内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

三昧の境地

2008-11-18 23:50:35 | 水谷啓二先生の本
 『晩になってから、師範のところへ行くと、線香に火をつけて、「これを的のところに立ててこい」といわれる。暗いけれども、線香の光で、的の位置だけはかすかにわかる。そこで師範は、矢を二本射て、「とってこい」といわれるから、とりにいってみるとおどろくべし、初めの一本はたしかに的にあたり、二本目は前の矢の矢筈を射て、矢が二本重なっているのである。師範はいった。「これを君はどう解釈する。奇跡というのか、偶然というのか、君は狙う狙うというが、こんな暗いところで狙えるか。初めの矢は、線香の明りで的の位置がわかるから、狙ったといわれてもしかたがない。次の矢が、前の矢の黒い矢筈に当たったのも狙ったのか。わしは狙ったのではない。的と自分が一つになれば的が当たるんだ、というのはこのことだ。」
 的を狙うのではなく、的と自分が一つになれば、当てようと思わなくとも、的があたるのである。それが三昧である。それと同じように、仕事と自分が一つになれば、うまくやろうと思わなくても、ひとりでに仕事はうまくゆくのである。試験勉強でも、勉強と自分が一つになれば、成績もおのずから向上して、難関を突破することができるのである。』(「あるがままに生きる」水谷啓二著 p.132)

 森田理論では、「物そのものになる」ということをいいますが、私の解釈では「三昧」ということと同じだと思います。水谷先生もそうお考えのようです。

 ひとつひとつの行動を大事にして、だんだんそのことに夢中になっていると、もはや悩みとかそういうものはその瞬間だけはどこかにいってしまっている。「物そのものになる」という経験は大事だと思います。好きなことに没頭するのも又然り。

 何かそういうものがひとつでもふたつでも経験できればいいですね。究極的には日常生活がすべて三昧になることかもしれませんが、まあそれも無理なので、まずは色々手を出すところからやっています。色々やっていると、いつの間にか夢中になっている時もあります。