内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

戸締りの確認

2008-08-31 12:29:15 | 日々の出来事
 出かける時、特に宿泊を伴う場合には戸締りにはすごく気を使う。出かける前に家のすべての鍵を見て回り(たいていの場合には指差し確認。2回くらい巡回する)さらに心配になって、ガラスが割られても窓が開かないようにするロック(サッシの下のほうについているヤツ。なんていう名称なんでしょう?)をしたりする。一通り見て回った後、玄関の鍵を閉めても、たいていの場合、火の回りなどが気になって、一度は家の中に舞い戻る。洗濯機に給水するホースが、地震か何かで外れて水が流れっぱなしになったらどうしよう、なんてところまで考えるので、洗濯機の蛇口も閉める。
 こんなことをしているので、出かける前は時間がかかる。妻が戸締りをしたとしても、最終的には自分で確認する。玄関のドアの鍵も、自分でかけないと気がすまない。
 まあ、神経質の人は、みんな同じようなものかもしれない。車の運転をしても、最初のうちは、見落としが無かったかというところを色々考えている。そのうちに、戸締りのことは気にならなくなってくる。


2008-08-29 21:01:35 | 日々の出来事
昨夜はすごい雷雨だったみたい。「みたい」というのは、睡眠不足ということもあり、ほとんど爆睡していたから、雨が降っていたかどうか全然知らなかった。朝、出かけるときに地面は濡れていたけれども、雨は上がっていたので、夜に雨が降ったんだなあというくらいにしか思っていなかった。聞くところによると、記録的な雨量だったとのこと。今も電車が一部不通のところがあるらしい。

 今日は会社で飲み会があった。えらい人2人に挟まれたけれども、今日はそんなに緊張しなかった。偉い人も、威圧的な人と人格的な人がいて、今日挟まれた2人はどちらも人格者の人であったので良かった。私の所属しているところの一番のボスが威圧的な人で脅しをかけてくる人なので、こういう人の前だと緊張する。やはり人の上に立つ人は人格者であってもらいたいと思う。でも、上司は選べない。

 雷の日もあるように、私たちの心にも雷のように大変なときもある。

夏祭り

2008-08-28 22:55:49 | 日々の出来事
 あんなにユーウツに思っていた夏祭りも、先週末終わった。今週末には後片付けがある。
 土曜日は、こども神輿のお手伝い。他のお父さん方も4人ほどいらした。休憩所での休み時間がやたら長かった。その間手持ち無沙汰。ちょっと顔を合わしたことのある近所の人とかもいるのだが、挨拶もせずに目をそらしてしまったりする。一回目をそらしたりすると、次にまたすれ違う時に挨拶するのも今さらという感じで具合が悪く、結局話すきっかけもできなかったりする。この中途半端に知っている人と付き合うのがなかなか難しい。でもまあ、時々はお父さん方とおしゃべりもして終わった。
 日曜日は雨だったけれども、出店とかをやった。どしゃぶりで大変だった。
 まあ、色々経験させてもらって、良かったと思う。

わかっちゃいるけど、止められない。

2008-08-27 22:21:33 | 宇佐晋一先生の本
 今、神経症の苦しみの中にある人に少しでも役に立てることがあればと思い、このブログを書いているところもあるけれども、逆にプレッシャーのようなものを与えているかもしれないとふと思った。わかっちゃいるけど止められない、みたいな感じで、自分もやってみたいけれどもそこまでは動けないよ、というようなところがあるんじゃないでしょうか。。
 自分もずっと苦しい20年くらいを過ごしてきて、その間森田の本も色々読んでいたが、今ようやく森田のことが少しだけ見えてきた気がしている。今やっている日々の必要なことをひとつひとつ大事にやっていくしかない。それが確信に近いものになってきた。私のよく取り上げる宇佐晋一先生も、そのことしか言わない。なんで、そんなことやっていったら良くなるんだと思われるかもしれないが、それは森田先生、宇佐先生が治療を通して実証されている。

 世の中にはたくさんの心理療法がある。私もずいぶん多くのものに手を出した。でも神経症の改善にはやっぱり森田療法が一番だと思っている。
 
 『だから、皆さん方にとって何か、もしお役にたつとしますれば、心というものの最もいいあり方という、それこそノドから手が出そうに欲しいもの、それには全く耳をかされずに、仕方なしに、とりあえず目の前のしなければならない仕事をちょっとやり始めるということが大切なんですね。森田療法が勇ましくない、パッとしない指導ぶりで、もっと何とかならないかと思われるかもしれませんが、一番これが具体的で実際に即しております。
 どうしたら治るかといいますと、この治るとか治らぬとかを申しますと、自分で自分の心についての批評をすることになりまして、そこから先はとうてい自分の本物には目がさめません。一切、自分の心の状態がああだとかこうだとか論じたり、生きる意味などを問わずに実際に日常生活を送ることに徹し切っていくことが、最も具体的な生きることの現われであるわけです。』「あるがままの世界」(宇佐晋一著 p.58)

森田療法

2008-08-26 08:17:19 | 宇佐晋一先生の本
 『ですから、日常はつまらない症状談義というものに陥ることがありませんでした。診察室に、ちょっと症状の不安、苦しさなどを訴えてこられますと、「ここに入ってきたら治りませんよ」とまったくもうすげなく追い返されるというふうな格好で、とりつくしまもないというふうでした。それでも、なかなかねばって症状を訴えて、帰らない方がおられますと、「私はぜん息で苦しくって苦しくって、もうこれ以上お話ができませんから」と、おひきとりを願うというふうでした。実にそれもまた、おもしろい説得法で、態度で示す、生活を通じての説得法であったということです。』(あるがままの世界 宇佐晋一著 p.35)

 上記は、入院患者にとった宇佐玄雄先生の態度で、宇佐晋一先生が講話で話された内容です。
 森田療法というのは不思議な精神療法だと思います。精神療法というと、積極的に「患者」にかかわるか、積極的でないにしても、傾聴するとか、いずれにしても患者とかかわろうとします。けれども、森田療法ではそれをしない。もちろん、最初は診断などもあるでしょうから、色々話を聞くのでしょうけれども、入院したあとは、あまり言葉を使わないようです。 宇佐玄雄先生は、森田療法のことを「自覚療法」とも言っていたそうです。
 症状を、治すべきものととらえるか、誰にでもある当然のことととらえるか。その姿勢にも関係していると思います。

河合隼雄先生と森田療法

2008-08-25 23:58:20 | 宇佐晋一先生の本
 「あるがままの世界」(宇佐晋一著)の巻頭に、京都大学の故河合隼雄先生が「宇佐晋一先生と森田療法」という文章を寄せている。昔から河合隼雄先生の本が好きで読んでいた。でも、河合先生と森田療法の接点があっただなんて、この本を読むまでは知らなかった。精神分析と森田療法は、確か仲が悪かったはず...。
 河合先生は、数学科から心理学に転向したときに、手当たり次第に読んだ本の中に、森田正馬の本もあったとのこと。『「精神交互作用」を初めとする、その説明にも納得できるところがあった。』とのことである。

昭和30年くらいに、ロールシャッハ・テストを森田療法を対象として研究しようとして、宇佐先生を訪ねたそうだ。その研究は昭和33年に『ロールシャッハ研究Ⅰ』に発表された。『この論文執筆時には、宇佐先生と、診断や療法後の評価について、大分長時間にわたって話しあったものである。』

 『その反面、日本もどんどん西洋化しつつあり、日本人の意識も変わりつつある。このために、日本人の治療に、フロイトやユング、ロージャスなど外国人の各節が-そのまま適用されないにしても-役立っていることは事実である。しかし、このとき、日本人に向くように、意識的・無意識的改変が行われ、そのときに、森田的発想が少なからず関係してくる』

 私が河合先生の本を読んで、拒否反応を持つどころか、すごく惹かれたのは、河合先生が、やはりユング心理学を「日本人に向くように」改変しているところがあったからだろう。晩年は仏教関係の本も書かれていた。

 私の好きな河合隼雄先生と、宇佐先生との接点があったということは、とてもうれしい発見だった。


宇佐玄雄先生の本

2008-08-22 22:33:08 | 森田療法関係の本
 図書館に、宇佐玄雄先生の本を読みに行った。私の敬愛する宇佐晋一先生のお父上で、森田正馬先生の一番弟子とも言える方だから、どんなことが書かれているのかと、楽しみだった。昭和20代くらいの本で傷みも進んでいるので、貸し出し、コピーは出来ないとのこと。図書館でちょっと読んでみた。
 まだ少ししか読み進んでいないが、森田先生の書かれている内容がほぼ忠実に書かれているという感じ。でも、肩こりの治し方なんてことが書いてあったりして、なかなか面白かった。忙しいので、次いつ読みにいけるかわからないけれども、時間を作って、また行こうと思っている。

今日の出来事

2008-08-21 22:25:51 | 日々の出来事
 今日は講義の日。この日のために、ここのところは暇があったらお勉強。でも仕事も忙しくなって、帰ってくるのが11時近くになったりするので、大変だった。
 受講生の中には、すごく頭の切れる人がいる。自分だったら、こんなこと思いつかない、というようなことを聞いてきたりする。講師の腕試しで、あえて質問をぶつけているのかもしれない。
 黒板に間違ったことを書いて、受講生の方に指摘されることもたびたび。でも何とか乗り切った。色々準備していて、お伝えしようと思っていたことはお伝えできた気はしている。後は、受講生の人がどう受け止めてくださるか..。
 最近は、怖くてアンケート結果を全然見ていない。勇気が無い。3年後くらいに見るとしましょうか。また次回の講義に向けて、準備のスタートです。

 講義が終わって、相変わらず不安・後悔で一杯だったけれども、以前のように動けなくなるほどではない。というか、こういうときだからこそあえて動いているところもある。

トイレの紙

2008-08-20 22:28:14 | 宇佐晋一先生の本
 『昔、森田先生のところで実際にあった話ですが、尾籠な話ながらトイレで、これは大便所のことでありますが、用便中に二本の手をムダに何も遊ばせておく手はないというわけですね。そこで前に置かれた一冊の古雑誌を、少しずつ紙をはがしてはそれを次の人が使うためにもんでおくというような作業が同時に行われたということです。これはもう今日ではほとんどすることもないですが、一つの特色のある例として申し上げておきたいのです。』(あるがままの世界 宇佐晋一著 p.58)
 昔は古雑誌をちぎってお尻を拭いていたんですね。後から入ってきた人がくしゃくしゃのちぎった紙を見て、有難いと思うかどうかはさておき、森田先生の徹底した実践ぶりが垣間見られるようなお話です。

脱論理

2008-08-19 23:44:50 | 宇佐晋一先生の本
 森田先生は神経症だったとき、親からの仕送りが途絶え、あてつけに死ぬつもりで勉強に取り組んだら治ってしまったという。森田療法を学んで治ったわけではない。治った経過を後から振り返ってみたときに、森田療法の理論が生まれたということだと思います。先に森田療法があったわけではない。
 だから、森田療法のことがよくわかっていないから治らないのだという反省は不要だと思います。私もまだまだ森田療法のことをよく理解しているわけではありません。ただ、最近はひとつひとつの行動を大事にするようにしています。
 森田先生は、練習で飯を炊かれてはたまらんと叱ったというようなことを本で読んだ記憶があります。治るために行動するのではなくて、飯を炊くならおいしい飯を炊くことに取り組む。
 さっき風呂に入っていたのですが、髪の毛を洗うときには、いかに汚れを落とすか、地肌を気持ちよくマッサージするか工夫してやってみる。
何をやるにしても、プロとしての気概を持ってやってみるということでしょうか。

『森田療法で真に治る姿の実際は、分かって治るのではなく、治ってからわかるのです。なにが真実でないかといえば、これは説明が簡単です。自己意識内容を訳の分かる形に筋を通して組み立てた部分が作られた自分で、それは考えにすぎませんから、真の実在ではないのです。脱論理は全然筋を通そうとしませんので、概念化されることがなく、自己意識内容に思想の矛盾を来すこともありえません。また自分で自分をきめることもできないため自己暗示も起こりません。さらに注意と感覚の交互作用さえも、その背後にある解決を目ざす一貫した論理がなくなれば消滅するほかありません。最後にヒポコンドリー性基調はどうでしょうか。これは心気症的な自己不全感ですから先に自分の完全な姿を描いているわけで、その理想像から論理を抜き去れば自分は健全でないという考えも成立しなくなります。生の欲望・死の恐怖も価値の比較に明確な論理がなくなれば、方向性を失って病感の増大に寄与することもありません。

 このようにして森田神経質の成立、症状発展や固定のメカニズムのことごとくが知的な論理の上に成り立っていたことを思うと、脱論理がひとたびはっきりしたときには森田神経質・神経症の絶対不成立がおのずから実現しないではおかないのです。それのみならずすべての悩みという悩みから一挙に解脱する道なのです』
(宇佐晋一先生の講話 三省会ホームページより)