内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

目標を思いっきり下げる

2009-11-26 22:29:32 | 考え事
先日の集談会での話。

ある人に対するアドバイスとして、
「6割主義とかもあるけれども、
調子の悪い時にはもっと思いっきり目標を下げてみる。
本を読めなかったりしても、
10秒でも本を開いたら、それで良しとする。」
そういうようなお話だった。

これはとっても大事なことだと思う。
たとえ、10秒本を開くということでも、
「よくやった、よくやった」と自分を褒めてやる。
私の場合には、そういうのをメモしておく。
(五木寛之さんを見習って)

10秒本を開くことさえできなくても、
「苦しいのに、よくぞ今日一日生きたね」
ということだって、ありかもしれない。

調子の悪いときでも、いいときでも、
思いっきり目標を下げてみるのは、
私も是非やりたいと思います。

「見通しを立てる」

2009-11-21 11:23:16 | 宇佐晋一先生の本
『「見通し」というテーマについてですが、自己意識の中においてはどのような見通しもすべて脱線ですから、「治らないということが分かった」という見通しも「治る」という確信に満ちた見通しも具合が悪いのです。どんな見通しも自分に向いている限りはうまく役にたちません。「そのまま前進」という事実のみあるいは生活のみで十分でして、「そうすればどうなるのですか」とお尋ねになっても、自己意識の中は原因と結果という因果関係にはまったく無関係なのです。』(三省会報第110号)

『「治る」という確信に満ちた見通し』が持てれば、
何かとても素晴らしいことのように思えてしまうが、
それを否定している。

宇佐先生の文章を読んでいると、
公案を読んでいるような気になってくることがある。

でも、宇佐先生のことばというのはとでも大事で、
私の解釈としては、治るということを考えている場合には、
今やっていることが治るための手段になっていて、
やること自体が目的になっていないという点。

もう一つは、見通しを立てるということは、
「今、ここ」ということを離れてしまって、
いわば高い視点から自分の歩いてきた道、
これから進む道を見てしまっている。

「つづら折りの道をまっすぐ進む」という公案が
私は好きなのですが、山道でも頂上まで行く道を
見てしまっては、あんなに急坂がある、
大変だ、登れないかもしれない、とか色々考える。
とても山頂までたどり着けないように思われ、恐れてしまう。

そんなことは放っておいて、まず今出す足を
着実に一歩一歩踏みしめること。

私は宇佐先生のことばをそのように受け止めている。
そしてそれはとても大事なことだと思っている。

神経症を治すという人生から、
そういうものはとりあえず放っておいて、
(そういうものがあったとしても)
自分の人生をいかに豊にしていくか、
ということに歩み始めたとき、
本当の意味で治ったと言えるのかもしれない。
そこではもはや「治った」とかいう意識が
ないかもしれないけれども。




今日のヒット作

2009-11-19 21:40:40 | 日々の出来事
最近は朝晩、すごく冷え込んできましたね。
布団からでるのがすこし辛くなってきました。

昨日の夜、ふと思いついたんです。
枕元に電気カミソリを置いておこうって。

布団からでるのは辛いけれども、
目が覚めてから暖かい布団に入ったままで髭を剃る
そのうちに、さあ起きようという気にもなってくる。

森田先生は、紙を折る場合にも、
書いてある方を表にして折るとか、
どこかに持っていくようなものは、
目に付くようなところに置いておくとか
日常のちょっとしたことを色々工夫されていました。

枕元の電気カミソリを置くなんて
ほんのちょっとのことなんですが、
なんかいいアイデアだ!と悦に入っているのでした。

良かったこと探し

2009-11-16 21:18:27 | 考え事
作家の五木寛之さんがあるエッセイの中で
次のようなことを書かれていた。

落ち込んだとき、一回で針の穴に糸を通せたとか、
そういう小さいけれども良かったこと、嬉しいことを
メモに書き留める。
そうすると、元気になってくる。

最近、私も「良かったこと探し」をしている。
今日もドアを開けてエレベータの前に行ったら、
ちょうど自分の階に止まっていた。
「良かった、良かった。」
それも、ノートに書いておく。

爪切って、すっきりした~、とか。

これをやってみればお分かりになると思いますが、
うわの空状態だと、良かったこと探しができないんです。
そのものになりきっていないと、
やっていることに集中していないと、
見つからない。

悩み事とか、そういうことで頭が一杯になっていたら、
そのものになりきれない。

だから、良かったこと探しをするということは、
つまりは森田でいうところのなりきる体験にも
つながることなのだなあと最近思う。

是非やられてみてはいかがでしょうか。

自分がいかにうわの空状態にいるか、ということを測る、
いいバロメータになるかもしれません。
(うわの空であったとしても、自分を責める必要は
まるでありません。1日ひとつでも見つかったら、
良しとしましょう。私もその程度ですから。)

神経症から解放されるために

2009-11-12 21:56:26 | 考え事
最近心がけているのは、頭の中をきれいな状態にすること。
クリアな状態にすること。無駄なものは入れないこと。

神経症が治っているということは、
頭の中に余計なものが入っていないということ。
(何かうまく表現できないのですが。)

神経症で悩んでいる人とそうでない人との違いは、
例えば人と会って緊張したとしたときに、
神経症でない人は、相手が居なくなってしまえば
それで緊張もおしまいということになるのに、
神経症の人は、いつまでもそのことを考えている。
結局悩みというのは、自分が勝手に作り出している。

だから、対人恐怖の人は、対人緊張を治す必要は
まるでない、ということ。
だれでも緊張するのだから、それを排除することはできない。
そのあとだらだらとああだこうだと妄想しているのを止める。

昔、私は何か嫌な事があると、すぐタバコに火をつけた。
そしてその嫌なことをずっと「味わって」いたのである。
これが一番良くない。

森田療法では、何か行動を大事にしたりする。
禅では公案とか坐禅で妄想を切るのだけれども、
それは普通の人には難しいかもしれない。
何かする、ということのほうが簡単。

妄想を切るとなると、余計に考えたりして、
ああ自分は駄目なんだと思ったりする人も
いるかもしれないが、それもそのままにして、
何ごともなかったように日常生活を続ける。

あるいは、何かひとつ言葉を決めて、
それをくり返し唱えるというのも役に立つかもしれない。
般若心経の最後の
「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテーハラソーギャーテー」
とか、「ありがとう」とか。

最近、「オポノポノ」というのが流行ってみるみたい。
許してください、ごめんなさい、ありがとう、愛してます
という4つの言葉さえ言っていれば人生うまくいく、
というような内容。
私も詳しくはしらないのだけれども。
でもこれも作用としては同じことだと思う。

私が森田療法の真髄を知ったのは、本当に落ち込んだとき。
その時に、普通の日常生活をあえて普通に過ごそうとしたとき、
ああそうなんだ、こういうことなのかという手ごたえがあった。

般若心経に、「色即是空 空即是色」
ということばがある。
緊張するというのは、人間にとって自然なことで、
ただ、そういう状態があるにすぎない。
神経症でない人にとっては、それは自然なことだから、
瞬間は感じるけれども、すぐに消える。
でも、神経症の人はそれを問題ととらえる。
勝手にこちらが色をつけているだけの話。
色をつけるのをやめてしまえば、自分にとっては「空」
つまりないも同然ということになる。

何だか理屈っぽくなってきましたが、
その一点だけ理解したら、神経症から解放される
糸口はつかめるのではないかと思っています。
少なくても私はそれを心がけています。


最近の意識の向け方

2009-11-09 23:12:12 | 考え事
例えば駅など人ごみを歩いているときに、
のっそりのっそり歩いている人がいたりすると、
なんだもっと速く歩け、みたいに思うときが
多かったけれども、最近はじっくりその人を
見てたりする。

「かくあるべし」をあまり発動しないように
しているわけである。

その代わりに何が起きているのかという
事実をみようとしている。

こうすると、案外腹も立たない。

趣味

2009-11-05 23:01:59 | 考え事
最近、趣味の範囲が広がっている。

先日書いた、写経。
それから、合唱、ゴルフ、ウォーキング、
映画鑑賞、読書、などなど。

何か上達を感じられるものを
趣味として持つといいと思う。

合唱にしても、練習していくと
だんだん声が出てくるようになる。
すると、嬉しくなってくる。

ゴルフも、少しずつ会心の当たりが
でてくると、面白くなってくる。

ウォーキングは、知らないところを歩いていると、
新たな発見があったりして、
これもまた面白い。

こういう趣味は、日々の生活に
彩りを与えてくれる。

小さいところだと、ストレッチ。
今までからだがかたくて、
座って前にからだを倒そうとしても、
前には倒れず、脚と背骨は
ほとんど垂直のままだった。

だけれども、最近頭が床に着くようになった。
こんなことだけれども、何か少しでも
できるようになってくるのを感じられると
嬉しいものである。

マイナスをゼロに戻す

2009-11-03 06:48:43 | 考え事
以前、集談会に出ていたときに、
「森田療法というのは、マイナスをゼロにするところまでで、
ゼロから先プラスにしていくものではない。」
という話を聞いた。

この言葉が妙に頭に残っている。
その時には、違うのではないか、と少し反発心もあったけれども、
今改めて考えている。

『もう一つ注意すべき事は、もと患者であって
<自分は、もう病気が治ったから、会へきても面白くない。
雑誌も読まなくてもよい>とかいう人が、時々あるが、
そんな人は、まだ本当に治っていないし、
また再発する人なのである。』「森田正馬全集第5巻」

この箇所は、今月の生活の発見会誌でも取り上げられている。
症状を治すだけが森田療法ではない、ということである。

世の中では、「問題解決」「目標達成」
「楽しい気持ちを持つ」みたいなセミナー、書籍がたくさんある。

それらはプラス方向をどんどん伸ばしていくのを
主眼にしているのに対して、森田療法では、
そこまで積極的なアプローチはしていないようにも思われる。

私自身のことを考えてみれば、
心の中で色々あっても日常の生活を大事にしていく中で、
生活は充実してきたし、会社でもそれなりの成果を
上げたりしている。

そういう意味では、決してゼロに戻すだけでは
ないと承知しつつも、ゼロから先の方策としての
森田療法というものを、少々模索している、
今日この頃でありました。