「あるがままに生きる」(水谷啓二著)より
『この”心身解脱”の境地を、実例をもってお話しよう。私がかねて親しくしていた三十歳になるある青年は、対人恐怖という強迫観念に苦しみ抜いたあげく、ついに心身解脱して、身も心も自由にのびのびと働けるようになった。この体験をすると、今まで自分にそういう力があると想像もしなかったような、不思議な力がこんこんとわき出てくるし、また人びとが非常になつかしく感ぜられるようになってくるものである。
私への手紙には、その模様を、次のように伝えてきている。「会社の仕事で、どうにもならないほど疲れていながらも、なおからだの動くままに全力をこめて作業をしていると、かえって疲れが消え、内部より何ともいえない甘美なものがこみ上げてきて、これぞ先生のいわれる作業三昧の境地ではないか、と思ったりしました。
そしてある晩、先生が<至道無難、唯けん択を嫌う>ということを力説されたことがありましたが、それが非常に心にひびき、一晩中床の中でそれをくり返し、我が身にどう成就されるか、と考えておりました。すると明け方になって、<このけん択を捨てること、つまりはからいを捨てることそれである>と思ったとたんに、全身を固くしていた力が、まったく脱落した状態になりました。その日は、まったく徹夜した次の日だというのに、まったく疲れをおぼえず、むしろからだを動かせば動かすほど、体内に喜びが満ち溢れるのを感じました。
この頃から、人が非常になつかしく感ぜられるようになりました。人に接する態度も、今までとはまったく異なって、自分というものを捨て切った態度で接することができるようになり、対人恐怖のとらわれはまったく影をひそめてしまいました。先生から「親を喜ばせるために、家に帰ってくるのもいいだろう」といわれ、数日家に帰ってきましたが、郷里の町が汽車の窓から見えたとき、<本当に自分は生まれ変わった>と実感させられ、涙が出て止まりませんでした。それに、帰って家族に接しても、主体性をもった自分というものを自覚させられました。そしてどこの家に行っても楽しく、みんなから歓迎されました。』(p.93)
ちょっと長い引用でした。コメントは、必要ないでしょう。
『この”心身解脱”の境地を、実例をもってお話しよう。私がかねて親しくしていた三十歳になるある青年は、対人恐怖という強迫観念に苦しみ抜いたあげく、ついに心身解脱して、身も心も自由にのびのびと働けるようになった。この体験をすると、今まで自分にそういう力があると想像もしなかったような、不思議な力がこんこんとわき出てくるし、また人びとが非常になつかしく感ぜられるようになってくるものである。
私への手紙には、その模様を、次のように伝えてきている。「会社の仕事で、どうにもならないほど疲れていながらも、なおからだの動くままに全力をこめて作業をしていると、かえって疲れが消え、内部より何ともいえない甘美なものがこみ上げてきて、これぞ先生のいわれる作業三昧の境地ではないか、と思ったりしました。
そしてある晩、先生が<至道無難、唯けん択を嫌う>ということを力説されたことがありましたが、それが非常に心にひびき、一晩中床の中でそれをくり返し、我が身にどう成就されるか、と考えておりました。すると明け方になって、<このけん択を捨てること、つまりはからいを捨てることそれである>と思ったとたんに、全身を固くしていた力が、まったく脱落した状態になりました。その日は、まったく徹夜した次の日だというのに、まったく疲れをおぼえず、むしろからだを動かせば動かすほど、体内に喜びが満ち溢れるのを感じました。
この頃から、人が非常になつかしく感ぜられるようになりました。人に接する態度も、今までとはまったく異なって、自分というものを捨て切った態度で接することができるようになり、対人恐怖のとらわれはまったく影をひそめてしまいました。先生から「親を喜ばせるために、家に帰ってくるのもいいだろう」といわれ、数日家に帰ってきましたが、郷里の町が汽車の窓から見えたとき、<本当に自分は生まれ変わった>と実感させられ、涙が出て止まりませんでした。それに、帰って家族に接しても、主体性をもった自分というものを自覚させられました。そしてどこの家に行っても楽しく、みんなから歓迎されました。』(p.93)
ちょっと長い引用でした。コメントは、必要ないでしょう。