内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

「神経質の徹底」 -続あるがままの世界-(宇佐晋一著)から

2007-10-24 22:10:36 | 宇佐晋一先生の本
 『心の解決の答えを出す前にひたすら実生活の面のみに十分な工夫、研究をして、休む暇なく考えをめぐらしておられるならば、ここでも、またご自宅でも、学校でもますます皆さん方の有能なお仕事ぶりが存分に発揮されて、それを一言で言うと「神経質の徹底」ということが実現する。もし反対にどのようにして神経質という性質を治そうかということを課題にしてはどうしようもない。今すぐこの場で全治がこの瞬間にも成り立つのである。そしてここでどうこの不安を解決したらいいかとやればすぐ神経質によるひっかかりが成立する。神経質によるとらわれが何年も何ヶ月もかかって成り立つとうのは常識だが、瞬時に成り立つということにはなかなかどなたも気づかれない。瞬時に治るといえば不思議だと言われるかもしれないが、瞬時に成り立つものだから瞬時に治しうるわけだ』(続あるがままの世界 p.92)

 『煩悩をまったく絶たずに神経質の症状を持ったままぶっつけに今の仕事を早速始め、勉強をやり始めるところに、その場から早速に全治が成り立つのであって、だんだん治るということではない。その場で一気に救われる。そのことが神経質の人には全く打って付けである。』(p.70)

 今日から電車の中で、英語の教材を聴き始めました。家に帰ってきてからは、靴磨き、床掃除などをしました。
 講師を頼まれていることがあって、自分としてはかなり負担なので断りたいと思っているのですが、それを頼まれているから色々なことを勉強しなければならない。やらなければならないことがある、というのは幸せなことなのかもしれないとふと思いました。宇佐先生は、仕事や勉強をやり始めなさいと言われるけれども、何をやったらいいのか、最初のうちはちょっと困ってしまうのではないでしょうか。
 でも、やり始めてみると、やることがどんどん見つかってきます。ただただ、日々忙しく過ごしていようと思います。

「君はもっとハラハラし給え」 -続あるがままの世界-(宇佐晋一著)から

2007-10-22 21:00:18 | 宇佐晋一先生の本
 『森田の言葉だが、「苦痛を苦痛し、喜悦を喜悦す、之を苦楽超然という」。だから神経質にとらわれた人たちがもっと安心しよう、もっと楽になろう、もっと気持ち良くなってから働こう、勉強しようと、こういうような合理的な考え方でいるのに対して、全面的に今の状態を受容していくのが森田療法の筆法である。直接生活に正面きってぶつかっていくもので、なかなか修養生の皆さんには初めからうまく受け取られない。考えを変えて治そうというのは所詮無理に思われる。それよりはさらに一層日常生活を通じて実際に身を持ってその環境にことごとく緊張して対処していくというそこのところを身に付ける方が手っ取り早い。さっきの「君はもっとハラハラし給え」というのでもお分かり頂けるだろう。世界に精神療法が数多くあるが、まずみんなリラックスさせるやり方である。ゆったり、のんびり、気楽にということである。森田療法というのは目指すような心のお手本というものはないので、苦痛がくれば苦痛、喜びがくれば喜びと、ただそれだけのことである。』(続あるがままの世界 p.67)

 今日は研修だったのですが、昼休みちょっと時間ができたので、専門書を読んで勉強しました。それからお風呂に入っている時に、ただつかってのんびりしている時間ももったいないので、般若心経を諳んじていました。(仏教徒ではありませんが。)電車に乗っているときは、宇佐晋一先生の「あるがままの世界」を読んでいました。何をするか、ということに注意を向けています。

集談会に参加してきました

2007-10-21 23:08:37 | 生活の発見会
 森田療法の自助組織である生活の発見会の集談会に行ってきました。最近読んでいる宇佐晋一先生の本を紹介しました。けれども、どういうふうにいいのかと聞かれて、答えに窮しました。ということはまだちゃんと理解していないからでしょう。だけれども、私としては本を読んで、確かに行動が変わってきたと思います。目の前のひとつひとつの行動を大事にする。手を抜かない。より良くできるように工夫もしてみる。そういうことの積み重ねをしようとしています。自分の神経質を治すのではなくて、宇佐先生の言葉では「神経質の徹底」という表現だったように記憶しています。
 今日の集談会では、会社でプレゼンテーションをやって、他の人のプレゼンよりも自分のがひどく見劣っていたようで、とても落ち込んでいました、というような近況報告をしました。その時に、「初めてのプレゼンだったのだから、うまくいかなくても当然でしょう。」というような指摘を受けました。
 確かにそうです。事実をズバッと指摘していただいて、新たな気づきがありました。

物の性を尽くす

2007-10-20 12:08:05 | 考え事
 森田療法でよく使われる言葉に、「物の性を尽くす」というものがあります。意識が自分の内側でなく、外側に向くための方便なのでしょうが、これも言葉にとらわれるとなかなか難しいものがあると思います。どの程度にしたらいいのかがわからなくなってしまいます。森田先生は、新聞広告でも裏側をメモに使ったりしていたようです。私も学生のときには、新聞広告の裏をメモ用紙として使ったりしていましたが、最近はしていません。森田先生の時代には、紙も貴重品であったとか、そういう事情もあったのでしょう。
 風呂の残り湯をどうしたらいいのか、というのも私がいつも迷っていることでした。以前は洗濯に使ったりということもしていたのですが、最近ではあまりそうすることもしていません。
 というのも、最近はお風呂から出るときに風呂のお湯を抜いて、すぐ湯船(言葉が古いでしょうか)の掃除をしてしまいます。そうしたら、次の日すぐにお湯を張れるから便利なのです。ただ、本当はお湯を残しておいて、次の日の掃除のときにでも、雑巾がけに使ったりとか、そういうこともやったほうがいいんだろうな、なんて頭の片隅では思ったりしています。なので、毎日罪悪感を持ちながら、風呂の栓を抜いていました。
 ただ、昨日は髪と顔を洗うときに、湯船のお湯を使いました。そのときに使うシャワーを使う分のお湯を節約できたとともに、湯船のお湯も有効活用できたようで、少し罪悪感が減りました。
 結局のところ、言葉にまだ囚われているのか、いないのか。。

「とらわれからの解脱」(宇佐晋一著)

2007-10-19 22:39:39 | 宇佐晋一先生の本
 宇佐晋一先生の「とらわれからの解脱(柏樹社)」を読み終えました。この本もとても良かったです。「続あるがままの世界」の紹介でもしようと思っていましたが、読むほうがどんどん先に進んでしまいました。「あるがままの世界(仏教と森田療法)」という本も買ったので、また読むのが楽しみです。
 落ち込んだりもしていたのですが、まただんだん元気が出てきました。今の心境は、もう自分の心のことを治そうとはせず、ただ毎日必要に応じてやらなければならないことをやっていくことに徹する、という感じです。
 私の購入した「続あるがままの世界」「とらわれからの解脱」については、絶版になっているかもしれません。私は古本屋で購入しました。
 三省会(http://homepage2.nifty.com/3seikai/)というところで、宇佐先生の著作を扱っているようです。三省会で扱っている「禅的森田療法」という本は、私もまだ読んでいないのでお薦めする立場にないのですが、宇佐先生の本を読まれたい方は申し込んでみるのもいいのではないでしょうか。

森田理論の勉強 -続あるがままの世界-(宇佐晋一著)から引用

2007-10-18 18:50:25 | 宇佐晋一先生の本
 『現に森田療法というのはアクの強い説得療法のように思われがちで、現にそういうような理論的に学習をすることをもっぱらとする行き方も森田療法の中には大きな流れを占めている。そういうなかにあって、私共がもっと早く治って、もっと根本的に徹底的に治るやり方に高めたいということに骨を折ってきたのも、そういう分かる森田療法ではなく、徹底して事実そのままの生き方を実践するということこそが真の森田療法であろうという見当がついてきたからであった。(続あるがままの世界 p.54)』

 『森田療法でいえば、その治癒像が生き生きした現実の生活そのものにほかならないのに、多くの知的な学習によって結果的にもたらされるものと思ってしまうところに相当する。』(前掲書p.43)

 森田理論のことを知らなければ始まらない。ただし、知的に学習を進めていけば治るかというと、そういうことではなくて実践が大事だ、ということでしょう。
 私も大学の時から、今の悩みの原因を探り、それを解決してから物事に取り組もうとしていました。今でもそういう傾向があります。
 この文章を読んで、日常の実践を大事にしようと、再認識しました。

落ち込み

2007-10-16 23:08:36 | 日々の出来事
 お偉いさん方に、今の仕事の状況をプレゼンすることになりました。私はそれを聞いたときから逃げ出したい気持ちになり、当日も心臓がバクバクしていました。
 なんとかプレゼンを終えたのですが、もうずっと緊張しっぱなし。声が震えていました。私以外の人達のプレゼンに比べて、自分のプレゼンがひどく見劣りしているように思え、資料もイマイチだったような気がしてきました。
 そのプレゼンの後に打ち上げがありました。本当は参加したくはなかったのですが、立場上欠席するわけにもいかず、とりあえず参加しました。もうずっと緊張してて、顔はこわばりっぱなし。面白い話をしてても、笑えない自分のことばかりが気になってしまって、早くお開きにならないものかとそればかり思っていました。
 帰ってからはもう落ち込んでしまって、何もやる気が起きず、深夜番組を見続け、2時頃寝床にはいったものの、5時にはうなされて目が覚めてしまうという始末でした。

不思議な体験

2007-10-15 05:53:50 | 森田療法の実践
 不思議な経験をしました。私の家の敷地内で、近所の子どもたちが鬼ごっこをして走り回ったりします。私はこの子どもたちが好きになれませんでした。どちらかというと「嫌い」でした。私の家を汚すから。しかも私に挨拶すらしない。一方で、こういう子どもたちを好きになれない自分というものを、否定的に見ていました。優しくなれない自分を責めていました。
 ところが先日、ひょんなことでその子どもたちと一緒に鬼ごっこをすることになりました。そしたら、その嫌いと思っていた子どもたちに、急に親近感を覚えたのです。私が鬼になってその子どもたちを追いかけている一瞬に、「あ、私はこの子たちのことに親しみを感じている」ということに気づき、びっくりしました。意識の力でこの子どもたちに優しくしなければならないと努力したわけではありません。そういう努力とはまったく関係なしに、そしてその親近感は、鬼ごっこをした、その一瞬に芽生えたのです。感情というものは、意識的に操作できるものではないのだ、ということが分かった気がしました。それと同時に、実践を大事にする森田療法のあり方も、なんとなく分かった気がしました。

仏教と森田療法 -続あるがままの世界-(宇佐晋一著)から引用

2007-10-14 11:21:16 | 宇佐晋一先生の本
『言い換えれば森田神経質は生の欲望が強いためにヒポコンドリーになりやすく、その不安に対する拮抗作用として自分のあるべき姿を仮想し、その理想に向かって人為的に工夫し、自然の感情の事実を曲げて虚偽の病態に陥ってしまう、というのが神経質によるとらわれが成立する森田的メカニズムである。
 こう見てくると、およそ人間ならば抱かずには過ごせない煩悩の成り立ちを説明しているような錯覚を覚えるほどである。森田神経質ならずとも主観的な虚構の自己のイメージにとらわれて、我執に迷う姿はまさに顛倒夢想そのもので、それを病気に見立てて治療にこだわるか否か、あるいは安心・幸福への執着が強いか弱いかの程度の相違はあっても、決して質的な差異は見いだせないであろう。森田理論が仏教的な背景を持つのではないかと問われるゆえんである。』(続あるがままの世界 p.35)

 仏教もまた、人間の生きる苦しみを乗り越えるため、よりよく生きるための教えなのでしょうから、森田療法と似ているところがあっても、それはそれで納得できる気はします。別々の道から登っていったら、頂上でお互い出くわしたということでしょうか。
 とはいえ、仏教の成り立ちのほうがよっぽど古く、森田先生自身、その教えを受けているところはたぶんにあるでしょうから、森田先生自身がどう思われていたかは知りませんが、仏教から受けた影響は大きいと言えるのでしょう。だからこそ、日本人には受け入れやすいのだと思います。

精神分析と森田療法 -続あるがままの世界-(宇佐晋一著)から引用)

2007-10-13 17:24:57 | 宇佐晋一先生の本
『ジグモント・フロイトが精神分析という新しい概念のもとに初めて精神分析学を組み立てたのが1896年であったので、本年まで大体百年近い年月がたった。そこで精神分析の百年を顧みて私たちの非分析的治療の方からそれを見たらどうであるのかという観点から述べてみたい。』(続あるがままの世界 p.27)

 『こういうようにあくまで新しい精神分析派、ネオフロイディアンたちにおいても過去というのは非常に大事で、その記憶の中にある過去をどう取り扱うか、どういうふうに思い起こさせるか、というところにいかに重点が置かれて来たかこれでよく分かる。私たちのほうでも「今、ここ」というのは大変重要だが、過去にいたずらにとらわれないということのほうに重点を置くところが異なっている。』(前掲書p.31)

 『療法の実際は説得や暗示に重きを置かず、また過去に遡って原因を追究せず、もちろん意識下の問題には一切ふれないで、非分析をむしろ徹底させるところに特色がある。一定の方法でクライエントの生活、行動、精神態度などを指導し、これによって得たクライエントの体験に対して日記や講話などを通じて批評や断定を加えるのみである。』(p.36)

 宇佐先生は、精神分析に対して森田療法のことを『非分析的治療』と呼んでいます。この「非分析的」という表現が気に入りました。精神分析との違いというものをよく表現されていると思います。私がこの「非分析的治療」のほうに共感を覚えるのは、やはり日本人だからでしょうか。

 精神分析の方でも、カレン・ホーナイという方は晩年、森田療法のことにとても関心を示されていたそうです。

 これから宇佐先生の言葉を通して、森田療法の特徴をご紹介できたらと思っています。