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内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

対人恐怖症が治ること

2011-05-03 13:41:18 | 森田正馬先生の本
毎月、生活の発見会から冊子が送られてくる。
その中で、「私流・森田の読み方」というコーナーがある。
そこに下記のような文章が引用されていた。

『ここで対人恐怖などで、自分の病気が治らないと主張する人は、
いつまでたっても、決して治る時節はこない。
その人は、いくら仕事ができるようになっても、
演説ができても、決してよくなったとはいわない。
いつまでも、人前で恥ずかしい、思う事がスラスラと
いえないかといい張る。
それは夏は暑い、冬は寒いと同様に、
いつまでたっても、どうすることもできない
という事に気がつかないのである。
神経症の症状の治ると治らないとの境は、
苦痛をなくしよう、逃れようとする間は、
十年でも二十年でも決して治らぬが、
苦痛はこれをどうする事もできぬ、
しかたがないと知り分け、
往生した時は、その日から治るのである。
すなわち「逃げようとする」か
「踏みとどまるか」かが治ると治らぬとの境である。』
(森田正馬全集第5巻 p.389)

結局、これも欲を持たないということと
つながってくるのではないでしょうか。

「往生する」とは、妄想の世界から
現実の世界に戻ってくるということでしょう。

私もいまだに対人緊張・対人恐怖が治った、とは言えない。
緊張することについては、昔とあんまり変わらない。
「治したい」という気持ちもまだある。

でも、昔よりも「治したい」という気持ちは
少なくなってきている。

森田療法でいうと、症状のことばかり気にしていても仕方なく、
それは誰にでもあることだから、無くすことはできないと往生して
なすべきことをやりなさいということになる。

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自覚を深めるためには

2008-12-04 01:18:56 | 森田正馬先生の本
 『再び神経質の説明に戻ります。神経質が、頭痛・不眠・胃アトニー・強迫観念から楽になりたい・解脱したいということは、その本人が徒らに憂き身をやつしてその事にのみ没頭している間は、その事の是非の見さかいはつかなくなりますが、私の修養療法で暫くやっていると間もなく、不眠に悩むのは翌日の勉強ができないため、強迫観念に悩むのは自分の人生に対する最善の努力の出来ないことを苦にするがためである・ということの自覚が現れてきます。それから間もなく、其の自覚をもととしてその目的に向かって進み、自分の活動欲のためには、これまでとらわれていた気分の苦悩を無視するようになり、ついには相対性原理により欲望と苦悩とが調和すること・恰かも千円の報酬の喜びと、それに対する努力の苦しみとが相当して、敢えて殊更に自分の苦悩の方面のみを高調することがなくなるようになるのと同様であります。』(森田療法入門(上) 水谷啓二編 p.65)

 これは森田先生の言葉ですが、何かヒントを得たような気がしました。自覚というと漠然として、どう自覚していいのかわからないところがありますが、つまりは何か苦しみがあった場合、なぜその苦しみがあるのかというところをもう少し深く探ってみる。その時の態度としては、批評なく事実を事実として見る、事実本位ということが大切なのかもしれません。

「あるがまま」は母親の愛情?

2008-11-02 22:45:11 | 森田正馬先生の本
 毎月送られてくる生活の発見会の会誌の中で、森田先生の本の抜粋がありました。
 『面白い話も出ないようだから、入院患者の日記を一つ批評してみます。日記に、「夜は『事実唯真』の彫刻をする。興味が起こらず、居眠りを催す。小刀を動かすだけで、時間のくるのを待つにすぎない。困ったものなり」と書いてある。これに対して、赤字の批評「それでよし。当然のこと」とある。次に、「第十日。寝床に束縛を感じたが、思い切って起きた。一日熱のない仕事ぶり、他の人がやっているから、やるというに過ぎぬ・・・・」評「それで上等。これを従順という」としてある。
 昼間一日働いて、夜疲れて、眠くなり、彫刻をしても、身が入らない。それはその時と場合とにおける心の状況であって、腹のへらない時に、食が進まないと同様である。なんともしかたがない。この時に身が入らなくてはいけないとか、食が進まなくてはならないとかいって、我と我心に反抗して、自分の心をやりくりしようとするのを「心が内向く」といい、「自然に服従しない」というのであって、この反抗心が、心の葛藤となって、強迫観念の元となるのである。
 次に「時間来るのを待つ」というのは、いやいやながら、よく入院規則を守るのであって、これを従順というのである。それで自分の心に反抗せずに、素直に規則を守っていさえすれば、腹のへるべき時はへり、興味の起こるべき時にはおこってくるのである。
 仕事に熱がない。興味の起こらない時には、ただ規則に示された通りに、他人の真似なり仕事のふりをしていてもよい。ただ規則にしたがっていさえすれば従順である。また腹はへらなくとも、イリ豆をちょいちょいつまんでいるうちに、いやいやながらやっているうちに、ツイツイ身が入って、興に乗ってくるようになる。この辺の気合を体得してもらわなければならない。(『森田正馬全集第5巻396頁上上段8行~下段11行』)』

 森田先生の「あるがまま」というのは、母親の愛情のようなものに思えました。父親の「かくあるべし」というような厳しさはなく、そのままを受け入れてくれるのが「あるがまま」。
 小刀を動かすだけで、全然集中していない子どもがいたとしたら、父親はちゃんとやれと叱るかもしれません。しかし、母親は子どもが昼間色々作業をして疲れているのをちゃんと知っていて、そのことを攻めずに優しく見守ってあげるかもしれません。
 自分自身に対しても、厳しい父親の態度をとるのではなく、このように愛情のある母親の態度で接することが重要に思えました。
 

悟り

2008-10-19 22:40:44 | 森田正馬先生の本
『患者の中には、まれには急に悟りがひらけたように自分の強迫観念がまったく迷妄であったということを自得することがある。ある二十四歳の男で、二、三年前から読書恐怖と計算恐怖とがあってまったく読書、計算不能であった。この患者は私の特殊療法第三期で、入院後二十一日目にまき割り中、おのを振りあげた拍子に、たちまち電光石火のように、パッと悟ったことがある。患者は喜びのあまり早速自分の部屋に入り、その心境を吟味してなお記録しておこうと思って瞑想したところが、思いがけなく、それが従来私からきいている説得とぴったり合ったとのことである。これによっても理論から出発して自己の心境をこれに当てはめようとすれば、思想の矛盾となり、悪智となるのであるが、ある実際の体験または私のいう「純な心」から出発して、正しくこれを叙述、批判することができたならば、それが良智であるということがわかるであろう。悪智をもってすれば、どうしてもわかることのできないことが、良智になれば、間一髪容易に明りょうとなるものである。』(神経質の本態と療法p.143)

 何かこういう悟り方にあこがれてしまうのですが、森田先生自身が書かれているように、「まれ」なのかもしれません。

 『治癒したあとの患者の心境は、常に患者が告白するように、「夢がさめたような」とか、「夜が明けたような」とか、「世界が変わったような」とかいうように自覚する。また既往の異常時のことを追憶して夢のように感じ、あるいは、なぜあのような考えを起こしていたか、自分で不思議でならないとかいうような患者もある。こうなって患者は、はじめてよく、「夢のうちの有無は、有無共に無なり、迷いのうちの是非は、是非共に非なり」ということを適切に自得するようになる。参同契の語に、「触目、道を会せずんば、足を進むるも、いずくんぞ路を知らん。歩を運ぶは、遠近にあらず、迷っては、山河の固を隔つ」ということがある。「悟り」なり、良智なりは、すぐ目前の日常現実の体得にあって、思想の矛盾から出発したときには、あるいは悟ったと思い、解決したと信じても、それは常に迷いのうちから脱することができないのである。』(神経質の本態と療法p.143)

 悟りは「すぐ目前の日常現実の体得」にあるそうですよ。モーリス・メーテルリンク作の童話「青い鳥」の世界みたいですね。

私の神経質療法に成功するまで(神経質の本態と療法)

2008-10-18 00:58:26 | 森田正馬先生の本
『作業療法は、神経症にはもっとも大切なものである。しかし私の治療法からいえば、外形から見て単に仕事をするということとは非常に違っている。また気がまぎれるとか(精神発散とか感情転換療法と呼ばれるもの)、精神が統一するとか、意思を鍛錬するとかいうこととも違う。これを簡単にいうことは難しいが、精神の自発的活動とか、自分自身を自覚するとか、現在の境涯に服従し、自然に適応するという意味になるのである。(中略)
 私の現在の作業療法は、以前よりはだんだんに細かな規定がなくなり、その場にのぞんで自由に活動するように変化してきた。また前には木工の細工など、材料を与えてやらせたものであるが、これも患者がそのためにかえって気をまぎらし、暇つぶし、遊戯気分となるということが有害になるのである。たとえば患者が何もすることがなくて退屈のために仕事場で、使いものにもならぬ箱を作ったり、興味もないのに彫刻をするということよりも、チリトリが破損したから修繕するとか、下駄のハナオが切れたからなおすということの方が有効である。作業は常に臨機自由であって、その周囲の環境に適切でなければいけない。これが心身の自発活動によって、各人のその実際生活に適応する力を養成するのである。』(神経質の本態と療法p.166~167)

 森田先生は、「自発的」というのをよく言われますね。例えば仕事を頼む場合に、「これを*月*日までにやってください。」という指示はあまり良くないとされています。前にある心理学のセミナーで教えてもらいました。その場合、期限が守られなかったり、仕事の質が悪かったりする。それ以前にやる人が「やらされ感」でやっているから、モチベーションもあがらないでしょう。そうではなくて、色々お互いに話しあって、最終的にはやる本人に期限を決めてもらう。もちろんいつまでに仕事を仕上げなければならないという期日は決まっているから、それを無視して相手に任せるというのではなく、こういう事情でここまでに仕上げなければならないという状況も十分に説明する。その上で「では*月*日に仕上げます」と相手に言ってもらう。決めてもらう。そうすると、仕上げる日時は相手に言われようが自分で決めようが変わらないものの、やる本人は期限の決定に自分も関与しているという責任を持っているから、やることに真剣になる。自発的に取り組むことになる。前者だと、言われたからやるというように、まるっきり仕事に対する取り組み方が違ってきてしまう。ちょっと森田と離れましたが、このように相手が「自発的」に仕事・作業に取り組むためにどうしたらいいかということも、指示する側がある程度考える必要があると思います。
 森田先生は、患者の自発的に取り組むために、入院当初は、患者に何もさせないということをしますね。やるなと言われると、やりたくなってしまう。この人間の自然法則を実にうまく使っていると思います。


説得療法

2008-10-17 01:20:37 | 森田正馬先生の本
 『説得療法とは、神経症または精神病で考えの間違っているものに対して論理的説得により、またはおのおのその場合に応じ、機知をもって患者の心機を一転させて、病を治そうとするものである。(中略)すでに強迫観念と診断されるようなものであれば、こんな理屈でけっして治るものではない。もしそれが治ったとすれば、それは誤解による取越苦労ぐらいのものであったに違いない。(中略)強迫観念そのものは、ますます他の方向に発展して、ヒポコンドリー性感情は、いよいよその他の種々の身体的、または精神的異常感覚に対して、その恐怖性を養うことになり、その感情はいつもこれを刺げきし、とらわれることによって、その執着を強めるようになる。』(神経質の本態と療法 p.145)

 患者を論理的に説得しようという説得療法は、効果があがらないばかりか、余計な弊害をもたらすものであることを指摘されています。

 次の言葉が非常に重要と思います。

 『もともと神経質の種々の症状や強迫観念は、はじめある感覚や事実からヒポコンドリー性に、これに対する予期の心配、恐怖、不安の感情をもととして、その後これに対する種々の誤った思想を加えて発展したものである。つまり感情はその基礎であって、思想は二次的のものである。それ故に強迫観念の治療には、まずその感情に対して着眼しなければならない。随意筋はその名のように、私たちが自分の意思に従って、論理のままに支配することができるけれども、平滑筋も感情も、私たちの意のままにすることはできないのである。』(p.146)

 「感情に対して着眼しなければならない」けれども、その「感情も、私たちの意のままにすることはできない」。つまり宇佐先生がよく言われるように論理の通じない世界である、ということ。いくら頭で理解したところで、わかっていてもやめられないというように、意のままになるものではないということでしょう。論理的に諭されても、それで強迫観念が治るというものではない。では森田先生はどのようになさるのか。

 『このような時、まず第一に、この感情を打破する方法は何であるかといえば、それは不安定な人生に、あるがままに服従するということである。人は病の器であるから、いつどんな病気にかかるかも知れないということを悟ることにある。すなわち病気の恐怖が苦しくても忍耐し、毎日のなすべきことをなし、さらに自分の人生の欲望を追って進んでゆけばよいということになる。いいかえれば、思想の矛盾を去り、感情の事実にあるがままに服従し、これにたえ忍んで、いたずらにその感情を閉塞し、排除しようとする工夫と努力とを廃さねばならない』(p.148)

 ちょっと抽象的な表現にはなっていますが、結局は自分の意のままにできない心は放っておいて、毎日のなすべきことをなす、ということになってしまいます。
宇佐先生が「森田療法が勇ましくない、パッとしない指導ぶりで、もっと何とかならないかと思われるかもしれません」と書かれていましたが、確かにぱっとしないところはあると思います。ただ宇佐先生は続いて、「が、一番これが具体的で実際に即しております。」と書かれています。

 説得療法も必ずしも駄目なのではなくて、『各場合場合に患者の知識程度に従って説得する。また入院患者は、その実地の体験をもとにして臨機応変の説得療法を試みる』(p.156)ということです。つまりは、やはり「実地の体験」がまず必要ということになりそうです。

強迫観念症の療法

2008-10-16 00:27:54 | 森田正馬先生の本
 再び、「神経質の本態と療法」(白揚社)に戻ります。

『本療法の着眼点は、まず第一にその複雑な精神の葛藤を去って、これを単純な苦痛または恐怖に還元するということにある。すなわち患者に対して、「単にそのまあるがままに忍耐せよ」とか、「苦痛、恐怖を否定するとか、これを避けようとし、気をまぎらすとか、忘れようとしてはならない」という精神的態度を教えて、これを実行する手段を教えるのである。(中略)
 およそ強迫観念の患者は、常に自己の恐怖に対して、もしこれに反抗し、あるいは、これをそのままに持ちこたえているときには、ますますその恐怖をたかめ、精神の葛藤をいよいよ重くするものと誤って考え、これを予期恐怖するから、自分ひとりで恐怖に突入することはなかなか困難である。このときに医師の強い信念のある後楯があって、その医者から励まされ、命令されると、はじめてこれを決行することができる。(中略)もしひとたびこの恐怖突入を決行することができたならば、それはいわゆる捨身の心境であって、自我忘却の境涯を体得し、自然に絶対服従ということを会得することができるのである。けれども強迫観念の少し複雑なものは、いつもこのようにたやすく排除するということはできない。もし医師が患者に対して、こうすればこうなるのだと教えたことが確実に成功しなかったときには、かえって患者の心につまずきを起こすことがあるから、注意しなければならぬことである。』(p.136~140)

「自分ひとりで恐怖に突入することはなかなか困難」とありますが、医者にかかっていない人は、自分でやるしかないでしょうね。自分でやるとしたら、小さなところからやるしかないかもしれません。もし後ろ楯が必要と感じるならば、お医者さんに相談するとか、生活の発見会の集談会に出てみることも役に立つかもしれません。
 森田先生は実に患者のことをよく診ているなあという感じがします。医者も患者に恐怖突入をさせるのはある程度賭けのところもあるでしょうし、失敗したら「つまづきを起こす」こともあるということですから、難しい判断が必要になると思います。
 でも「恐怖投入するのだー」と気合を入れてやるというより、私の場合にはやる羽目になったことはやるということが恐怖突入になっているところがあります。頼まれたことをやるとか。まずはそういうことでも十分ではないかと思っています。

本療法による治療効果

2008-10-10 22:51:02 | 森田正馬先生の本
 『この療法による神経質症状の治癒は、患者は常に、それがいつ頃からよくなったか、ということを明らかに認識することができない。ちょうど、私たちが睡眠に入る瞬間を知ることができず、また物を忘れた時期を意識することができないのと同じ関係にあるものである。』(神経質の本態と療法 p.121)

 主観的に「治った」と気づくのは、ずいぶん遅れるようですね。そもそも治ったときには、治ったとか治らないとかいうことがもはや自分の中ではどうでもいいことになっており、振り返ってみれば、そうか治っているのかなと思う程度のことかもしれません。

 引き続いて、心悸亢進発作の例が書かれています。この中での森田先生が患者に対して行ったことが面白い。

 『本患者は私が往診した時、ちょうど昨夜その発作があって、今夜もまた同じ発作があるのにちがいないといって、これを期待していたので、私はこれ幸いと患者に向かい、治療の方法として、次のようなことを実行するように説得したのである。「今夜寝るときに、発作がもっとも起こりやすいという横臥位をとり、自分から進んで、その発作を起こし、しかもその位置のままに苦痛を忍耐し、かつその発作の起こり方から、全経過を熱心に詳細に観察するようにしてください。そうすれば私は、あなたの体験によって、将来けっして発作の起こらない方法をお教えする。もし今夜このために、どんなに激しい苦痛があって、徹夜するようなことがあったとしても、長い年数の苦痛と不安とを取り去ることができれば、十分忍耐するのあることである。」といったのである。患者はすぐその実行を約束したのである。
 その後私が再診した時には患者は、「その夜教えられたように実行したけれども、自分で発作を起こすことができないで、五分ほどもたたないうちに眠りに入り、翌朝まで知らなかった」とのことであった。(中略)

 私は、「これが体得である。悟りと一つである。理論や思想ではない。あなたはそのとき、ひと晩中発作の苦痛を覚悟したのである。恐怖そのもののうちに突入したのである。この時は、発作があるいは起こりはしないかという疑念もなければ、また発作からのがれようとする卑怯な心があるのでもない。これこそ発作が起こってこなかった理由である。今までは知らずしらずの間に、発作の襲来を予期してこれを押さえ、一方にはこれからのがれようとして心にまどいが生じ、いたずらに苦痛不安を増大させたのである。』(p.129)

一般神経質に対する私の特殊療法 -第四期 複雑な実際生活期-

2008-10-07 22:25:04 | 森田正馬先生の本
 『(1)読書法と外出
およそ神経質患者は、読書するにも、常に理解、記憶が悪くなった、精神が散乱して、注意の集中ができない、とか訴えるものであるが、これは実際にけっして神経衰弱のために起こるものではない。ただ価値の感と完全欲とのために、もっとも有効に読書したいという予期感情から起こることである。患者は読書するにも、心は常に現在のことに集注しないで、あるいは自分の気分の測量をし、あるいはその先々のことを考えるために、気をあせらせているのである。

(2)純な心
なお、私はこの治療中に、患者をして純な心、自己本来の性情、自分をあざむかない心というものを知らせるように導くことを注意する。純な心とは、私たち本然の感情であってこの感情の厳然たる事実を、いたずらに否定したり、ごまかしたりしないことである。私たちはまずこの事実を本として発展するのであって、善悪、是非の標準を定めて、そのあとでこれにのっとるという理想主義でなく、また自分の気分を満足させるという気分本位でもない。』(神経質の本態と療法p.116)

□気分本位
 今日はこの「自分の気分を満足させるという気分本位」という言葉がとても印象に残りました。森田先生は、この気分本意を打破しなさいとおっしゃる。私はどうしも自分の気分が良い状態であってほしいことにこだわってしまうところがある。
患者が「頭が軽くなった、精神が爽快になった」などと述べるのに対して森田先生は、「これはただ一つの自覚に過ぎない。病症ということから見れば、苦痛と同一である。」(p.114)なんておっしゃる。通常のカウンセリングかなんかに行ったら、「精神が爽快になりました!」なんて言ったら、先生はさぞかし褒めてくれるに違いない。まったく森田療法とは禅問答みたいなところがある。(そこがまた好きなのですが。)

 実は今日、少し凹んでいたのです。会社で先生役をやらなくてはならないことがあり、ほんの短い時間ではありましたが、みんなの前で説明をしました。自分ではなるべく効率的に話したつもりですが、少し端折りすぎて、みんなに理解できなかったのではないだろうか、自分の説明がたいしたものではないと思われたのではないかとか、そんな風に思えてきて、気分が塞いでしまっていたのです。これなんかはまさに「気分本位」ですよね。気分に価値を置かないこと。(自分に対する言い聞かせ) 


一般神経質に対する私の特殊療法 -第三期 重い作業療法-

2008-10-07 21:16:08 | 森田正馬先生の本
 『第二期には、主として心身の自発活動をうながすような手段をとったのであるが、第三期には、患者を指導して、知らず知らずの間に作業に対する持久忍耐力を養成し、自信を得させるとともに仕事に対する成功の喜びを反復して、勇気を養うような方針を取るのである。
 この間にも注意すべきことは、患者の仕事に対する予期考慮と、価値の感を没却することであって、自然の人間としてできることは、何でも選ばず、これをやらせることである。神経質者は、自分のすることに対して、過重の価値を得ようとする欲望のあるものであり、したがって何事に対しても常に強い予期感情をともなうようになるものである。仕事については、たとえ下駄のハナオをすげるちか、便所の肥料をくみ取るとかいうことでも、まず品格、体裁とかいう考えを打破して、子供がたださかんな活動によって、自分の機能すなわち衝動の発揮を愉快なものとするように、何事にも精神機能を発動させ、自分で工夫し、努力する。それによって自分が、およそ人のすることはどんなことでもできるという自信を得て、その仕事の成績や成功に対して快感を起こし、作業の趣味を生じ、いわゆる労働の神聖を体得するように指導するのである。』(神経質の本態と療法 p.114)

 「この間にも注意すべきことは、患者の仕事に対する予期考慮と、価値の感を没却すること」ということばが、きょうはとても印象の残りました。

 □予期考慮について。
 神経質者である私たちは、見通しを立てすぎる。将来のことを考えすぎる。山を登るにあたっては、まず頂上を見てしまう。エベレストを登ろうとする時に、麓から頂上を見上げたら、絶対登れないと思うに違いない。
 森田先生が患者に自分の容体のことを言わせない理由を書かれている。「患者が自分の病症に対して、常にみずからその経過を測量する心を打破するためには、なるべく自分の容体をいわせないようにする。」(p.114)
 自分にはできないとか、そういうことを決め付けないで手を出しなさいということなのでしょうか。
 公案に「つづら折の道をまっすぐに進む」というのがあります。これなんかが、まさに予期考慮を没却した状態と思えます。

 □価値の感
 う~ん、今まで森田先生の本を読んでいても、このことばが引っかかってこなかったです。きょうは何かすごい言葉だなーと思って読んでました。
 本を読んでも、100%それが頭に残らないと満足していなかったりしている。だから、いつも1ページ目からじっくり読み始める。いつまでたっても先に進めない。--これが学生時代の私でした。自分のやっていることからすごい価値を得ようとしてしまう。どこかにでかけても、でかけたなりの成果なり結果が得られないと憤慨してしまったりする。

 遠い先のことを考えすぎない。やることに期待しすぎない。たんたんと毎日を送る。そういうことなのでしょう。