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内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

とらわれからの解放

2012-03-09 20:46:02 | 森田理論
生活の発見会誌 『生涯学習としても「森田」』

『ところで、神経質の「とらわれからの解放」とは、
どういう状態をさすのであろうか。

これについて正馬はおよそ、軽快と全治(あるいは根治)に
分けておられる。
まず軽快とは、不安はあっても、
なんとか日常生活・社会生活が続けられる状態。
そのうえで全治とは、自分自身のこころの動きを、
そのまま尊重することができる状態。
そのようにいうことができるだろう。』(p.40)

私の場合には、もう20年以上にわたって、
この「軽快」の状態が続いている。
「軽快」の中でも、浮き沈みはあるものの、
なんとか社会生活は遅れている。

全治・根治は、まだまだ先だなあという感じがしている。
ただし、どうなれば全治といえるのか、
定義がはっきりしているわけではないだろうから、
自分で正しく判断できるかどうかはわからない。

「そのまま尊重する」
という、この「尊重」という言葉が
いいな、と思った。

本当の大悟徹底

2012-03-06 22:21:40 | 森田理論
生活の発見会誌 『生涯としての「森田」』の中で
引用されていた森田先生のことば。

『ほんとうの大悟徹底は、
恐れるべきを恐れ、
逃げるべきを逃げ、
落ち着くべきを落ち着くので、
臨機応変ピッタリと人生に適応し、
あてはまっていくのをいい、
人間そのものになりきったありさまをいうのである。』

森田療法を一言でいうと、
まさにそういうことだなあと思いました。

森田療法のセミナー

2008-07-19 23:07:49 | 森田理論
 本日、「不安とうつの森田療法」というテーマのセミナーがありましたので、参加してきました。講演内容は以下の通りです。
 「森田療法とはどういう治療法か」  
 「うつ病と森田療法」        
 「女性のライフサイクルと森田療法」 

 定員は100名先着順ということでしたが、すぐに会場は一杯になってしまい、80人ほどお断りしたのだそうです。不安、うつに悩まれている方が多いということなのでしょうか。
 内容はとてもためになりました。最初は森田療法の紹介みたいなお話でした。森田の本は色々読んではいましたが、改めて基本的なところを話していただだけると、頭の中が整理された気がしました。講演の後に、認知療法との差はどこにあるのかというような質問が出ました。共通するところも多いけれども、違いとしては、例えば認知療法では考え方を修正しようとするけれども、森田療法では考え方はそのままにしておくということ。認知療法では、汚いものを触れるように、汚れの程度の軽いものから触れていって慣らすということをするけれども、森田療法では、生活の中で必要ならば汚いものに触れるということはあっても、あえてその症状に焦点をあてるのではなく、生活の幅全体を広げてようにするというようなことでした。質問に答えられた先生の的確な説明をうまく表現できなくて申し訳ないのですけれども。いずれにしても、私自身としては、やはり森田療法の考え方のほうがしっくりします。
 次の「うつ病と森田療法」の講演については、うつにも森田療法を使える部分が多いということで、その内容を話してくださいました。
 最後の「女性のライフサイクルと森田療法」では、「自分は子供への愛情を失ってしまったのではないか」という質問に対して森田先生がどのようにお答えになったかということを紹介してくださいました。お菓子が好きな人でも、お腹一杯の時には見るのも嫌になることがあるように、愛情を無理に起こそうとすれば悲観することになってしまう、というような返答をされたのだそうです。これもなるほどなあと思いました。
 とても勉強になるセミナーでした。

増野肇先生の講演会

2008-06-16 00:05:10 | 森田理論
 本日、増野肇先生の講演会に行ってきました。森田療法関係の本は色々読んでいましたが、増野先生ことはいままで存じ上げていませんでした。直接お話を聴くと、すごく感化されますね。本を読むだけとは大違いです。今日は増野先生の魅力に取り付かれてしまいました。
 本日の講演会があるからということで、事前に少し先生のことをわかっておきたいと思って、先生の本を1冊買っていました。本日、2冊目(森田式カウンセリングの実際)を早速追加注文しました。
 本日の話の中心は森田療法ではなく、統合失調症の方に回りの人がどう対応するか、というような話が中心だったと思います。昔は統合失調症の人には森田療法は使えないということでしたが、今は統合失調症もストレスが原因になっていることがあることがわかってきたため、ある程度効果がある、というような話もされていました。
 一番印象に残ったのは、患者さんの回りの人-それは家族のことが多いと思いますが-が大丈夫だよ、なんとかなるよと受け止めている場合と、さあ大変だ、どうしようと患者と一緒になって騒いでしまう場合と、患者の治り方にとても大きな違いが出るということでした。大事なことは、まず患者に対して「安心を贈る」ことだそうです。「贈る」という字を書いたように、これは患者に対するプレゼント。安心を与えてから薬を与えたほうが効き方にもすごく違いが出るのだそうです。
 2番目に印象に残ったのは、セルフヘルプグループが重要性であるという話。森田療法の場合には、生活の発見会というセルフヘルプのグループがあって全国で活動しています。地域にこういう集まりがあると、不安な人はそこを足がかりとして活動していける。患者さんにとって、それは大事な存在だということでした。

 お話が終わった後に、質問の時間がありました。今、治療を受けている方からの質問も多かったのですが、その時に先生が「何か趣味をお持ちですか?」とか「楽しみを持っていますか?」というようなことを逆に質問されていました。森田療法の応用として、「生きがい療法」というのも生まれていますが、楽しいことをやると免疫力も高くなって、癌の進行も遅くなったりする場合もあるそうなのです。統合失調症の改善にも役に立つようです。楽しむことの大事さを教えていただいた気がします。

 今日は行って良かったです。

今を生きる

2006-07-04 21:17:53 | 森田理論
 昨日、投稿してからしばらく考えてました。結局森田療法というのは「今を生きる」ということを大事にしようとしているのではないか。そう思ったら、なんとかやっていけそうな気がしました。
 「森田理論学習の要点」(生活の発見会)という冊子の中に、「行動の原則」という章があります。
 『神経質賞にとらわれているとき、心はいつも自分の不安や心配を中心に堂々めぐりをしています。その悪循環を断ち切るために、森田療法は、心を外に向けるテクニックを使います。』(p.12)

 ①見つめ、感じる
 ②まず手を出し、動く
 ③今できることはひとつしかない
 ④取り越し苦労には時間切れを宣言する。
 ⑤初めての行動に不安はつきもの
 ⑥100%完全な行動はあり得ない
 ⑦行動にははずみがあり、リズムがある。
 ⑧感情と行動は別物
 ⑨外相ととのえば内相自ずから熟す
 ⑩物の性をつくす
 ⑪物そのものになる
 ⑫人生は事実の積み重ねである。

 神経質である私は、いつも観念的です。「あのときああすればよかった」とか、「明日の飲み会、どうしよう」とか、「あの人に嫌われている」「自分には価値がない」そんな思いでいつも一杯になっています。ということは、目の前にあるものを全然見ていないし、感じ取っていない。
 最初の「見つめ、感じる」というのは、この内向的な思考回路を脱して、外の世界に触れることを言っているのでしょう。
 まあ、今後試行錯誤しながら生きていくことになるでしょうが、まずは今の世界に触れていくことを大事にしていきたいと思います。これも、主義にしてしまうと、また「思想の矛盾」の悪循環にはまってしまうので、気をつけなくてはならないのですが。

 今日、会社で人事異動の発表がありました。私は管理職ではないけれども、とてもじゃないが管理職なんてできないと思っています。適応不安でいっぱいです。自信がない。自分は仕事ができないという強烈な劣等感を持っています。実際に仕事ができない。そんなことを思いながら、人事異動の話に耳を傾けていました。

神経症の成り立ち その2

2006-01-26 21:46:01 | 森田理論
神経症の成り立ちについて、自分なりにもう少し考えてみたいと思っています。

 もともと繊細な神経の持ち主であっても、神経症になる人もいれば、ならない人もいます。これには養育環境というのが大きく影響していると思うのです。神経症になるような人というのは、規範意識がとても強い。「~ねばならぬ」という思いです。だから自分に対して厳しいのと同様に、他人に対しても非常に厳しい。
 私はおばあちゃん子だったのですが、いつも誰かと比較をされて育ちました。テレビで偉い人が出ていると、「あのような人にならなくてはならない」とか説教をされる。自分のありのままが受け入れられているというような思いはなく、もっとしっかりと、立派な人間でないと受け入れられない、という思いがとても強かったのです。
 そのうち、自分に対する理想像は非現実的なほどに大きなものになってきました。その理想像に実際の自分がついていけない、自分は駄目な人間である、という思いが強くなってきます。自分の規範意識と実際の自分との戦いです。森田療法ではこのことを「思想の矛盾」という表現をします。いったん堂々巡りが始まると、もう自分だけの観念の世界に入ってしまって、現実が見えなくなってくる。他人がありのままの自分を受け入れてくれているのかもしれないのに、嫌っていると思ってしまう。そして現実から逃げようとする。これが神経症に至るプロセスだと思うのです。
 だとするならば、この非現実的までに膨れ上がった規範意識をなくす、堂々巡りの連鎖を切ることによって、本来の自分を取り戻すことができるのではないでしょうか。そんなことを考えています。

 「5.森田療法の目ざすところ」に次のような記載があります。
 森田療法は不安をなくそうとはしません。不安は人間性に備わった自然な感情ですから、その不安をなくす必要はないのです。
 心のからくりによって、普通以上に複雑な精神の葛藤を起こし、「症状」になってしまったものを、ただの単純な不安に戻していくのが、森田療法なのです。」
 私としては、このあたりにとても森田療法の魅力を感じるのです。仏教の教えに「法を求める者は法を求めてはならぬ」というような教えがあったかと思います。つまり不安をなくそうとすると、余計に不安から逃れられなくなる。
 森田療法では「精神交互作用」という言葉でこのことを説明しています。「ある感覚に注意を集中すれば、その感覚は鋭敏となり、この鋭くなった感覚がますます注意を固着させます。この感覚と注意が交互に作用しあって、最初の感覚は強大になっていきます。」
 世の中の心理療法を見回すと、不安を取り除こうとしているものが少なからずあるように思うのですが、不安を取り除くことが目的なのではなく、このブログのサブタイトルにもしましたが、「不安とともに生きる」ことを考えている森田療法が、なんとなく好きなのです。(でも、結局はどうしても不安を取り除こうとあたふたしてしまうんですが。)

神経症の成り立ち

2006-01-24 23:31:13 | 森田理論
 昨年の暮れ、以前紹介しました「生活の発見会」に入会しました。(入会は2回目。1989年に一度入会していたのですが、会社に入って活動を続けることができなくなり、ながらく退会していたのです。)
 会で発行している「森田理論学習の要点」という冊子があって、会員はこの冊子を中心に森田療法についての概要を勉強しています。

 この冊子の最初の章が「神経症の成り立ち」というタイトルですので、このことについて自分なりに思ったことを書いてみたいと思います。
この章には、下記のような内容で構成されています。

1.「神経症」とは何か
2.「神経症」の種類
3.症状の要因
4.症状を形成する心のメカニズム
5.森田療法の目ざすところ

 私のような対人恐怖症というのは、神経症の種類だと「強迫神経症」という分類になります。「強迫」という文字にはピンと来ないかもしれません。(私もピンと来てません。)
 神経症になるような人は、まずは不安を持ちやすい、感じやすい素質を持っているということです。その繊細さゆえに、人間にとっての自然な心理的・生理的現象を異常なものと思い、それを取り除こうとしてしまう。それを「とらわれ」と呼びます。
 私の場合には、人前で緊張するというのが主な症状です。人と接したときに、自分の緊張具合ばかりに気がいってしまいます。緊張しないように、しないようにと思うほどに緊張してしまうのです。身を固くして何も言えず、顔はこわばり、こんな自分なんて駄目だと落ち込む。そのうちに自分がひどく欠陥のある人間のように思えてくる。他人は素晴らしいのに、自分はまったく何の価値もない存在のように思ってしまう。そうなるとだんだんと社会生活から退避していってしまうことになってしまいます。

 そもそも、何でこのようなとらわれが生じるのでしょうか。私としては、やはり人にどう思われるかということで自己評価をしてしまう、その幼弱性(他社依存)にあるのではないかと思っています。自分で自分のことを評価できない。小さな子どもであれば仕方がないことかもしれませんが、大の大人がいつまでたっても相手に評価されることばかりに汲々としているというのは、精神的にはいつまでも大人になっていないということでしょう。森田療法というのは、この他者評価から自己評価への転換を図ることに一番の重きを置いていると思うのです。それができたとき、自分のとらわれから開放されるのでしょう。
 私もこんなことを考えているだけで、まだまだ迷いの中にいるわけですが、少しずつ自分を取り戻したいと思っているところです。