山高み 峰の嵐に 散る花の
月にあまぎる 明け方の空
作者 二条院讃岐
( No.130 巻第二 春歌下 )
やまたかみ みねのあらしに ちるはなの
つきにあまぎる あけがたのそら
* 作者 二条院讃岐(ニジョウノインノサヌキ)は、新古今和歌集を代表する女流歌人の一人である。生没年は確定されていないが、1141年頃の誕生、1217年頃の死去とされている。享年は七十七歳くらいか。
* 歌意は、「 山が高いので 峰の嵐で散る桜の花びらが 霧のようになって 月を曇らせている 明け方の空だなあ 」といった感じか。なお、「あまぎる」は「『天霧る』で、雲や霧などがかかって、空が一面に曇るさま。」をいう。
* 二条院讃岐は、著名な歌人であるが、歴史上の人物としても興味深い位置にある。
讃岐の父は、源頼政である。この人物は、平氏政権から源氏の世に移って行く時代に大きな働きをした人物の一人といえるのである。その働きは、平清盛や源頼朝あるいは義経といった表舞台での活躍ではないが、その陰にあって、時代の動きに確実に影響を及ぼしている。
公家政治から武家政治へと大きく動いた、保元の乱・平治の乱において頼政は勝利側に属し、壊滅状態となった源氏の灯を辛くも守り続けた人物である。そして、平氏全盛の中で、平清盛の信頼は厚く、武家としては破格の従三位に登り、源三位頼政と称せられた。
ところが、後白河法皇が平氏討伐に動くと、その皇子以仁王(モチヒトオウ)の決起に呼応し、諸国の源氏に打倒平氏の令旨を伝えたが、機熟さず、宇治平等院の戦いに敗れ自害している。
以仁王あるいは源頼政らの挙兵に対する評価は分かれるところであるが、後の世に大きな影響を与えたことは確かであろう。
* 二条院讃岐の母も、清和源氏出自の源斉頼の娘(孫とも)なので、讃岐は武家としての血筋を強く引いていることになるが、二条天皇即位間もない頃に内裏女房として出仕したらしい。十七歳の頃と思われる。そして、一、二年後には、内裏和歌会に登場しているので、早くからその才能は広く知られていたようだ。
その後も宮廷にあって多くの歌会に参加していたようで、女流歌人として存在感を高めていったと思われる。
* その後、二条天皇の崩御(1165年)後に、藤原重頼(鎌倉御家人で、相模守などを務めた。)と結婚し、重光・有頼らを儲けている。
1190年頃、後鳥羽天皇の中宮宜秋門院任子に再出仕し、宮廷歌壇にも復帰した。もっとも、宮廷歌壇には、内裏を離れていた期間も度々招かれていたようである。
* ただ、この期間については他説もあるようで、二条天皇の崩御より少し前に内裏女房を退き、1165年頃に皇嘉門院(崇徳天皇の中宮。太政大臣藤原忠通の娘で、兼実の異母姉にあたる。)に出仕した。1174年頃には藤原(九条)兼美の女房となり、やがて同居妻となった。1187年頃には、同家の北政所と称されていたとされ、同家の内所を切り盛りしていたという。そして、1190年、同家の姫の任子が後鳥羽天皇の中宮として入内するにあたって、讃岐は後見役のような立場を果たしたようであるが、引き続き九条(藤原)家を仕切っていたとされる。
なお、兼美は九条家の祖であり、一条家・二条家もこの家から誕生している。兼美は、摂政・関白・太政大臣に就いているが、1196年に失脚し、以後政界復帰は果たせなかった。1207年に没している。
* この二つの説は、登場人物に共通点が多いが、同一人物が両方の立場をこなしたとは考えにくい。伝統的には最初の説が主流のようであるが、結論は控えたい。
また、父である頼政の政治的な動きからの影響も皆無であったとは考えられないが、伝えられているものは多くないようだ。それに、頼政の動きは、平氏にとっては裏切りであるが、源氏にとっては功労者ともいえる立場であり、源氏政権下では少なくとも束縛を受けるようなことはなかったと考えられる。
* いずれにしても、1200年頃には、和歌会に本格的に復帰したようである。おそらく六十歳の頃で、すでに出家していたらしい。
晩年には、父頼政の所領であった若狭国宮川保の地頭職を継いでおり、伊勢国にある所領を巡る訴訟で高齢を押して鎌倉に旅したという事跡もあるので、深窓で和歌を詠む女房といった女性というより、大家の家裁を取り仕切ったり、所領を守るためには戦いも辞さぬ激しい気性の女性だったのかもしれない。
* 讃岐の作品は、新古今和歌集に十六首採録されているほか、後の勅撰和歌集にも多く採録されている。
ただ、個人的には、和歌の評価以上に、二条院讃岐の激しい時代をどのように生きたのかを知りたいが、残念ながら、伝えられている資料は少ないようだ。
最期に、小倉百人一首に入選している和歌を紹介しておこう。
『 わが袖は 塩干に見えぬ 沖の石の
人こそしらね かはくまもなし 』
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