内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

流されて生きる

2008-11-28 22:18:47 | 考え事
年末に向けて、公私ともにとても忙しくなってきました。寝る時間をカットしなければ。でも忙しいくらいのほうが、あまり悩む時間もないくらいでちょうどいいのかもしれません。
 今の心境は、この境遇、与えられた中で自分の最善を尽くすだけ。後は流れに身を任す。流されて、流されて生きていくのだー。
 しっかりした自分を持つとか、流されない生き方というのとは、対称的な生き方です。

森田療法入門(上) 水谷啓二編 はじめに(その2)

2008-11-27 22:54:10 | 水谷啓二先生の本
 「はじめに」というところには、著者の思いというのが率直に書かれている。
次の言葉にも、水谷先生の熱い気持ちが伝わってくる気がします。

 『また先生は私どもにたいし、神経質者がそのとらわれから脱皮するのには、自覚することが何よりたいせつであると、くり返し教えられた。この自覚するということは、日常生活の実践を通じて、あるいはまた苦悩の体験を通じて、本人自身が、どこまでも向上発展をもとめてやまないところの・自分の心の真実に目覚めることである。この<自己本来の心>を、先生は、<純な心>ともいわれている。他人から良く思われ、あるいは尊敬されることも望ましいことには違いないが、それよりもっと大事なことは、自ら人を愛し、自ら人を尊敬することなのである。先生は人間関係においては<思いやり>が大事なことを教えられ、「思いやりの心が生じてこなければ、神経質のとらわれがほんとうに治ったとはいえない」といわれている。また「愛されることもうれしいが、愛することはなおうれしい」ともいわれている。現代の人びとにもっとも必要とされることは、両親をはじめ人びとの労苦を思いやることであり、また愛されることばかりを求めるのでなく、こちらからも愛することなのではないだろうか。』(p.5)

人を愛するためには、まずは自分の至らなさを自覚することが必要な気がしています。
 

自己嫌悪

2008-11-26 20:03:10 | 考え事
 朝起きたときに憂鬱な気持ちになっていることが多いということは前書きました。先日目を覚ましたとき、やっぱり自己嫌悪感に襲われたのですが、そのとき「自己嫌悪って別に悪いものではないんじゃない?」なんて感じがして、その感情をそのまま受け止めた気がしました。この感覚は自分にとってとても新鮮だったので、自分でもちょっと驚いたとともに、何かヒントになる気もしました。
 何事も評価しなければいいんじゃない?評価するからしんどくなる。
 その後、その時のように評価しないでいることがちょくちょくありました。頭が悪いけれど、あんなに頭の切れる人になれるわけでもなし、これはこれで仕方ないとか、ある人から好かれていないということについて、だから価値のない人間というわけではない、とか。
 単なる勘違いというか、別にどうということはなく、悟りなんてものでも到底なく、しばらくしたら忘れ去ってしまう事柄だとは思うんですが、ちょっと書いておきたいと思いました。

花を購入

2008-11-26 19:55:06 | 森田療法の実践
 会社からの帰り、花屋さんがあったので、花を買ってきました。ワンルームマンションの部屋が雑風景で、なんか緑が欲しかったのです。
 何か生物があると嬉しい気がします。花については全然詳しくないので、店頭にあった花を適当に選びました。ちょっとお店の人には相談しましたが。
 帰ってから花言葉を見ると「恋心」とありました。単身赴任の私にはどんなもんかと思う花言葉ですが、まあいいでしょう。
 森田の実践のために買ったわけではないですが、花を育てるのも少しは手間のかかること。こういうものに手間をかけるというのも、大事な気がします。

森田療法入門(上) 水谷啓二編 はじめに

2008-11-24 20:42:24 | 水谷啓二先生の本
 水谷先生の「森田療法入門(上)」の「はじめに」を水谷先生が書かれている。
 『森田正馬先生が身をもって私どもに教えられた道は、一見きわめて平凡ながら、「日に新に、日日に新たに、又非に新なり」といわれるように、日に日に新しい人生を生き、たえず自らも向上するとともに、周囲の人びとをも向上させてゆく道である。』(p.3)

 『ちかごろの学校教育も、家庭教育のやり方も、言語やテレビの映像や記号など、きわめて観念的なものに依存しすぎているが、先生は何よりも実行と実生活を重んぜられ、「ことばよりも気合い、気合いよりも実行がたいせつである。」と強調された。このごろ、戦後の学校教育の誤りが社会的にも大きな問題となってきているが、先生はすでに戦前から観念偏重の教育の弊害を、きびしく指摘しておられた。「事実唯真」という先生の教えは、洋の東西を問わず・観念ばかりに振りまわされている現代の人びとが、よくよく味わい、その真髄を体験し体得しなければならないことである。もちろん理論も思想も、ときによってはきわめて重要ではあるけれども、しかしそれはあくまで動かすことのできない事実、もしくは実行によって裏づけられたものでなくてはならない。』(p.5)

 「戦後の学校教育の誤りが社会的にも大きな問題となってきている」というのはどの辺のことを指摘されているかわかりませんが、頭でっかちになってしまっているということでしょうか。
 昔に比べると、電化製品も普及して家事も楽になりました。仕事も一日中パソコンに向かっているだけというのも珍しくありません。
 バーチャルリアリティーの問題もよく議論されていますが、なるべく実生活にくっついた毎日を送りたいとは思っています。

他人のために尽くすこと

2008-11-23 23:32:42 | 考え事
 以前引用した下記の森田先生のエピソードについて考え事をしていました

『昔、森田先生のところで実際にあった話ですが、尾籠な話ながらトイレで、これは大便所のことでありますが、用便中に二本の手をムダに何も遊ばせておく手はないというわけですね。そこで前に置かれた一冊の古雑誌を、少しずつ紙をはがしてはそれを次の人が使うためにもんでおくというような作業が同時に行われたということです。これはもう今日ではほとんどすることもないですが、一つの特色のある例として申し上げておきたいのです。』(あるがままの世界 宇佐晋一著 p.58)

 森田先生の頭の中は、他人に自分ができることは何かないか、ということで一杯だったのでしょう。自分の後から入ってくる人のことが思い浮かんで、その人のために自然に古雑誌を揉んでおいた。その行動はもはや自分の症状を治すため、とかそういうことではないでしょう。
 「他人のために」ということで一杯になっている頭には、もはや「神経症」の居場所はなくなっている。
 病人で手足が動かない人でも、見舞いに来てくれた人には笑顔で応えることで、その人に安心を与えることもできる。五体満足な人ならなおさらのこと。
 いつも自分のことばかり考えていることを、ちょっとだけ誰か他の人のために振り向けてみる。そんなふうに自分の心のエネルギーの使い方が変わってくると、少し楽になるのかもしれません。
 なんか、森田先生のそういうところを見習いたいなーと思いました。でもまだ自分が楽になるための行動になってしまっているところもありますが、まあこれも仕方のないことです。

残業

2008-11-20 23:59:05 | 日々の出来事
 残業規制があって、先月は残業ゼロだったのですが、今月になって年末までに仕上げなければならない事情もあり、多少残業を命じられています。
 今日は9時40分くらいまで仕事をしていました。定時退社に慣れた体には、少々しんどく感じられました。
 仕事でも、自分の得意なところと苦手なところがあって、最近は少々苦手というかよく分からぬことをやらなくてはなりません。そういう場合にはやっぱり集中力はかなり落ちてしまいます。でもそうは言っていられない。
 不思議なことに、いつもそういう時にはそれを補完してくれるような、力強い助っ人が出てくるのです。今回もその人にはずいぶん助けられています。その人がいなかったら、今自分のやっている仕事は到底仕上げられないだろうと思います。
 本当にありがたい。
 ということで、今日は森田の本を読む時間がありませんでした。でも最近は寝る前に布団の中で先日買った「心に力がわく5つのヒント」を読んでいます。今日も読むぞー。

忽然と心の迷いがさめる

2008-11-19 21:34:31 | 水谷啓二先生の本
 『次にかかげるのは、大学を出てから二十年近くも迷いつづけたあげく、忽然として覚醒した実例である。ただし、頓悟にせよ漸悟にせよ、思い上がった自我(小我)のはからいがあるうちはまだだめであって、小我のはからいが尽きた時、はじめて<真我>あるいは<大我>の働きのすばらしさが体得されるものだ、ということを強調しておきたい。この、中年のサラリーマンは、私にあてた手紙の中で、次のようにいっている。
 「(中略)以来十数年、サラリーマン生活にはいってからも、キリスト教、真宗、禅宗をはじめ、宗教哲学や宗教心理学までも、あれやこれやと勉強してきたのですが、どうしても安心を得られませんでした。また、自分のこのような状態が理解できず、心理学や精神分析の方面にも、首を突っ込んだりしました。
 十数年にわたる私の精神状態は、いわば”思考恐怖”とでも名づくべきものであると思います。哲学や宗教に救いを求めて悩んだといえば、いかにも深遠な悩みを悩んでいたかのように思われますが、実際には非現実的な観念の世界で、悪循環におちいっていた、というにすぎません。私はこの思考の悪循環を断ち切るのに、ずいぶん苦労しました。
 ところで私は、二年ほど前に、十三年勤めていた前の会社を辞めて、今の会社に就職しました。そして新しい環境にも慣れないうちに、一昨年の六月、胆石の手術を受けました。その結果、肉体的にも精神的にも、大きな負担にたえていかなくてはならない状態に追い込まれたのです。また例の煩悶(思考恐怖)が起こってきました。私は二十年前にもどって、むかしとくに印象の深かった本を、もう一度読み返してみました。そして昨年暮、森田正馬博士や水谷先生のものを、じっくりと熟読しました。そして、二十年来の迷妄から、忽然として覚醒させられたのです。われわれには、”生の欲望”のあるかぎり、喜びや楽しみとともに、悲しみや苦しみや悩みのあるのは、当然であることを知りました。われわれは、この”生の欲望”のままに、自己本来の生を生きる以外にはないのです。親鸞上人のお教えを、今ほどしみじみと味得できたことはありません。」』(「あるがままに生きる」水谷啓二著 p.121)

 覚醒するのに、20年かかった人もいるし、すぐ悟る人もいる。私なんかも、この体験の方のように迷妄の時期が長い類になる。
 気長にいきましょう。

三昧の境地

2008-11-18 23:50:35 | 水谷啓二先生の本
 『晩になってから、師範のところへ行くと、線香に火をつけて、「これを的のところに立ててこい」といわれる。暗いけれども、線香の光で、的の位置だけはかすかにわかる。そこで師範は、矢を二本射て、「とってこい」といわれるから、とりにいってみるとおどろくべし、初めの一本はたしかに的にあたり、二本目は前の矢の矢筈を射て、矢が二本重なっているのである。師範はいった。「これを君はどう解釈する。奇跡というのか、偶然というのか、君は狙う狙うというが、こんな暗いところで狙えるか。初めの矢は、線香の明りで的の位置がわかるから、狙ったといわれてもしかたがない。次の矢が、前の矢の黒い矢筈に当たったのも狙ったのか。わしは狙ったのではない。的と自分が一つになれば的が当たるんだ、というのはこのことだ。」
 的を狙うのではなく、的と自分が一つになれば、当てようと思わなくとも、的があたるのである。それが三昧である。それと同じように、仕事と自分が一つになれば、うまくやろうと思わなくても、ひとりでに仕事はうまくゆくのである。試験勉強でも、勉強と自分が一つになれば、成績もおのずから向上して、難関を突破することができるのである。』(「あるがままに生きる」水谷啓二著 p.132)

 森田理論では、「物そのものになる」ということをいいますが、私の解釈では「三昧」ということと同じだと思います。水谷先生もそうお考えのようです。

 ひとつひとつの行動を大事にして、だんだんそのことに夢中になっていると、もはや悩みとかそういうものはその瞬間だけはどこかにいってしまっている。「物そのものになる」という経験は大事だと思います。好きなことに没頭するのも又然り。

 何かそういうものがひとつでもふたつでも経験できればいいですね。究極的には日常生活がすべて三昧になることかもしれませんが、まあそれも無理なので、まずは色々手を出すところからやっています。色々やっていると、いつの間にか夢中になっている時もあります。

「なげださない」 鎌田實著

2008-11-17 20:15:32 | 読書感想
 鎌田さんの本を読む。これで3冊目。
 『ぼくがこれまでに感銘を受けた患者さんや知人たちのエピソードを交えながら、一生懸命話したけれど、子どもたちの表情はかたい。結局、手ごたえを感じられないまま授業が終わってしまった。中学生にとって死はむずかしすぎたかな、失敗だったなと後悔した。でも、それは、ぼくの早とちりだったらしい。』(p.48)
 
 鎌田さんの思いとは裏腹に生徒達の感想は<ためになった><もう死にたいなんて思わない>などと肯定的だった。

 私も人前で色々話をする機会がある。準備を色々して話しても、手ごたえを感じられずに、ああ失敗だったと後悔することも多い。けれど実際のところ、案外聞いてくださっている方は肯定的に受け止めてくださっているのかもしれない。
 鎌田さんでもそんなふうに受け止めることがあるのか~、とちょっと意外と思うと同時に、みんな同じような思いを持っているんだと安心した。

 この本には色んな人が登場する。アルコール依存症で、40代後半に、家も家庭も失ってしまったヒロさん。ガンを告知された男性(睾丸の摘出手術を受けたばかり)に「結婚しよう」と申し出たミサコさん。被爆して上半身にひどいヤケドを負ったシゲコさん・・・。

 色々な苦しみの中で生きている人がいる。こういう人の存在に気づくというのも、またとらわれからの解放になるのだろう。自覚を深めることにもなる。

 いろんな人の生き方を、鎌田さんの本は伝えてくれている。

 『心がつらいときほど、日常的なことをていねいにやっていくことが大切だと、ぼくは思っている。日常の持つ力は大きい。病院の中では、いくら「闘うんだ」と自分に言い聞かせてもわいてこなかったエネルギーが、日々の営みを通して生まれてくる。炊きたてのご飯やみそ汁のにおい、掃除機や洗濯機の音、気のおけない相手とのおしゃべり・・・毎日の当たり前の光や音やにおいが脳にはたらきかけ、生きる力を引き出してくれる。』(p.53)