内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

三聖病院に入院

2009-07-31 22:32:09 | 水谷啓二先生の本
『いろいろ迷ったあげく、
どうしても森田療法を措いて治す方法はないと観念した。
しかし森田博士のところを許可も得ずに退院した手前もあって、
再入院をお願いする勇気がでない。

それでこんどは、森田博士の高弟、
宇佐玄雄博士の主宰される三聖病院に入院した。
それは昭和五年盛夏のころであった。
ここで三ヶ月ばかり入院して、いろいろの教示を受けた。

 入院といっても、普通の入院とは異なり、
一種の修養療法である。
その療法というのは、主観的な気分や感じは
事実そのものではないのであるから、
自分の気分がどのようであれ、気分にはかまわないで、
自分本来の性情である向上心を満足させる方向に
邁進することを会得させるのである。

神経質の患者が苦しむのは、自分が向上しようとするのに、
何か障害がある、その障害を除きたいのに
どうしても除き得ないことに、いら立つ気分にほかならない。

ところがその障害たるや、書痙などの神経質の場合は、
みずからつくり上げた主観的なものであり、
架空のものである。

したがって当人としては主観的にはどう感じようと、
病感にかまわず、自己の向上に一路精進するより仕方がないことを、
教えられたのである。

 このようにして私も往生したというか、あきらめたというか、
ついに会社の仕事に精進することが
いちばんの治療法であることを悟った。
もちろん自分では完全に治ったとは思っていなかったが、
退院して会社にでようと決心した。

こう決心させることが、
森田療法の一つのねらいであることもわかったのである。』

(「慎重で大胆な生き方」水谷啓二著 p.146)


<純なる心>その2

2009-07-30 21:45:57 | 宇佐晋一先生の本
『皆様方が例外なく陥りがちなのはこうです。
心の葛藤の解決、不安に対する納得などを
性急に求めようとすることです。

心は自分の意思ではどうしようもない世界ですから
それらの心の動きに対しては、知らん顔、
放ったらかしにすることが肝要なのです。
つまり心の問題は自分で責任をとる必要がないことなのです。

心というものはもやもやとしたものでして、
明確な、きっぱりと、はっきりとした姿を
示されることがない方向へと、
どなた様のお気持ちのなかでも変化し続けるのです。

しかし、人間の知性というものは、
物事をはっきりつかみたいということから、
何時も形を与えていこう、決まったものとして
捕らえていこうというふうに、
考えや言葉で組み立てていく働きをいたします。』
(「あるがままの世界」宇佐晋一著 p.40)

『おはずかしいことですけれども、
これは永年、私が迷いまして、
「過ちて皿を割り 驚きて之をつぎ合わせて見る」
という、そのところを条件のように考えていたものです。

ところがこれはもうそういう状況の説明で、
別にそうでなくてもいいわけです。
つぎ合わせて見なくてもかまわないのですね。
接着剤の置き場を考えて早速そっちへ歩き出してもいいし、
また、あやまらなければならない人がいれば、あやまる
ということも必要になってまいります。

このつぎ合わせて仕方がないものをついでみるという、
それが<純な心>かしらと私はかつて思いましたけれど、
これはそうではなくて、要はそういうときにはそのようなことが、
心に対して知的な加工が行われる前に心としてありうること、
それがたまたま行動としてつぎ合わせるという格好で出てきたのを
うまくとらえての森田先生一流の語録なんですね。』(同 p.49)

皿を割ってしまったときに、
自分の心の内に意識が向く前に、
例えば皿をつぎ合わせてみる、
あやまりにいくというような行動に移る身軽さというか、
無意識さが<純な心>に基づいた行動であり、
<純な心>を大事にするということに
なるのではないかと思っています。

その身軽さを養うためには、
心に意識を向けずにあるがままにしておき、
外の世界に意識を向けておくことが
大事ではないかと思います。

<純なる心>

2009-07-28 23:10:37 | 水谷啓二先生の本
たまたま水谷啓二先生の「森田療法入門(上)」を開いたら、
面白い文章に出くわした。

『私自身がかつて神経質のとらわれに悩み抜き、
正馬先生の導きによってそれから脱皮させていただいた体験を通じて、
この<純なる心に目覚める>ということが、
森田療法におけるもっともかんじんなところであると、
私は思っています。(中略)

この<純なる心>の働きが体験されると、
その人の生活のすべてに、大きな変化が現れてきます。
その変化は、はじめはかすかでありますけれども、
芽を出した木の芽が伸びるように、しだいに大きく伸びてきて、
やがては美しい花が開くのであります。』(p.119~120)

この文章の前に、<純なる心>と<悪智>の違いについて
書かれているのだが、この違いを知ることが大事なことかと思う。

<純なる心>を大事にする、ということになると、
<純なる心>に気づくとか意識するという方向に
なりがちになるのだが、そういうことではなくて、
純なる心のままに、そのままにほうっておくこと。

「<純なる心>の働きが体験される」
というのが自分の中で感じられる。

「はじめはかすかでありますけれども」
と書いてあるが、そのかすかな変化を
自分の中で感じ始めている。

あいかわらず、不安の日々

2009-07-28 00:23:49 | 考え事
あいかわらず、なんとなく不安な気持ちを持って
生きている。

このブログのサブタイトルに、
「不安と共に生きる」
と書いたように、
心の中が不安のままであることに
ちょっと慣れてきたところがある。

不安でいるのが当たり前になってくると、
不安があってもあんまり騒ぎ立てないで
済むようになってくる。