今日ごとに 今日や限りと 惜しめども
またも今年に あひにけるかな
作者 皇太后宮大夫俊成
( No.706 巻第六 冬歌 )
きょうごとに きょうやかぎりと おしめども
またもことしに あひにけるかな
* 作者は、藤原俊成。俊成の最終官位が「正三位(非参議)皇太后宮大夫」であったことから、上記の表記となっている。( 1114 - 1204 )享年九十一歳。
* 歌意は、「 毎年、大晦日である今日になると、今日が最後の大晦日だろうと惜しんできたが、またも今年の大晦日である今日にあってしまった。」といったものであろう。
この和歌の前書きは、「千五百番の歌合せに」となっている。つまり、歌合せで詠まれたものあり、言葉遊び的な技巧面が目立つような気がする。しかし、その一方で、この時作者が八十八歳であったという記録を見れば、老境にあって明日知れぬ命を見つめている姿を、素直に詠んだものとも受け取れる。
* 俊成は、藤原氏の絶頂期を築き上げた道長の玄孫にあたり、藤原北家・御子左家の流れを引いており、当時としては一流といえる家柄に誕生した。しかし、従三位権中納言であった父・俊忠は、俊成が十歳の時に死去、その後は義兄の後見を受けたが、官職の昇進は思うにまかせなかったようだ。
十四歳の頃に従五位下美作守に任官しているが、国司という地位は、下級貴族にとっては羨望の地位ともいえるが、この若さで任官できたのは家柄ゆえと考えられる。しかし、その後は、加賀守など国司職を転々とし、国司職から脱するのは、二十四年後のことなのである。
* その後は遅ればせながら昇進していったが、政権の中枢につながるようなことはなかったようだ。そして、むしろそのことと類まれなほどの長命もあって、和歌に関しては当代随一と言われるような存在になっていった。
後鳥羽院口伝には、「やさしく艶に心も深く あはれなる所もありき」と評されている。また、息子の定家はもちろんのこと、寂蓮、藤原家隆、さらには、いわゆる身分としてはとても及ばない、九条良経、式子内親王、後鳥羽院らを指導し影響を与える立場になっていった。これらの人物は、新古今和歌集を代表する歌人と称される人物ばかりである。
極論になるが、藤原俊成こそが、最も「新古今調」的な歌人と言えるのではないだろうか。
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