内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

「あるがまま」は母親の愛情?

2008-11-02 22:45:11 | 森田正馬先生の本
 毎月送られてくる生活の発見会の会誌の中で、森田先生の本の抜粋がありました。
 『面白い話も出ないようだから、入院患者の日記を一つ批評してみます。日記に、「夜は『事実唯真』の彫刻をする。興味が起こらず、居眠りを催す。小刀を動かすだけで、時間のくるのを待つにすぎない。困ったものなり」と書いてある。これに対して、赤字の批評「それでよし。当然のこと」とある。次に、「第十日。寝床に束縛を感じたが、思い切って起きた。一日熱のない仕事ぶり、他の人がやっているから、やるというに過ぎぬ・・・・」評「それで上等。これを従順という」としてある。
 昼間一日働いて、夜疲れて、眠くなり、彫刻をしても、身が入らない。それはその時と場合とにおける心の状況であって、腹のへらない時に、食が進まないと同様である。なんともしかたがない。この時に身が入らなくてはいけないとか、食が進まなくてはならないとかいって、我と我心に反抗して、自分の心をやりくりしようとするのを「心が内向く」といい、「自然に服従しない」というのであって、この反抗心が、心の葛藤となって、強迫観念の元となるのである。
 次に「時間来るのを待つ」というのは、いやいやながら、よく入院規則を守るのであって、これを従順というのである。それで自分の心に反抗せずに、素直に規則を守っていさえすれば、腹のへるべき時はへり、興味の起こるべき時にはおこってくるのである。
 仕事に熱がない。興味の起こらない時には、ただ規則に示された通りに、他人の真似なり仕事のふりをしていてもよい。ただ規則にしたがっていさえすれば従順である。また腹はへらなくとも、イリ豆をちょいちょいつまんでいるうちに、いやいやながらやっているうちに、ツイツイ身が入って、興に乗ってくるようになる。この辺の気合を体得してもらわなければならない。(『森田正馬全集第5巻396頁上上段8行~下段11行』)』

 森田先生の「あるがまま」というのは、母親の愛情のようなものに思えました。父親の「かくあるべし」というような厳しさはなく、そのままを受け入れてくれるのが「あるがまま」。
 小刀を動かすだけで、全然集中していない子どもがいたとしたら、父親はちゃんとやれと叱るかもしれません。しかし、母親は子どもが昼間色々作業をして疲れているのをちゃんと知っていて、そのことを攻めずに優しく見守ってあげるかもしれません。
 自分自身に対しても、厳しい父親の態度をとるのではなく、このように愛情のある母親の態度で接することが重要に思えました。