『私の見解によれば、神経質の療法は当然、精神的療法であって、その着眼点は、ヒポコンドリー性基調に対する陶冶または鍛錬療法と、精神交互作用に対する破壊または除去療法でなければならない』(神経質の本態と療法 p.73)
『思想の矛盾とは、かくありたい、こうならねばならぬと思想すること、事実すなわち、その予想する結果とが反対になり、矛盾することに対して、私が仮に名づけたものである。』(p.74)
思想の矛盾ということが、心底わかったら、それだけで神経症は治ってしまうのかもしれません。説明を読んで、なるほどと思いますが、ではどうしたらいいのかということになるかと思います。
『以上述べたことから、神経質の療法については、この思想の矛盾を打破すべきことが、一面の着眼点でなくてはならないことを知るべきである。それなら、この思想の矛盾は、どうしてこれを打破することができるか。一言でいえば、いたずらに人工の拙策を放棄して、自然に服従すべしということである。』(p.86)
人間は言葉を持つことによって文明を築き上げてきましたが、言葉の持つ弊害というのが、まさにこの思想の矛盾なのではないかと思っています。つまり、言葉によって実際にないものを作り上げてしまう。猿や犬には神経症はなさそうです。神経症という面からすると、猿や犬などの動物を見習ったほうがいいのかもしれません。(もっと小さな蟻とかもまた然り)
禅で一番大事なのは「莫妄想」だと聞きます。坐禅によって妄想を断ち切るのでしょうか。しかし凡人である私達は、坐禅の代わりに行動によって妄想を断ち切る。それが森田療法なのではないか。今はそのように捉えています。禅と森田療法というのは相通ずるものがあると思います。自分だけの理解で申し訳ないのですが、莫妄想と絡めると思想の矛盾が自分には理解しやすいのです。(莫妄想の説明がなくて申し訳ないですが。)
『このように私たちの思想の矛盾の多いことは、もっぱら思想が、体験的、主観的の事実と一致せず、これを客観化して、いたずらに外界に投影、拡張して、ますます事実と遠ざかるようになったためではなかろうか。禅で悪智と称するのも、たぶん、このようなことであろうかと思われる。』(p.86)
『思想の矛盾とは、かくありたい、こうならねばならぬと思想すること、事実すなわち、その予想する結果とが反対になり、矛盾することに対して、私が仮に名づけたものである。』(p.74)
思想の矛盾ということが、心底わかったら、それだけで神経症は治ってしまうのかもしれません。説明を読んで、なるほどと思いますが、ではどうしたらいいのかということになるかと思います。
『以上述べたことから、神経質の療法については、この思想の矛盾を打破すべきことが、一面の着眼点でなくてはならないことを知るべきである。それなら、この思想の矛盾は、どうしてこれを打破することができるか。一言でいえば、いたずらに人工の拙策を放棄して、自然に服従すべしということである。』(p.86)
人間は言葉を持つことによって文明を築き上げてきましたが、言葉の持つ弊害というのが、まさにこの思想の矛盾なのではないかと思っています。つまり、言葉によって実際にないものを作り上げてしまう。猿や犬には神経症はなさそうです。神経症という面からすると、猿や犬などの動物を見習ったほうがいいのかもしれません。(もっと小さな蟻とかもまた然り)
禅で一番大事なのは「莫妄想」だと聞きます。坐禅によって妄想を断ち切るのでしょうか。しかし凡人である私達は、坐禅の代わりに行動によって妄想を断ち切る。それが森田療法なのではないか。今はそのように捉えています。禅と森田療法というのは相通ずるものがあると思います。自分だけの理解で申し訳ないのですが、莫妄想と絡めると思想の矛盾が自分には理解しやすいのです。(莫妄想の説明がなくて申し訳ないですが。)
『このように私たちの思想の矛盾の多いことは、もっぱら思想が、体験的、主観的の事実と一致せず、これを客観化して、いたずらに外界に投影、拡張して、ますます事実と遠ざかるようになったためではなかろうか。禅で悪智と称するのも、たぶん、このようなことであろうかと思われる。』(p.86)