なので一目は多少おかれたと思ってはいたのですが工場長は国鉄からの天下り、4人いた猛者は皆上司の娘婿子たちなのでした、道理で皆態度が大きかった。  此処でも係長が主体の専用機の一部の設計は任されたのですが、出来上がるのが遅いうえに、やたらとSK材の調質の指示が多く現場からは評判が悪かった。  

話し合いで修正してもらいながら作ってもらったが、この機械の完成を見ずにいきなり転職してナガオカに入ってしまった.  工進の現場事務所では隣にはとてもかわいい女の子がいたので掃き溜めに鶴のごとき良い眺めであった。(やめて1年位だったか池袋の地下で赤ん坊負んぶしていたのを見た。) 此処は設計の仕事も出来たし、工具類の種類の、つかいかた、工具屋に発注するカタログがあること 超鋼バイトの銀ローによる刃先の固定方法など学んだことは後々大変役に立った。     

今でも気になっている採用したギヤーのかみ合わせが自動車のマニアル車の様に歯のサイドから押し込むのと違い,歯の外周からかみ合わせる事にしたので回転が止まってからでなければならず、(歯が壊れる恐れがある)しかし良い点もあったので新方式が試したかった、それと組み合わせにどこでも回転動力の着脱をクラッチの様な摩擦板でなくても出来る様にした方式も考え出していた。

昭和33年入社同期の松井も入社

無二の友になる、バレー部にいたので昼休みや仕事が終わってから良く練習した。

 

(頭初の写真は工進時代弱いバレー部の面々左の立っている人はバレーのほうはさっぱりだが飲み屋とバーの女の子にはやたらと持てていた富士見台の商店街を歩いていると寄ってくるんだ、良く飲みに連れてってもらった。今思えば有難かった。 一方、ナガオカでは飲み助は居らず独立してからはおごる立場だった、キャバレー全盛期の良き時代でした。)二人の写真左は同時に入った中野工業出身 今ブラジルにいる無二の友。3ばい位、力とスタミナがあった。仕事の後広場でバレーの練習していたら彼のサーブが強すぎて工場のガラスを割ってしまった矢作部長に謝りに行ったら、弁償せんでいいよ元気いいな、黒い顔した現場でも一目おかれていた、工員達も一声かをけられれば徹夜で仕事をこなした。意外と優しいところがあって私が辞めた後心配して係長を何べんも説得にこさせた。そのあと暫くして血を吐いて亡くなられた肝硬変だったのでした。なんだかとても済まないなーと 今でもメガネをかけたお酒のすきだったかおを思い浮かべる. やめる理由の一つは、養成工達に給料を渡す役があり何の気なしに目に入った額を見て驚いた残業もしたんだろうが自分の倍位貰うんだから。やっぱり、物つくりをしなければ稼げないんだと思い知らされた。

この画像は上司の係長元吉さんチョコンの神様(二人で通用するあだ名)変わり者で結婚できないのでどうしても係長どまりなんだ、ハンバークを初めてごちそうになったなんと旨いものがあるのだな感心した、その後はこれほどのおいしいのに有りついていません。

下の画像は忘年会を催す課長 橋本斧太郎兎に角酒が好き。

ここに映っている女の子はトレース係とお茶入れ、昼はみんなのおかずを買いに行ってくれる、おーいコロッケ買ってきてくれなどと課長が良く言っていた。

下は必ず張り合う係長鈴木健二 専務の娘貰っているからな勢いがある。

設計部だが特に何の技術があるのかは分からなかった、国鉄や船会社の接待や交渉

がかりなんだろうな、若い頃は良く分からないが松井はその関係はすべて調べて頭に

入れてあった、最近色々教えてもらった。

いずれのうちでも二人は飲みすぎてひっくり返り止まる羽目になった係長の家は便所のさんを壊してしまった。

 

そこでまず転職をして稼ぐかと新聞の募集で 設計のできる人 給料20000円が目にとまった。長岡精機宝石工業であった、それまでは12000円残業含みでしたから、いいぞと思い、もう決まったかなと思ったが電話し

たところ、来てみなさいとなり今までやった設計図などを持ってめんせつしたわけでした。工進は従業員300人ここは600にんもいた。女子工員がほとんどだったので、華やかなもんでした。退社時の10分位前になると、逆毛を立てたり化粧をしたりし、ベルと同時にさっそうと帰って行ったデートするのかそれは分かりませんが、残って居ては彼氏がいないと思われるのがやだったのかも、全部がいるわけないよ。 当時何だか知らないが私は、お釜にねらわれたりした。会社で一人、からおけスナックで一人マヒナノ泣かないでを裏声でうたったら、踊っていた男からすりよられたりした。こっちはその気はないのによ。  私は高卒なので15000円に値切られた,社長が気の毒がって3000円程別にくれた。

工進精工時代

自分は学生時代バレー部で放課後練習して板橋駅から東上線の成増に帰るだけで遊んだこともなく夏休みは何していたんだか良く分からないが家の周りのていれをしていたのかな、卒業まで2年間位だから、池作りでもやっていたか、小説読んだりま、勉強は良くしていた、機械の設計士になろうと思っていた。大学行けばよかったのだろうが、そんな悠長なこと言っていられませんでした、したがって山登りの経験もありません。工進で無二の松井はスポーツやら、山登りも随分と経験済みだった。行進で知り合った女傑2名と簡単な藪くぐりして丹沢山塊を見ながら駅に戻る日帰りコースをすることにした。

中央線柳川で降りて藪くぐりし大地峠に出て塩津駅について帰ることにした、新聞記事を見て実行することにした、登山の原則として、50000万分の1の地図は用意した。

生憎の小雨がやまず藪くぐりは時間がかかりすぎた、かなりな急な斜面も有り自分のヤッケは雨がしみてきてしまった。

    

それでも女傑さんたちは余裕があった、尾根に出たころは懐中電灯を使う時間になり下りの広い道に出た。

よーしとばかり降りて行ったら尾根道でないことに気づいた丁度樵小屋があったので止まることになった中の寝るところは高くなっていた、寝たのはいいが途中で彼女たちがおしっこを催ししたの土間で用を足した。あくる日は快晴になった。

  周りが良く分かったので簡単に尾根に出られた前の日は雲海であったところが丹沢山塊が少し雪を戴いていた、目標の大地峠に出た時は嬉しかった、一路塩津に向かって降りていった

 この尾根道からの右に山塊を見ながらキロを急いだ、予定を1日過ぎて会社に行った、こういうわけでと理由を説明した、家では親父が捜索願を出そうと思っていたと騒いでいたようだすごく費用が掛かってしまうのでそうなったらお金ないよということで困っていたそうだ。

この4人は良く会社での問題点とか人生設計等色々な話をした、それぞれ結婚して離れ離れであったがスイカのお季ちゃんの家に家族で遊びに行った彼女は男の子2人10年ぶりで授かった、良かったのもつかの間ご主人が40台で急死してしまった、けなげな彼女は会計の手伝いや学校給食等色々こなして見事育て上げた、私の孫のピアノコンサートに来てくれて、とても良かったと喜んでくれた、その時私すい臓がんなのと行ったその時はとても元気であったステントに血栓が付き再手術してから気力がなくなり寝ていた方がいいといいいつの間にか連絡が途絶えてしまった息子たちも我々のことは知らなかったのか連絡してもどうにもならなかった残念。その前に無二と結婚したもう一人の〇〇さんはその前に亡くなっていたくも膜下出血で無二の懸命の看病にも関わらず、ついに帰ることはなかった。

若い当時みんなで奥秩父縦断をやろうとなり、一番年長の阿部さんも加わり一泊登山となった。この山はこまどりが盛んになく山であった。(白子の雑木林ではまったく見かけなかった、自分ちで親父が好きで飼っていたコマドリは鶯とともによく鳴いていた、とても長生きして茨城に引っ越しても元気で白内障になっても元気だった、最後は猫にやられてしまった。鶯は蛇にやられた、この茨城は鯉を飼えば鷺が狙うし、金魚はカワセミがとっちゃうし、苔は赤腹が渡ってきてむしるし油断も隙もならない)。

 

中央の白シャツがお季(すい)ちゃんリュックの中にはスイカが入っていた、どうりで汗一杯かきながら歩いていたっけ

体力ないのかと思っていた。一休みの尾根で食べたスイカは格別おいしかった、自分は反省しながら食べていた、人の役に立つことを実行したんだな偉いよ。

ついに奥秩父縦断を達成した。

山登りについてはこのほか、陣馬山、八ヶ岳を登った、山登りは終了。

ナガオカではそういうことをする人はおらず独立してから、釣りや、キャバレーなどの付き合いが多かった。バブルがはじけてキャバレー時代は終了してしまった、今のスナックなどというバーよりも地味なものになっていくと同時に景気も悪くなってしまった、OKSの主力商品だったコンパスの受け石も横山磁石工業の社長が不動産投資で失敗、会社は倒産し半年商品が供給できないでいた間、中国品や他のやすものがはびこってしまった、OKSは資金繰りに協力した結果900万の手形が今も残っている。借金踏み倒した横山晴夫は今も元気でいる、競売で取られたビルもすべて取戻したが、踏み倒した金は一文も返していない、天罰が下らないのだから神はいないことが分かる。今はワイシーエムコーポレーションになった。最近廃業した上磁石工業はは2000万円引っかかった。 

 

 

                  私にとって工進は 工進大学というところです。ナガオカは大学院か?研究部には東芝の設計者や東京工大生二人一人は機械の方もう一人は電気の方、そこでパーツフィーダーや計数器にお目にかかった。かれらは図面は書けないんだ。書いてあげたら喜んでいたっけ、そこで合理化のための手ずくりパーツフィーダーを半田ずけしたりコイルを巻いたりしてつくった、これは計数器の時計石を供給するためのものだった。この学生さんの作った計数機は良く狂ったりした、すると学生さん飛んできて調整するとその時は治るのだが帰るとまた駄目になった。此れの繰り返しを知っていたので相棒のM氏とパーツフィーダー の直線版を作り計数の女の子の目を真っ赤にしているのを改善した。同じ部屋に技術部がいてビービ―とうるさかったろうが、研究部の成果を自分がやった顔して精工舎に見せたのだから、文句も言えないさ。この計数をしていた女の子たちは社長のお気に入りの可愛い子ばかりだった社長は何時もアメやると言っては、手を触っていたとか、まーちょっとスリル楽しんでたんでしょう。 そこでM氏曰くたまには海に気晴らしに連れてってやろうかとなり、こういう事は一番年長のまとめやくに話すのが一番いいんだと私が話をつけやくで・・・。

運悪く話を付けた番長さんは行けなくなり上野駅に皆に会いに来て涙していたっけ、本当にかわいそうだった、いい記念になったのに。

 

途中長浜海岸で遊ぶ

   水深は浅いので歩いて撮影場所を探すそこは岩なので足は気を付けないと怪我する。

ひと泳ぎして記念撮影近くにいたかっこいいお兄ちゃんに頼んでシャッター押してもらった、3回取り直した。

お兄さん彼女いなかったので羨ましかったであろうな。これが縁でM氏は右の彼女と結婚した。