在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

4月14日~18日まで木浦・済州島に行って来ました(3)

2009年07月28日 18時01分01秒 | Weblog
16日の朝6時、ホテルでシャワーを浴びようとしたところ、思わず熱湯を右足にかぶり足の甲を思いっきり火傷してしまった。皮膚は剥がれて一大ハプニング。西帰浦医療院に行く事になりタクシーを呼んでもらった。幸せなことに生野区で働いた経験のあるドライバーがたまたま来てくれて診察時も通訳して下さった。処置が痛くて「アイゴー」と思わず言うと「医者は痛くないですから」と慰めてくれてほっとした。9時から開館するホテル近くの「李ジュンソプの住居&美術館」(正房洞512-1)に杖をついて行った。李ジュンソプ(1916~1956)は、平壌生まれ、日本の東京文化学院美術科に在学中、日本自由美術家協会展に出品し脚光を浴びた。1945年日本人山本方子と元山で結婚、1951年妻と二人の息子を連れて西帰浦にやって来て避難生活をおくるが翌年妻子を日本に送り、埠頭で肉体労働をしながら全国をさすらい、戦争が終わるとソウルへ行く。1956年40歳の若さで世を去った最も韓国的・近代的画家と評価されているとリーフレットにある。その後東回りで済州市までがその日のコース。最初に城山日出峰は代表的な観光地だが4・3事件で民衆が虐殺された場所である。すぐ下にある洞窟壕(日本海軍特攻基地)は20本位あるらしいが私は遠くから見るだけにした。その後済州海女抗日運動公園・済州海女博物館へ。
海女の生、海女の仕事場、海の3つの展示室があるが、仕事場の展示室では海女に関する歴史記録と漁業共同体ジャムスフェ(潜水会)の足跡、海女の抗日に関する記録と夜学堂の様子を再現している。出稼ぎ海女では和歌山、千葉などと関連が深い。次に目指すは北村初等学校である。1949年1月17日、この運動場で多くの命が奪われた。村に火をつけられ学校に集められた人々が30人位づつ殺されてしまったのである。慰霊塔が2007年に完成、資料館もできているが昼休みで無人の中で見て回った。お昼はやはり虐殺のあった咸徳海水浴場付近で海産物のお昼を取り、その後朝天万歳の丘聖域化公園・済州抗日記念館へそして最後は済州4・3平和公園の4・3平和博物館である。4・3事件にいたるまでの歴史を詳しく熱心に日本語で解説して頂いた。文さんから「この人達は4・3に関心の深い日本人だから・・・。」と依頼してくれたおかげである。犠牲者の名前が電光で表示されるようになっているがドライバーの文さんのアボジの名前を確認した時、文さんの目に涙が滲んでいたのが忘れられない。済州島は海が綺麗で日本から観光に出かける人は多い。しかし、4・3事件の事を抜きには出来ないだろう。必ずここを見て欲しいと思う。日本の植民地時代に済州島を要塞化したこと、解放後なぜ4・3事件が起こったのか韓日の歴史的繋がりを認識するのは日本人としての責任である。
宿泊は、済州市の「太京荘旅館」で大阪の済州研究会辛在郷先生のオモニの経営。
お連れ合いさんには翌日「塔洞365日医療院」に治療で連れて行って頂く等大変お世話になりました。無事帰国して約1ケ月通院し完治致しました。心配して下さった方々に感謝致します。17日は「観徳亭」付近を散策して空港に向った。観徳亭は済州島に現存する最古の建造物、1947年3月1日済州北初等学校での記念式後のデモ行進で警察官が発砲し死者6人を出し、4・3事件の発端となった。済州空港は1940年代初め日本が軍事的目的で住民の強制労働で建設された。そして4・3抗争当時討伐隊によって島民が数多く処刑された虐殺地の一つである。18日に帰国するまで足の火傷に意識が集中し、深いところで感じることができなかった。もう一度行き直しをしなければと思っている。

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4月14~18日迄木浦、済州島に行って来ました(2)

2009年07月28日 10時28分39秒 | Weblog
15日済州港に13:10着。文仁珠さんのタクシーで今日は西回りで西帰浦港までの予定である。最初に港に近い景勝の地「龍頭岩」を見学し、「抗蒙遺跡地」に着く。13世紀中頃、モンゴルの侵略に対して高麗武人の精魂が、籠もった三別抄軍が最後まで抵抗した砦であると案内文にある。そして翰林公園へ、漢拏山の火山噴火によって形成された天然洞窟に入る。修学旅行生で混みあって歩きにくい。司馬遼太郎訪問記念碑が立っている。私は旅行前より右足を悪くしていたので携帯の杖をついてヒョコヒョコと歩み、まわりをゆっくり見回すゆとりがなかった。次に済州市翰京面平和村、カマオルム洞窟陣地(日本軍地下要塞)・平和博物館を訪ねる。太平洋戦争末期、日本軍に強制徴用された地域住民が素手で掘らされた陣地である。洞窟300mが見学用に整えられ生々しく当時の様子を感じるようになっている。展示室には日本軍が使っていた各種資料が展示され、映像室では洞窟陣地や飛行場建設に強制労働させられた労働者のインタビューも上映されている。日本軍の戦跡についての研究者塚崎昌之さんの友人と言うことでお茶まで出して頂いて感謝。更にそこからモスル浦戦跡地を通りながら車窓見学、10年前に見たアルトル飛行場跡の掩体壕が目に入る。さらに車を進めソサルオルムの旧日本軍弾薬庫跡へ、この場所(百祖一孫合同慰霊碑前)で1950年8月20日、4・3事件関連で「予備検束」された住民が集団虐殺されたのである。7年経って遺族が遺骨を捜しにきても遺体の判別がつかず「百祖」と名付けてお墓をたてた。2008年より弾薬庫前の「百祖一孫合同慰霊碑」前で慰霊祭が行われている。足立さんが1人で慰霊祭が行われている時にこの地を訪ね遺族で個人タクシーをされている文仁珠さんと知り合い今回の旅でお世話になると言う縁である。文さんのアボジの名前も刻まれている碑の前で手を合わせてから西帰浦市グッドインホテルにチェックインして一日の予定を終えた。



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