内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

神経質の療法 -思想の矛盾-

2008-09-30 19:21:56 | 森田正馬先生の本
 『私の見解によれば、神経質の療法は当然、精神的療法であって、その着眼点は、ヒポコンドリー性基調に対する陶冶または鍛錬療法と、精神交互作用に対する破壊または除去療法でなければならない』(神経質の本態と療法 p.73)

『思想の矛盾とは、かくありたい、こうならねばならぬと思想すること、事実すなわち、その予想する結果とが反対になり、矛盾することに対して、私が仮に名づけたものである。』(p.74)

 思想の矛盾ということが、心底わかったら、それだけで神経症は治ってしまうのかもしれません。説明を読んで、なるほどと思いますが、ではどうしたらいいのかということになるかと思います。

 『以上述べたことから、神経質の療法については、この思想の矛盾を打破すべきことが、一面の着眼点でなくてはならないことを知るべきである。それなら、この思想の矛盾は、どうしてこれを打破することができるか。一言でいえば、いたずらに人工の拙策を放棄して、自然に服従すべしということである。』(p.86)

 人間は言葉を持つことによって文明を築き上げてきましたが、言葉の持つ弊害というのが、まさにこの思想の矛盾なのではないかと思っています。つまり、言葉によって実際にないものを作り上げてしまう。猿や犬には神経症はなさそうです。神経症という面からすると、猿や犬などの動物を見習ったほうがいいのかもしれません。(もっと小さな蟻とかもまた然り)
 禅で一番大事なのは「莫妄想」だと聞きます。坐禅によって妄想を断ち切るのでしょうか。しかし凡人である私達は、坐禅の代わりに行動によって妄想を断ち切る。それが森田療法なのではないか。今はそのように捉えています。禅と森田療法というのは相通ずるものがあると思います。自分だけの理解で申し訳ないのですが、莫妄想と絡めると思想の矛盾が自分には理解しやすいのです。(莫妄想の説明がなくて申し訳ないですが。)

 『このように私たちの思想の矛盾の多いことは、もっぱら思想が、体験的、主観的の事実と一致せず、これを客観化して、いたずらに外界に投影、拡張して、ますます事実と遠ざかるようになったためではなかろうか。禅で悪智と称するのも、たぶん、このようなことであろうかと思われる。』(p.86)

寝つき

2008-09-30 06:42:16 | 日々の出来事
 私は寝つきはいいほうです。たまに会社で理不尽なことを言われたようなときは眠れなくなってしまうこともありますが、いつも睡眠不足気味ということもあり、大抵は横になるとすぐ寝てしまいます。
 先日インターネットで見ていたら、『生きがいの創造』の著者、飯田史彦さんが「おやすみCD」というものを販売しているのを見つけました。CDを作成中、レコーディングスタッフさえ居眠りをはじめてしまうほどの効果があると自画自賛されていました。CDには「運転中には、聴かないでくださいね」という注釈までついています。興味があったので早速購入してみました。そしてどんなにか深い眠りを得られるだろうかと楽しみにして、寝るときに枕元でCDをかけて目をつぶりました。
 5分、10分・・なんと目が冴えて眠れなくなってしまいました。寝つきが良い人は変わったことをしないで自然に寝たほうがいいみたいですね。どたなか、寝つきが悪くて困ってらっしゃる方はいらっしゃるでしょうか・・。

葛藤

2008-09-29 20:21:19 | 考え事
 9月26日の「神経質の分類」のところで森田先生の「精神の葛藤がなければ、強迫観念はない」という言葉を取り上げましたが、私自身は以前に比べてずいぶん葛藤が少なくなってきたように思います。
 例えば、職場でどうしてもでなければならない飲み会があるような場合には、昔は何日も前から憂鬱になり、「どうしよう、どうしよう」と頭の中はそのことで一杯になっていましたが、今はあまり乗り気ではないものの、心配しても仕方ない、なんとかなるでしょう、というように思ってしまっているところがあります。
 職場のことでも、昨年の年初は、入社以来一番の不安な気持ちで迎えました。職場異動があったためで、年末いったい自分はどうなっているんだろう、と将来の自分が全然見えてこない状況でした。それでも、年末を迎えたら、なんとかやれてました。こうした経験から、どうなりたいとかどうしたいという執着が少なくなってきたように思います。
 そういう意味で、生きるのが以前より大変楽になってきたということがあります。小さな恐怖突入を繰り返してきた結果でしょうか。。

神経質の原因的関係

2008-09-27 01:10:18 | 森田正馬先生の本
 『私は神経質をヒポコンドリーになりやすい気質であり、先天性の素質であるという。それならこの先天性という意味はどういうことかというに、それが遺伝原質を血統から直接に受けたものであるか、あるいは子宮内発育中に、ある事情から起こるか、または生後の疾病や養育上の関係から、この気質を得るようになるものであるかということについては、これを確定する正確な材料をまだ持たない。この研究は将来に待たなければならない。』(神経質の本態と療法 p.56)

 『丸井博士は、フロイトの精神分析法から研究を進めて、小児期の養育が神経症の発生には重大な関係があるということを唱えている。下田博士も、神経質は、小児期の不良の養育によって生成されるものであるというふうに、後天的の影響を大へん重大視している。これはもちろん、だれしも承認すべき事実である。(中略)しかしこれも、あるいは影響するというほどの相違で、本態的の区別ではなく、根本的の原因として断定ことはできないようである。』(p.57)

 『神経質の先天的素質ということについても、いろいろ軽い重いの差がある。良い境遇にあって養育も適当であっても、なお幼児から神経質性気質の著名なものがある。これに反して一方には、従来はほとんどその気質として認められるほどのものがなくて、後天的にある機械的原因から、本病を発することがある。』(p.58)

 森田先生の見解としては、はっきりとは断言できないにしても、神経症になるのは先天性の気質によるものであって、養育環境は多少は影響するものの決定的なものではない、ということでしょうか。ただし、先天性の気質はなくても、後天的に神経症になるということはあるということです。

 私の子どもも、小さい時から人見知りで、人に抱っこされるのを極端に嫌がり、親に似て恥ずかしがり屋だったりという気質を備えています。一方で、私のような大人にも平気で話しかけてくる子どももいます。これはやはり養育というよりも、やはり先天性の気質と言えるのではないかと思います。

 養育があまり影響しないのだったら、どう育ててもいいのかということになるかもしれませんが、そういう気質を持っていたとしても将来的に神経症になりにくいような育て方というのはあるように思います。

 私が今大事だと思っていることの一つには、まず友達と遊べる環境を作ってあげること。引っ越す前は近所に友達がいなかったので、ずっと親とだけ遊んでいる状況だったのですが、今は近所に同年代の子どもが多く、私なんかと遊ぶよりも、友達と朝から暗くなるまで、ずっと外で遊んでいます。外で友達と遊びまわるのがとても好きみたいです。これは引越ししてよかったなあと思っていることです。

 もう一つ、我が家にはテレビがありません。実家に帰ったときにだけテレビを見るくらい。テレビゲームもありません。テレビは思慮分別のついた大人が見るのはいいかもしれませんが、暴力場面だったり、小さい子どもにとってはあまりいい環境とは言えないと思います。何よりもただ受け身になってしまうのが問題のように思っています。テレビを見ないで子供たちは夜とかは何をしているかというと、折り紙をしたり、絵を書いたり、編み物をしたりして過ごしています。からだを動かすこと、感受性を高めること。それは、きっと主観的・観念的になることよりも現実的に生きる力につながってくように思うのです。
 実際のところ、うまい具合にそうなるかどうかはわかりませんが。

神経質の分類

2008-09-26 00:09:47 | 森田正馬先生の本
 最近は、「神経質の本態と療法」(森田正馬著)を毎日1章ずつ読んでいます。そこで気になった箇所や考えたことなどを、ここに書かせていただいています。
 今日の箇所は「神経質の分類」について。森田先生の言葉では、次の3つに分類しています。
 1.普通神経質
 2.発作性神経症
 3.強迫観念症

 今日は、三番目の強迫観念症のところの説明で気になったところを抜粋します。

 『強迫観念とは、患者がある機会から、ある感覚または感想に対して、これをヒポコンドリー性に病的異常とみなし、これを感じないよう、考えないようにとする反抗心から起こる心の葛藤に名づけたものである。すなわち、精神の葛藤がなければ、強迫観念はない。それ故、本症の治療では患者に純粋にその苦痛を苦痛として味わわさせ、その反抗心を没却すれば、すでに強迫観念はなくなるのである。』(p.54)

 そうか~、「精神の葛藤がなければ、強迫観念はない」のか~と、しばし空を見つめ、考えた。
 森田療法の入院治療では、最初に絶対臥褥といって、気休めになることは一切禁止される期間を過ごすようです。まさにこの時に「苦痛を苦痛として味わわせ」るのかもしれません。私は入院経験がないのでわかりませんが。
 反抗心が没却する、というのは言葉ではなんとなくわかりますが、まだ実感としてはしっくりきてません。

 私の場合には、自分の表情にすごくこだわりがあります。人と話をしていても、自分の表情のことばかりを気にしていたりします。これが「感じないよう、考えないようにとする反抗心」なのかどうかはわかりません。

 ある理想と現在の自分とを比較するということが多いです。それが葛藤になります。人との対応についても、理想の関係というのをまず思い浮かべ、そこからかけ離れている自分に絶望していたりします。

 でも、最近この理想の自分というのを持ち出さずに、そのままの自分が「ああ、これが自分なんだ」とそのまま感じられる瞬間というのがあります。

 いずれにしても、「苦痛を苦痛として味わ」うというのはなかなか難しいですね。苦痛に対しては手を出さずに放っておく、ということでしょうか。

物忘れ

2008-09-25 00:12:27 | 日々の出来事
 昨日、お風呂から出ようとして、ふと「頭、洗ったっけ?」と不安になり、髪の毛を触ってみると濡れていたので、どうやら洗ったらしいことがわかった。
 ここまでひどい物忘れは滅多にありませんが、シャンプー2回やったっけ?と不安になることは多いです。(私は2回シャンプーするので)
 お風呂でずっと考え事をしていたのです。思考が一点集中になってしまって、他のことにまったく注意がいっていなかった。泥酔した人が「どうやって帰ってきたかわからない」というのを良く聞きますが、注意が働いていないとこれほど明確な行動さえも意識にのぼってこなくなるのですね。
 もしかするとそういうことではく、単に痴呆の始まりかもしれません。
 ドアの鍵を閉めるのも意識していないと、後で閉めたかどうか不安になります。大抵の場合には無意識のうちに鍵を閉めていて、鍵をかけ忘れるということは滅多にないのですが。

注意の執着

2008-09-24 19:11:00 | 森田正馬先生の本
 『神経質患者が、夢が多いといったり、一定の強迫観念が絶えず念頭に現れるというのは、単に注意の執着による意識の関係から説明することができる。』(神経質の本態と療法 p.48)

 『強迫観念も、まったくこれと同じで、不潔なり赤面なり、これと同様の感想は、普通の人でも同じく出没しているけれども、常人は日常生活における精神流転中にすぐ忘れ、またはまったく意識するかしないで、新しい刺激の方に意識が変転してゆくから、これに懸念している暇がないのである。』(p.49)

 『神経質患者の頭重、不眠または強迫観念などのようなものは、すべてもともと常人の普通の感覚、感想が、患者のみずから病的なりとする誤った考えによって、自己暗示的に固着したところの信念である。つまり患者は注意をこれに固着するとき、周囲に対する注意の自由自在な活動を失って、無意識的注意となったものであって、患者はこれに執着して、まったくこれを事実と信ずるようになったものである。』(p.47)

 多くの人には意識にも上らないようなことでも、注意の執着があると意識されてしまうというのが森田先生の説明だと思います。

 『たとえば病児を抱き寝している母親は、その子が少しセキをしても、たちまち目をさますけれども、雷の音には、かえって覚醒しないようなものである。しかしこれは、雷の音にさめないのではない、ただ注意の圏外に脱出して、すぐ忘れるからである。』(p.43)

 ということは、注意の執着がなくなったら、つまり症状が「注意の圏外に脱出」してしまったら、精神交互作用は成り立たなくなる、ということ。

 たとえば、何かに夢中になっているような時などは症状については忘れてしまっている。あるいは、いろんなことに注意が向けられているような場合にも、注意の執着がなくなっている。

 『このように常に新しい内外刺げきの変化に応じて、いわゆる知情意の四角八面の連合作用が発動し、さらにその観念、気分および活動は、ただちに刺激となって、絶え間ない精神の活動、流転となるのである。しかもこの変転は、意識または無意識の状態のいかんにかかわらず起こることは、ちょうど昼夜の別にかかわらず、見えると見えないとにかかわらず、自然現象は絶えず変化流転して、川は流れ、動物ははっているようなものである。』(p.42)

 自然現象も、精神現象も、常に流転している。にもかかわらず、注意の執着により、ある特定の現象ばかりを意識の中に拾い集めてしまう。

 なので、最近私が意識しているのは、本来流転している自然現象、精神現象の流れを感じてみる、あるいは掃除やら洗濯やら体を動かしてみることによって、「周囲に対する注意の自由自在な活動」を取り戻そうということです。

 たとえ掃除であっても、それに集中した瞬間があったなら、その一瞬の間は全治しているということが言えるのだと思います。ひとつひとつの行動を大切にしてみること。その小さな行動が常に全治への道へとつながっていると思うのです。

生家

2008-09-23 15:44:37 | 日々の出来事
今日は自分の生まれ育った所にひとりで行って来ました。ずっと行きたかったのですが、なかなか時間が取れずにいたのです。
 私が生まれた時に住んでいた家はすでになくなり、跡地には高いビルが建っていました。となりの古いビルがなかったら、そのまま前を通りすぎて気づかなかったかもしれません。
 周辺は当然のことながら、ずいぶんと変わってしまっていました。よく買いに行ったパン屋さんも、家族でよく食事に行っていたレストランも駐車場になっていました。
 その足でよく遊んだ公園へ。家から公園への道ってこんなに短かったっけ?などと思いながら歩いていました。裏路地に入ると、まだ当時あった家も残っていたりして、すごく懐かしさを感じました。
 公園の中もずいぶん改装されていましたが、銀杏の木はそのまま残っていました。一足一足ゆっくり、その辺を歩き回っていました。懐かしさで胸が一杯でした。
 そして小学校へ。歩いていたら、「あ、学校に行くのにこの道を歩いていたんだ!」という実感がふっとよみがえってきて、その当時の出来事を思い出しました。もう数十年も前のことなのに。そうそう、この角を曲がって、学校へ通ってたんだ。
 学校自体は建て替えられていて当時のものではなかったのですが、門の位置は同じでした。**君の家はこの辺だったはず、と思って探してみると、その名前の表札がありました。今頃、どうしているんだろ。
 そして中学校へ。合併で名前が変わってしまっていましたが、建物はそのままでした。ちょうど私が入学した頃新しく立てたこの校舎も、ずいぶんと古くなっていました。
 中学生の時に引っ越したビルも見に行きました。親父が立てたビル。外装がまったく変わっていたので、最初気づかなかったのですが、建物はそのままでした。ビルとビルとの間の側面の塗装は当時のままだったので、それが嬉しかったです。「親父の建てたビルはまだ残っていたよ。」心の中で今は亡き親父に話しかけていました。このビルは、その後商売が立ち行かなくなり売ってしまったのですが。
 また次来るときには、もっと変わってしまっているんだろうな。そんなことを思いながら、帰路につきました。

精神交互作用説

2008-09-23 08:07:03 | 森田正馬先生の本
 ヒポコンドリー性基調だけでは神経症にはならない。これに「精神交互作用」が加わったときに生ずる。
 『神経質において精神交互作用説というのは、ある感覚に対して、注意を集中すれば、その感覚は鋭敏となり、この感覚鋭敏は、さらにますます注意をその方に固着させ、この感覚と注意とがあいまって交互に作用して、その感覚をますます強大にするという精神過程に対して名づけたものである。』(神経質の本態と療法 P.29)

 『さて、このように、すでにその執着にとらわれて、一定の症状を構成するようになってしまえば、患者は常にその自覚に執着し、主観の内に閉じこめられて、たとえば「鹿を追う猟師は山を見ず」というように、常に注意はそのことのみにかぎられて、他のことは見えない。』(p.39)

 森田先生はここで「執着」という言葉を使われています。この言葉のほうがわかりやすいかもしれません。
 ここでのポイントは、「主観の中に閉じこめられて」ということになるかと思います。精神交互作用でひとつのことにとらわれてそれに執着している時というのは、自分の中だけで思考がぐるぐる状態になっている。そして現実と離れてしまっている。

 私も若いとき、いつも自分の主観の中だけに閉じこもっていました。たぶん頭で考えていることの80%位は症状に対する思いとか過去にしてしまったことの後悔とかでした。今は20%くらいでしょうか。

 以下、精神交互作用についての森田先生の言葉を挙げておきます。
 『強迫観念についても、はじめは、常人にも当然あり得るような現象を、患者が自分で異常病的の苦痛と考え、恐怖を起こし、予期感動をともなうことから、精神交互作用によって、次第にその症状を憎悪させるものである。』(p.39)
 『すでに精神交互作用によって、症状が発展してしまった後では、たとえば常習頭痛であっても、めまいであっても、強迫観念であっても、患者はちょうど夢の中で、その実在を信じているように、常に主観の内に閉じこめられ、これに対する絶え間ない苦悩に悩まされるようになる。』(p.30)

ヒポコンドリー性基調

2008-09-22 23:23:08 | 森田正馬先生の本
神経症に何故なるか。
 『私は神経質という病名をたて、その本態的条件としては、ヒポコンドリー性基調があり、その症状発展の条件としては、精神交互作用があるという説をたてて、これを説明してきたが、これによりはじめて治療上の着眼点も得られたし、的確な治癒成績もあげることができるようになったのである。』(神経質の本態と療法 p.21)
 
  森田先生は、「ヒポコンドリー」について以下のように説明しています。
『ところでヒポコンドリーとは、心気性すなわち疾病を恐怖する意味であって、人間の本性である生存欲のあらわれである。したがって、これはすべての人が持っている性情であるが、その程度が強すぎるときに、はじめて精神的傾向となり、異常となり、ますます神経質の複雑、頑固な症状を呈するようになる。』(p.25)

 ということなので、結局森田療法とは、以下のようなものということになる。
 『このように神経質の病理が定まれば、その療法は、その本性であるヒポコンドリー性基調を鍛錬しまたは破壊するという手段に、その着眼点をおかなければならない。』(p.27)

 このヒポコンドリーの語源は、『hypo(ヒポ)は下で、chondor(コンドル)は軟骨であって、胸骨端の心か部(みぞおち)ということである。心配、不安のときには、ここに普段と変わった感じをうけるのであるから、ヒポコンドリーとは、本来ものを気にするという意味から起こった言葉である。』(p.25)

 私が毎日、不安を感じる場所が、まさにこのヒポコンドルの部分です。まさに言い得て妙。

 「ヒポコンドリー性基調を鍛錬し破壊」するのは、やはり現実に即した具体的行動ということになるのでしょう。社会に出てのいろんな経験も、たとえそれが落ち込み経験であったとしても、きっと鍛錬に役立っていることと思います。