内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

後悔は常なるもの

2009-12-25 23:35:38 | 考え事
先日、会社である発表を行った。
終わってから
「ああ、これをアピールするべきだった」
とずいぶん後悔した。
「そうすれば、もっと評価されただろうに。」
と思った。

毎回、何かやるたびに
「もっとこうすれば良かった」
という思いが残る。

でも、理想通りなんてことはありえない。
神経質の人が持っている理想というのは、
往々にして非現実までに高い場合が多い。

やっぱり「生の欲望」が強く、理想が高いから、
ああすれば良かった、こうすれば良かった
という思いが出てくるのはどうしようもない。

今回は、そのことを今まで以上に痛感した。

理想通りできなかったことを悔むのではなく、
後悔してしまうのは常だから、
それはそれで仕方がないことだという
諦めが肝心かと思います。

今年1年を振り返って

2009-12-21 23:29:25 | 考え事
今年も残すところ、あと10日ほどですね。

今年1年を振り返ってみると、
新しい部署に異動になり、
責任あるミッションは与えられたものの、
どうやっていいか暗中模索で、
毎日しんどかった。

寝られなくなったのが一番辛かったかな。
寝ても2時間くらいでうなされるように
目が覚めてしまう。
そのまま朝まで布団の中で悶々としている。
春先くらいまでずっとそういう状況だった。

夏くらいになって、少しずつ慣れてきて、
それと共に成果も上がるようになってきた。

で、最後は色々高い評価をいただいた。
いい1年だったと思う。

支えてくれたのは、やっぱり森田の教え。
苦しいときほど、森田が生きてくる。
苦しいときが森田を学ぶチャンスでもある。

みなさんにとって、この1年は
どんな年だったでしょうか。

このブログも、少しでも何かお役に立てることがあればと
書いてきましたが、少しは役に立ちましたでしょうか。

12月に入って、仕事も個人的なことでも、
ものすごくたくさんやることがあって、
不安になっている暇もありません。
これまた、ありがたいことです。

観自在

2009-12-19 14:00:33 | 考え事
般若心経の最初の行は下記のようなことが書かれている。

「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆度一切苦厄」

観自在菩薩(観音様)は、般若波羅蜜多を深く行じた時、
すべてが空であると見抜いて、
一切の苦厄がなくなってしまった。

この「観自在」というのが森田先生のおっしゃる
「事実唯真」と非常に近いのではないかと思っている。

「自在」であるということは、
物事が独立して存在していること。
事実が事実そのままに存在していること。
森田先生の事実唯真ということと同じ。
観音様は自在に観ることができる方。

事実を事実として観るのと同様、
頭の中の記憶もまた自在であることが大事。
私たちの頭の中は、事実が事実として
存在していなくて、
自分の否定的な見方をしたり
解釈などをしてしまっていることが多い。
自分の勝手な色眼鏡を通して事実を見ている。
結果として、それぞれが「自在」でなくなって、
こんがらがったような状態になっている。

「私の顔を見たときに、相手が横を向いた」
というひとつの事実がある時、
「そういえば、昔私のことを悪く言ってたような
ことを聞いた」とかいうようなあやふやな
記憶と結びつけて、相手は自分のことを
嫌っている、というような結論に達して
落ち込んだりする。

でも、相手は単に何かがあって
横を向いただけかもしれない。

そういう勝手な解釈によって、
悪いストーリーを作ってしまう。
本当は何もないことなのかもしれないのに。

余計な解釈をしないで、なるべく
事実を事実として見ていく。

ああだこうだとくよくよするのは、
頭の中の事実をこんがらがせていること。
自在性を失わせること。

だからこんがらがせる行為をやめる。
止めさえすれば、頭の中の記憶は
自在の状態になってくる。

最近、頭をからっぽにするのを大事にしている
というようなことを書きましたが、
つまりは余計なことは考えないということ。

本当に見方が、そして頭の中が自在になった時には、
一切の苦厄がなくなってしまうのかもしれない。

人事異動の季節

2009-12-16 22:03:48 | 考え事
年末も近づき、人事異動の話を
色々耳にするようになってきた。

今年、私自身が新しい部署に異動になって、
ようやく1年たって慣れてきたところだったのに、
親しくなった人がでていき、
そしてよくわからぬ人が
たくさん入ってくることになった。

来年、いったいどういうことになるのだろうと
少し不安になっているところがある。
仕事の分担とかも、今年ようやく落ち着いてきたのに、
また色々考え直さなければならない。

不安の強い私としては、
できるならばあまり環境は変わって欲しくない
という気持ちがある。

けれども、サラリーマンである以上、
それはどうすることもできない。

こういうときには、あるがままに
放っておくしかない。

この辺は森田的なとらえ方で、
なんとか乗り切っていくつもり。
なるようにしかならないですからね。

きっとなるようになりますよ。

ああなってほしい、こうなってほしい
という自分の思いを一度手放して、
何が起きてもまあ仕方のないこととして
たんたんと生きていく。

そういう受け止め方ができるようになった、
ということでは、森田を学んでいて、
良かったと思っている。

森田療法と交流分析(TA)

2009-12-14 00:26:39 | 考え事
以前、交流分析(TAとも呼ばれる。
Transactional Analysisの略。心理療法のひとつ)
を3~4年ほど熱心に勉強していた時期がある。

とある組織のメンバーにもなって、
色々トレーニングも受けた。

交流分析は自分の心が苦しいときに、
ある部分支えになってくれた。

交流分析のモデルから見たら、
神経症はどのように語れるのか。

そして交流分析では神経症に対して
どういうアプローチをしようとしているのか。

森田療法との関係はどうなのか。

この辺の話はブログではとても伝えきれないので、
いつかは集談会の時にでも
話をしてみたいと思っている。

別の心理学の観点から森田を眺めてみると、
それはそれで面白いものである。

神経症でよかった?

2009-12-12 00:30:19 | 考え事
たまに神経症を克服された人の
体験談などを読むと、
「神経症で良かった」
というような表現に出会うことがある。

私自身はそんなに自信を持って言い切れない。
やっぱり神経症でない人生のほうが
楽しいことも多かったかもしれないから、
もし今人生を選べるのだとしたら、
神経症のない人生を選ぶかもしれない。

しかし、人生には選べることと
選べないことがある。

どのような気質を持って生まれるかは、
どうやったって選ぶことはできない。

できたら神経症のない人生がよかったけれども、
神経症であったからこそ
多くのことを学ぶことができたし、
得がたい出会いというのもあった。

なので一概に神経症の人生が
悪いとは言い切れない。

いずれにしても、与えられた気質を
活かしていくしかないのでしょうね。

至福の時

2009-12-10 01:12:57 | 考え事
失礼ですが、今は少々酔っ払っています。
会社の仲間と6時位から11時位まで、
飲んで歌って楽しいひと時を過ごしていました。

私は基本的に人付き合いが苦手で、
その分すごく人恋しいところがあります。
だからこそ、ちょっとした人間関係が
とても幸せに感じられます。

今日はとてもいい仲間たちが集まってくれました。
私にとってはまさに至福のときでした。

たまにはこういうこともあっていいですよね。

夜空は暗いからこそ、星がきれいに見えるのです。
暗いほど、星が美しく輝いて見えます。

人生に起きる、このめったにない
星の輝きのようは経験があるからこそ、
残りの99%の暗闇の生活も
何とかやっていけるのだと思います。

常に太陽のように光輝いている人生を送っている人は、
星の輝きの美しさを感じることができません。

暗闇の中を生きている人は、
逆にちょっとした幸せに喜びを感じることが
出来る心を持った人なのではないかと思っています。

悟りを開いた日

2009-12-08 21:26:51 | 考え事
さっきニュースを見ていたら、
今日はお釈迦様が悟りを開いた日なんだそうですね。
知りませんでした。

あとで般若心経を読経するとしましょうか。

私自身は坐禅をしたり、
仏教・禅の勉強をしたりしていますが、
自分の信仰としてはキリスト教(カトリック)
なんです。

集談会では今まで話した事はありません。

集談会では「宗教・政治活動などへの勧誘」を
禁止していますので、勧誘するつもりは
毛頭ありませんが、あえて話もしませんでした。

どこかの宗派のように街頭演説したり、
戸別訪問したりすることはありません。
私に近寄っても勧誘されることはありませんので、
心配ありませんように。

私は大学の時に、家族と縁を切るような形で
家を飛び出してしまったので、
1人の友人も話す相手も無く、
ただ死にたいとばかり思っていた時期があります。

みんなはあまり苦労していないで
人生過ごしているのに、
なんで自分ばっかり苦しんでいるんだ、
神も仏もいるものかと思っていました。

そんな時、遠藤周作の「イエスの生涯」と
「キリストの誕生」をふと手にしました。

読んで、ひきつけられてしまったわけです。

この2冊は自分にとって大事な本です。
キリスト教は、どこか西洋のものと
思われていることはないでしょうか。
本当は日本人の感性にぴったり合うものなのです。

少々勧誘じみてきてしまいました。
この辺で終わりにしたいと思います。

ただ、キリスト教徒にならなくても構わないから、
この2冊は是非多くの人に読んでいただきたいと
思っています。

不安はなくならない

2009-12-05 12:35:40 | 考え事
最近、思うんです。

どうやったって私たち神経質の人は
人の思惑が気になったり、
ちょっとしたことに不安になったりする。

これはもうどうしようもない。

森田先生は私たちのような神経質の人が
うまく生きていけるように
生きる術を教えてくださった。
それが「あるがまま」の生き方。

前にも書きましたが、悩みというのは
不安が浮かぶこと自体ではないのです。
浮かんだ不安のもとにして
ああだこうだと色々考え出した時に、
初めて悩みになるのです。

だから浮かんできたものは仕方がないと諦め、
そのままにしておく。
取り除こうともしない。
ただ、たんたんと日常生活を送るだけ。
そうすればすべてが流れていきます。
それがまさに「色即是空」「空即是色」
の世界でもある。

悩みのもとがあったとしても、
それについて考え出せば「色」となり
ほっておけば「空」となる。

ふつふつと湧いてくるものは
仕方がないと、諦めるしかなさそうです。

「たんたん力」

2009-12-02 21:32:01 | 考え事
「たんたん力」といっても
何のことだかさっぱりわからないと思います。
私の造語なので。
(最近何かというと、{質問力」とかなんとか、
なんでも「・・・力」をつけるのが流行ってますよね。)

心の中で何があったとして、たんたんと日々の生活を
何ごともなかったように過ごす(=たんたん力)
というのが森田式生活の究極の姿なのだろうと思う。

森田入門前:気分本位。やる気がなかったら何もやらずにいる。
森田1級:苦しくても、1日で何かひとつ10秒やれる。(本を広げる等)
森田2級:苦しくても、ちょっと(10秒ほど)のチャレンジを1日に3回やれる。
・・・
森田初段(黒帯):苦しくても、会社に行って、帰って来る。
(仕事できたとかできないに関係なく)
・・・
森田十段:苦しくても日常の生活をたんたんを送る。
苦しくても、朝決めた時間に起き、布団をたたみ、顔を洗う。
苦しくても、決めた時間に家を出て職場なりにでかける。
苦しくても、家に帰ってきたら、手を洗いうがいをする。
苦しくても、食事の準備をして、食事。その後風呂にはいる。
苦しくても、身の回りはこぎれいにしておく。
苦しくても、日常の生活が少しでも効率的に送れるように一工夫してみる。
苦しくても、靴をきれいにしたり、身なりに注意を払う。
苦しくても、決めた時間に床につく。眠れても眠れなくても関係なし。

このように、心で何が起きようとも日常の生活をただたんたんに
送れるのが森田十段だと思います。

この時大事なのは主観的に気分がいいとか悪いとか、
自信があるとか無いとか、心の状態はまったく関係ないこと。
治った、治らないというのは主観的なものは関係なく、
外の行動(客観的なもの)だけで構わない。
そうすると、なんかできそうに思えません?

そういうふうにできるようになってしばらくたったら、
きっと「治っている」ことに気づくのかもしれません。

自分なりに、森田何級と決めて、ちょっとずつ前進しても
面白いかもしれません。

ただし、柔道のように1つずつ階級が上がっていくのではなく、
森田道は1級からすぐに十段に昇進できるのが特徴ではないかと思います。

『難しいことばっかりお話して見通しが暗いようでありますけれど、
実際は治すのは至って簡単です。本当のことを申しますと、
このつたないお話しをお聞きくださいます、このイスにかけていらっしゃいます、
この場所で成り立つといえます。それほど次の瞬間、今晩、あしたという日を
予測することさえも治ることには必要がないのです。
むしろ予測することは脱線だといいぐらいに、
治ることは身近な今のことであるんです』
(あるがままの世界 宇佐晋一著 p.53 )