16日の朝6時、ホテルでシャワーを浴びようとしたところ、思わず熱湯を右足にかぶり足の甲を思いっきり火傷してしまった。皮膚は剥がれて一大ハプニング。西帰浦医療院に行く事になりタクシーを呼んでもらった。幸せなことに生野区で働いた経験のあるドライバーがたまたま来てくれて診察時も通訳して下さった。処置が痛くて「アイゴー」と思わず言うと「医者は痛くないですから」と慰めてくれてほっとした。9時から開館するホテル近くの「李ジュンソプの住居&美術館」(正房洞512-1)に杖をついて行った。李ジュンソプ(1916~1956)は、平壌生まれ、日本の東京文化学院美術科に在学中、日本自由美術家協会展に出品し脚光を浴びた。1945年日本人山本方子と元山で結婚、1951年妻と二人の息子を連れて西帰浦にやって来て避難生活をおくるが翌年妻子を日本に送り、埠頭で肉体労働をしながら全国をさすらい、戦争が終わるとソウルへ行く。1956年40歳の若さで世を去った最も韓国的・近代的画家と評価されているとリーフレットにある。その後東回りで済州市までがその日のコース。最初に城山日出峰は代表的な観光地だが4・3事件で民衆が虐殺された場所である。すぐ下にある洞窟壕(日本海軍特攻基地)は20本位あるらしいが私は遠くから見るだけにした。その後済州海女抗日運動公園・済州海女博物館へ。
海女の生、海女の仕事場、海の3つの展示室があるが、仕事場の展示室では海女に関する歴史記録と漁業共同体ジャムスフェ(潜水会)の足跡、海女の抗日に関する記録と夜学堂の様子を再現している。出稼ぎ海女では和歌山、千葉などと関連が深い。次に目指すは北村初等学校である。1949年1月17日、この運動場で多くの命が奪われた。村に火をつけられ学校に集められた人々が30人位づつ殺されてしまったのである。慰霊塔が2007年に完成、資料館もできているが昼休みで無人の中で見て回った。お昼はやはり虐殺のあった咸徳海水浴場付近で海産物のお昼を取り、その後朝天万歳の丘聖域化公園・済州抗日記念館へそして最後は済州4・3平和公園の4・3平和博物館である。4・3事件にいたるまでの歴史を詳しく熱心に日本語で解説して頂いた。文さんから「この人達は4・3に関心の深い日本人だから・・・。」と依頼してくれたおかげである。犠牲者の名前が電光で表示されるようになっているがドライバーの文さんのアボジの名前を確認した時、文さんの目に涙が滲んでいたのが忘れられない。済州島は海が綺麗で日本から観光に出かける人は多い。しかし、4・3事件の事を抜きには出来ないだろう。必ずここを見て欲しいと思う。日本の植民地時代に済州島を要塞化したこと、解放後なぜ4・3事件が起こったのか韓日の歴史的繋がりを認識するのは日本人としての責任である。
宿泊は、済州市の「太京荘旅館」で大阪の済州研究会辛在郷先生のオモニの経営。
お連れ合いさんには翌日「塔洞365日医療院」に治療で連れて行って頂く等大変お世話になりました。無事帰国して約1ケ月通院し完治致しました。心配して下さった方々に感謝致します。17日は「観徳亭」付近を散策して空港に向った。観徳亭は済州島に現存する最古の建造物、1947年3月1日済州北初等学校での記念式後のデモ行進で警察官が発砲し死者6人を出し、4・3事件の発端となった。済州空港は1940年代初め日本が軍事的目的で住民の強制労働で建設された。そして4・3抗争当時討伐隊によって島民が数多く処刑された虐殺地の一つである。18日に帰国するまで足の火傷に意識が集中し、深いところで感じることができなかった。もう一度行き直しをしなければと思っている。
海女の生、海女の仕事場、海の3つの展示室があるが、仕事場の展示室では海女に関する歴史記録と漁業共同体ジャムスフェ(潜水会)の足跡、海女の抗日に関する記録と夜学堂の様子を再現している。出稼ぎ海女では和歌山、千葉などと関連が深い。次に目指すは北村初等学校である。1949年1月17日、この運動場で多くの命が奪われた。村に火をつけられ学校に集められた人々が30人位づつ殺されてしまったのである。慰霊塔が2007年に完成、資料館もできているが昼休みで無人の中で見て回った。お昼はやはり虐殺のあった咸徳海水浴場付近で海産物のお昼を取り、その後朝天万歳の丘聖域化公園・済州抗日記念館へそして最後は済州4・3平和公園の4・3平和博物館である。4・3事件にいたるまでの歴史を詳しく熱心に日本語で解説して頂いた。文さんから「この人達は4・3に関心の深い日本人だから・・・。」と依頼してくれたおかげである。犠牲者の名前が電光で表示されるようになっているがドライバーの文さんのアボジの名前を確認した時、文さんの目に涙が滲んでいたのが忘れられない。済州島は海が綺麗で日本から観光に出かける人は多い。しかし、4・3事件の事を抜きには出来ないだろう。必ずここを見て欲しいと思う。日本の植民地時代に済州島を要塞化したこと、解放後なぜ4・3事件が起こったのか韓日の歴史的繋がりを認識するのは日本人としての責任である。
宿泊は、済州市の「太京荘旅館」で大阪の済州研究会辛在郷先生のオモニの経営。
お連れ合いさんには翌日「塔洞365日医療院」に治療で連れて行って頂く等大変お世話になりました。無事帰国して約1ケ月通院し完治致しました。心配して下さった方々に感謝致します。17日は「観徳亭」付近を散策して空港に向った。観徳亭は済州島に現存する最古の建造物、1947年3月1日済州北初等学校での記念式後のデモ行進で警察官が発砲し死者6人を出し、4・3事件の発端となった。済州空港は1940年代初め日本が軍事的目的で住民の強制労働で建設された。そして4・3抗争当時討伐隊によって島民が数多く処刑された虐殺地の一つである。18日に帰国するまで足の火傷に意識が集中し、深いところで感じることができなかった。もう一度行き直しをしなければと思っている。