以前引用した下記の森田先生のエピソードについて考え事をしていました
『昔、森田先生のところで実際にあった話ですが、尾籠な話ながらトイレで、これは大便所のことでありますが、用便中に二本の手をムダに何も遊ばせておく手はないというわけですね。そこで前に置かれた一冊の古雑誌を、少しずつ紙をはがしてはそれを次の人が使うためにもんでおくというような作業が同時に行われたということです。これはもう今日ではほとんどすることもないですが、一つの特色のある例として申し上げておきたいのです。』(あるがままの世界 宇佐晋一著 p.58)
森田先生の頭の中は、他人に自分ができることは何かないか、ということで一杯だったのでしょう。自分の後から入ってくる人のことが思い浮かんで、その人のために自然に古雑誌を揉んでおいた。その行動はもはや自分の症状を治すため、とかそういうことではないでしょう。
「他人のために」ということで一杯になっている頭には、もはや「神経症」の居場所はなくなっている。
病人で手足が動かない人でも、見舞いに来てくれた人には笑顔で応えることで、その人に安心を与えることもできる。五体満足な人ならなおさらのこと。
いつも自分のことばかり考えていることを、ちょっとだけ誰か他の人のために振り向けてみる。そんなふうに自分の心のエネルギーの使い方が変わってくると、少し楽になるのかもしれません。
なんか、森田先生のそういうところを見習いたいなーと思いました。でもまだ自分が楽になるための行動になってしまっているところもありますが、まあこれも仕方のないことです。
『昔、森田先生のところで実際にあった話ですが、尾籠な話ながらトイレで、これは大便所のことでありますが、用便中に二本の手をムダに何も遊ばせておく手はないというわけですね。そこで前に置かれた一冊の古雑誌を、少しずつ紙をはがしてはそれを次の人が使うためにもんでおくというような作業が同時に行われたということです。これはもう今日ではほとんどすることもないですが、一つの特色のある例として申し上げておきたいのです。』(あるがままの世界 宇佐晋一著 p.58)
森田先生の頭の中は、他人に自分ができることは何かないか、ということで一杯だったのでしょう。自分の後から入ってくる人のことが思い浮かんで、その人のために自然に古雑誌を揉んでおいた。その行動はもはや自分の症状を治すため、とかそういうことではないでしょう。
「他人のために」ということで一杯になっている頭には、もはや「神経症」の居場所はなくなっている。
病人で手足が動かない人でも、見舞いに来てくれた人には笑顔で応えることで、その人に安心を与えることもできる。五体満足な人ならなおさらのこと。
いつも自分のことばかり考えていることを、ちょっとだけ誰か他の人のために振り向けてみる。そんなふうに自分の心のエネルギーの使い方が変わってくると、少し楽になるのかもしれません。
なんか、森田先生のそういうところを見習いたいなーと思いました。でもまだ自分が楽になるための行動になってしまっているところもありますが、まあこれも仕方のないことです。