内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

忽然と心の迷いがさめる

2008-11-19 21:34:31 | 水谷啓二先生の本
 『次にかかげるのは、大学を出てから二十年近くも迷いつづけたあげく、忽然として覚醒した実例である。ただし、頓悟にせよ漸悟にせよ、思い上がった自我(小我)のはからいがあるうちはまだだめであって、小我のはからいが尽きた時、はじめて<真我>あるいは<大我>の働きのすばらしさが体得されるものだ、ということを強調しておきたい。この、中年のサラリーマンは、私にあてた手紙の中で、次のようにいっている。
 「(中略)以来十数年、サラリーマン生活にはいってからも、キリスト教、真宗、禅宗をはじめ、宗教哲学や宗教心理学までも、あれやこれやと勉強してきたのですが、どうしても安心を得られませんでした。また、自分のこのような状態が理解できず、心理学や精神分析の方面にも、首を突っ込んだりしました。
 十数年にわたる私の精神状態は、いわば”思考恐怖”とでも名づくべきものであると思います。哲学や宗教に救いを求めて悩んだといえば、いかにも深遠な悩みを悩んでいたかのように思われますが、実際には非現実的な観念の世界で、悪循環におちいっていた、というにすぎません。私はこの思考の悪循環を断ち切るのに、ずいぶん苦労しました。
 ところで私は、二年ほど前に、十三年勤めていた前の会社を辞めて、今の会社に就職しました。そして新しい環境にも慣れないうちに、一昨年の六月、胆石の手術を受けました。その結果、肉体的にも精神的にも、大きな負担にたえていかなくてはならない状態に追い込まれたのです。また例の煩悶(思考恐怖)が起こってきました。私は二十年前にもどって、むかしとくに印象の深かった本を、もう一度読み返してみました。そして昨年暮、森田正馬博士や水谷先生のものを、じっくりと熟読しました。そして、二十年来の迷妄から、忽然として覚醒させられたのです。われわれには、”生の欲望”のあるかぎり、喜びや楽しみとともに、悲しみや苦しみや悩みのあるのは、当然であることを知りました。われわれは、この”生の欲望”のままに、自己本来の生を生きる以外にはないのです。親鸞上人のお教えを、今ほどしみじみと味得できたことはありません。」』(「あるがままに生きる」水谷啓二著 p.121)

 覚醒するのに、20年かかった人もいるし、すぐ悟る人もいる。私なんかも、この体験の方のように迷妄の時期が長い類になる。
 気長にいきましょう。

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