見わたせば 花も紅葉も なかりけり
浦の苫屋の 秋の夕暮れ
作者 藤原定家朝臣
( No.363 巻第四 秋歌上 )
みわたせば はなももみじも なかりけり
うらのとまやの あきのゆうぐれ
* 作者藤原定家(サダイエ・テイカと読むことも多い。)は、新古今和歌集の撰者の一人。収録されている和歌は四十六首で第六位にあたる。( 1162 - 1241 )没年は鎌倉時代の仁治二年にあたり享年八十歳。
* 歌意は、「 見渡してみれば、美しい花も紅葉もない。入り江にある粗末な漁師の家だけが見える、しみじみとした秋の夕暮れだ」といった感じか。
和歌の前書きには、「西行法師、すすめて、百首歌よませ侍りけるに 」とあるので、実体験に基づくものではないと思われる。解説書の中には、源氏物語を意識した作品と評しているものもある。
* 藤原定家の父は、当時の歌壇の一人者である俊成。母は、美福門院加賀(伯耆とも)。
藤原北家御子左流の嫡流に生まれ、中納言にまで昇ったれっきとした公卿である。特に歌人としては、父は当代の一流歌人、寂蓮は従兄弟にあたるなど血統・実力ともに第一人者として、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した。
* なお、「御子左流」というのは、藤原氏の分流の一つとして文献などによく登場するが、その発祥は、藤原北家嫡流の道長の六男・権大納言藤原長家を祖としている。「御子左流(家)」と呼ばれるようになったのは、醍醐天皇の第十六皇子で左大臣に昇った兼明親王の通称「御子左大臣」に由来する。親王の邸宅・御子左弟を伝領した長家が、「御子左民部卿」と呼ばれたことから、この流れを「御子左流」と呼ぶようになったとされる。但し、「御子左」を家名として名乗った者はいない。
* また、この和歌は、この前に載せられている二首と共に、「三夕(サンセキ)の歌」とされ、秋の夕暮れを詠んだ名歌とされている。この三首は、共通して、三句目が「・・・けり」となっており、五句目が「秋の夕暮れ」で終わっている。
「秋の夕暮れ」という句を含む歌は、古来数多く詠まれており、筆者などは、現在でも、いくら下手な和歌でも「秋の夕暮れ」を五句目に入れれば、たいてい様になると考えているので、この三首が傑出しているとは思えないが、他の二首も紹介させていただく。
No.361 寂蓮法師
『 寂しさは その色としも なかりけり 槙(マキ)立つ山の 秋の夕暮れ 』
No.362 西行法師
『 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫(シギ)立つ沢の 秋の夕暮れ 』
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