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在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

第25回光明池現地学習会が無事に終わりました

2021年10月26日 10時25分11秒 | Weblog
今年は、10月23日(土)
秋晴れの天候に恵まれて
フアインプラザでの室内学習会(1時間)







フイールドワーク(本堤防、光明池守護神社、本堤防の石碑、朝鮮人労働者犠牲者慰霊碑)も快適に実施できました。



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2006年に建立した説明版
1年間かかって碑文が出来上がりました
皆さんの協力の賜物です。


光明池工事の証言をしてくださった方々がほとんど他界されました。
最近は21年間調査に付き合ってくださった
朴南出さんの息子さんも6月に急逝され、寂しさをかみしめています。
小学校6年間、光明池工事を見てきた井上実さん(18年前に逝去)は、朴南出さんの息子さんと友達で
一緒に光明池歴史調査に同行して説明してくださいました。
二人に思いを馳せて『みのるじいさんから聴いた話」を今年度中に冊子としてまとめることにしました。
学習会参加の方々に聞いていただきました。
慰霊碑前では、在日の方々によってチェサが行われましたが、コロナ下で昼食交流会は今年も中止でした。


2021年になって初めての投稿です

2021年02月21日 23時54分15秒 | Weblog
コロナの前は、膝を痛めて自由に行動できず
回復して動けるようになったらコロナで自粛
ハンセン病療養所の知人にずっと会いに行けません

病院に入っていておられてお見舞いに行ったら
「また来ておくなはれ」と言ってくれた
朴順慶さんもお見舞いできず
2020年12月9日に逝去
告別式で対面しました。
和泉市にあった泉北朝鮮小学校の先生でした。
活動されていたころのお写真を見て
もっと早くお会いしたかったと思うばかり
お話をお聞きした2011年3月11日は
東日本震災の起きたのも全く気付かず
長時間話しに引き込まれておりました。
千葉県いすみ市にいた妹(私の娘)が心配だと息子から帰る道中に電話があり
「お母さん、T子が流されてへんか、早く家に帰ってテレビ見て」というのでびっくり
帰宅すると連れ合いが娘に電話を入れてなんとかつながり一安心した日でした。
泉北朝鮮学校のことを書き残しますねと誓いたい。

2020年10月17日「光明池現地学習会」が行われます

2020年09月25日 12時26分46秒 | Weblog

この写真に写っているところをクリックしてパソコンで映像をご覧ください。
和泉市がドローンで光明池を撮影した映像は、広大さを実感できます。
もう一つは、光明池の歴史案内を森下徹さんがされています。

今年は、コロナ禍で室内での学習会はなしで、フイールドワークを実施します。
10時にフアインプラザ集合です。

今年の桜は美しく感じられます・・・大阪にあったハンセン病療養所「外島保養院」の移転予定地だった地から

2020年04月09日 21時48分23秒 | Weblog
大正末期に西淀川区にあった外島保養院は、国のハンセン病隔離政策を進めるために
300人定員から1000人収容の療養所にすることになりました。そして、旧泉北郡(今の堺市南区赤坂台)に移転計画が持ち上がりました。
旧泉北郡の移転反対運動は、1926年2月5日の郡民大会、その後国会に請願するまでになり、
結果は政友会と民政党の政争の具(票争い)とされ、頓挫しました。
更地にされた予定地には、1939年大阪府立結核療養所福泉園が建設されました。(それに対する反対運動も苛烈でした)
その当時の正門前に植えられた桜が今も古木となって花を咲かせます。80年もたつと老木となり伐採されたり、大きく剪定された木もあります。
咲きほこる元気が弱くなってきました。







古木








私は2011年5月、福泉園で亡くなった実母の最期を確かめたくて赤坂台を訪ねてこられた女性と偶然お会いしました。
市役所は場所だけ教えてくれたそうです。
昨年亡くなった私の義理の叔母は、福泉園で看護婦をしていたので「福泉園」の50年史を持っていて歴史に関心を持つ私にくれました。
その女性の母親は、一人福泉園で亡くなったのでした。私が50年史のコピーをお送りすると驚いて関東から電話をくださいました。
「母の死亡届が男性の名前で出されていたので再婚したのかと思っていたら、実は、事務長さんの名前だったのです」と。
結核になり離縁された母親でした。私も涙が止まらず手で拭いながら電話でしゃべりました。
私は、それから関東の女性に毎年桜が咲くと写真を撮って送っています。
今年は9年目、お互いに元気なうちは、毎年1度だけ、携帯(今はスマホ)メールを続けます。
そして、ひそかに桜を見て心の中で手を合わせます。この桜をお母さんも眺めておられたに違いないと思いを馳せながら・・・
私の住む赤坂台にこんな歴史があったのを知り、関東の女性と悲しいけど温かいお付き合いができるのも20年にわたって「大阪とハンセン病問題」に関心を持ち続けたおかげと思います。
ハンセン病問題にかかわって本当に良かったです。

今年は、新型コロナで桜まつりは中止です。
今、非常事態宣言下の大阪です。


泉南市にある林昌寺(真言宗)

2020年03月22日 22時50分24秒 | Weblog
寺庭の法林の庭の傍らには1565年の銘がある「補陀落渡海碑」
このお寺から2人観音信仰で東方浄土を目指して生きながら小さい船で船出したという。
南紀勝浦には、「補陀落寺」が世界遺産になっていて船も実物大のものが展示されている
補陀落の根拠地とか。足摺岬、室戸岬からも船出する僧が多かった。




「我見自如月輪」
目で見て読み切れなかったけど、1565年と刻銘されたのは、貴重だそうである。
歴史的な庭園

11月6日「和泉市における在日コリアンの歴史を考える会」で光明池無縁墓調査

2019年11月13日 15時49分53秒 | Weblog
三林、室堂、和田の共同墓地駐車場でT・Kさんと合流
待ち時間に光明池の風景を写真に撮りました。






共同墓地の頂上に登る
通路に残るお墓
1941年に亡くなった慶州出身の若者のお墓


その後、六地蔵にお参り、地元のAさんが同行して下さる
左の扉のなかにほこらのようなものが祀られている。
「朝鮮人犠牲者を祀っている」と過去に現場で話してくれた方がいる。
墓地管理委員をしたAさんも知らずにいたとの話である。


外島保養院第85回忌法要後、縁のある了願寺を訪問

2019年10月06日 11時33分07秒 | Weblog
法要前の外島保養院記念碑の写真です

法要後、了願寺を訪ねました。
中島新田を開いた記念碑が墓地の隅に建っています

西淀川区制七十周年記念事業実行委員会発行の『西淀川区史』によると
1688年(元禄元年)に京都の丁子屋中島市兵衛が「中島新田」を開拓
(なお、1853年(嘉永6年)に中之島の布屋高瀬甚九郎が「布屋新田」を開拓)
邑久光明園『楓』1967年3月号によると1966年11月に風水害33回忌法要が現地でも行われ、了願寺の静演住職が読経しているとの記事があり、写真もあります。
外島保養院で入所者が亡くなると弔いに行かれていたそうです。
主に尼崎の常念寺が外島保養院で読経したとあり、無理な時に了願寺(先々代)がと記述があります。
50回忌の時には、本堂で静演住職が読経していたと現住職から伺いました。

代々の住職のお墓

(右側)


8月31日(土)午前10時から近藤宏一詩集『あきの蝶』をよむ

2019年08月27日 10時16分28秒 | Weblog
和泉市人権文化センターで
「みんなでよむ会」が近藤宏一さんの詩を朗読します
皆さん、近藤さんが和泉市に帰ってこられた時にお会いしています。
近藤さんが亡くなって早くも10年
近藤さんの幼いころの遊び場で実家のあった場所の隣町
私は、近藤さんの思い出を少ししゃべり、連れ合いが近藤さんの形見のハーモニカを紹介します。

昨日は、映画2本を見に十三へ車で行きました

2019年08月08日 12時25分01秒 | Weblog
12時から13時48分『三池  終わらない炭鉱(やま)の物語』(熊谷博子監督)
14時20分~16時11分『作兵衛さんと日本を掘る』(熊谷博子監督)
休憩22分です。お昼を食べる暇はない。
自宅から持って行ったおにぎり1個とカステラ菓子少々、水をお腹に入れて
延々映画デー。

これは、エルライブラリーで見ていたが、2度見ても感動しました。
大牟田は3度フイールドワークしています。
世界遺産になる前です。
与論島から台風により島ごと被害を受け、生活のために村長も率先して口之津に移住した人たち、三池港が開かれると大牟田へ移住
朝鮮人、中国人、連合軍捕虜、そして与論の人たちも差別され、その中を生き抜いて来たと知り、与論島にも行きました。与論では「十九の春」世界大会が開かれているとも聞きました。与論の方に3日間案内していただいたことを忘れません。
馬渡社宅(朝鮮人寮)の壁の落書きを発見した北九州の友人裵東録さんとは、長い付き合いです。記念碑を建てるために市と交渉した時の映像も脳裏にやきついています。

「作兵衛さんと日本を掘る」の方は、筑豊が舞台です。

1994年12月から25年間通ってきた場所です。
映画に出てくる場所は、ほとんど歩いています。
「筑豊の強制連行を考える会」のフイールドワークに参加したお蔭が大きいです。
映画に出てくる女坑夫が大変美しく思えました。
そして、地の底に生きた筑豊の女坑夫の聞き書きを続けて来られた鞍手町の井手川泰子さんも取材して欲しかったなあと一人思いながら帰路に着きました。