水谷啓二著「あるがままに生きる」を読んでいる。
『殷の湯王という人が毎朝洗面につかった鉢には、「まことに日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり」という銘が記されてあった、ということである。私どもにとっては、日日は全く新しいものであって、同じ日の繰り返しは、けっしてない。だから日日平凡な日の連続のように思うのはまちがいであって、一日一日のすばらしい新鮮さに開眼しなければならない。
木々の青葉も、鳥の囀りも、空ゆく雲も、人の世のいとなみも、すべて生き生きと、いささかの停滞もなく変化流転していて、一刻一刻がまったく新しい。自分自身の心身の状態もまたそのとおりである。にもかかわらず、この今日の日、今の一刻をおろそかにして、頭の中に描いた空想や理論を、あたかも現実であるかのようにとりちがえて、味気ない毎日を送っている人も多い。まことに、もったいない話である。』(p.62)
なんかわかる気がした。いつも「空想や理論」に耽っていることがかつては多かった。最近は、感じを大事にしている。そうすると「事実」の世界の中で生きている気がしてくる。「事実唯真」。耳を澄ませば、小さな変化流転の音も聞こえてくるかもしれない。「観念の世界」から「事実の世界」に戻ってくる手がかりが見つかるといいと思う。
(庭にあった大葉-シソ-をそのまま放置していたら、こんな小さな可愛い花が咲きました。今まで見たことなかったです。)
『殷の湯王という人が毎朝洗面につかった鉢には、「まことに日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり」という銘が記されてあった、ということである。私どもにとっては、日日は全く新しいものであって、同じ日の繰り返しは、けっしてない。だから日日平凡な日の連続のように思うのはまちがいであって、一日一日のすばらしい新鮮さに開眼しなければならない。
木々の青葉も、鳥の囀りも、空ゆく雲も、人の世のいとなみも、すべて生き生きと、いささかの停滞もなく変化流転していて、一刻一刻がまったく新しい。自分自身の心身の状態もまたそのとおりである。にもかかわらず、この今日の日、今の一刻をおろそかにして、頭の中に描いた空想や理論を、あたかも現実であるかのようにとりちがえて、味気ない毎日を送っている人も多い。まことに、もったいない話である。』(p.62)
なんかわかる気がした。いつも「空想や理論」に耽っていることがかつては多かった。最近は、感じを大事にしている。そうすると「事実」の世界の中で生きている気がしてくる。「事実唯真」。耳を澄ませば、小さな変化流転の音も聞こえてくるかもしれない。「観念の世界」から「事実の世界」に戻ってくる手がかりが見つかるといいと思う。
(庭にあった大葉-シソ-をそのまま放置していたら、こんな小さな可愛い花が咲きました。今まで見たことなかったです。)