雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

振り返って見る ・ 小さな小さな物語 ( 849 )

2016-10-12 15:13:15 | 小さな小さな物語 第十五部
山道をしばらく登り、少し息苦しくなった時などに立ち止り、ふと振り返って見ると、実にすばらしい景色を目にすることがあります。
私は本格的な登山の経験は全くありませんので、「そこに山があるから登るのだ」といった心境はとても理解できないのですが、ごく軽装でハイキング気分で登れるような山であっても、頂上なり目的地点なりに辿り着いた時の充実感は実に清々しいものです。さらに、四方とまではいかなくとも、たとえ一方だけでも遥かな眺望が望める所であれば、汗をかいて登って来た疲れなど吹き飛んでしまう体感は、やはりすばらしいものです。
また、頂上に至らなくても、ふと立ち止まった時や、コース途中に眺望台のような所でもあれば、そこから眺める景色も、三千メートル級の山の頂上から見るものとは雲泥の差があるかもしれませんが、私たちの心を和ませてくれるという点では甲乙つけがたいような気もするのです。

ゴールデンウィークに突入しました。
今年は比較的天候に恵まれそうな感じですが、この期間に登山をされる人も多いようです。いわゆるレジャーと呼ばれるものの種類は増えているようですし、それらを楽しむ人の数も増えているようです。その中で、登山は、そのレベルはともかく、今も昔も変わらぬ人気を保っているようです。特に最近は、中高齢者の登山人気は高いそうです。
そうした中で、毎年のように、この時期には、山の事故が増えています。避けがたい遭難もあるのでしょうが、その多くは、専門家の方から見れば、あまりにも無防備ゆえの事故が少なくないそうです。
あまりにも装備不足であること、実力以上のコース過ぎること、全くの素人集団であること、天候の変化を軽視しずぎることなどなど、ひどすぎる心がけの登山者も少なくないようです。
そして何よりも、体調の悪化や天候の変化を感じた時に、「引き返す勇気」が大切だと言われています。

登山中、ふと立ち止まり、振り返って見て登ってきた方向の景色を眺めることは楽しいことです。しかし、天候が予想より悪化しそうだとの情報や、予感に直面した場合、登山を中止して引き返すことは、なかなか決断できないものです。
登山に限らず、私たちは、立ち止まり振り返って見ることは簡単にできるのですが、計画や行動を中止して引き返すことは、なかなか容易なことではないようです。しかし、その決断は、後になれば後になるほど難しくなり、受けるダメージは大きくなっていきます。そのダメージが命取りになることも決して皆無ではないのです。

ある自動車会社で、燃費の虚偽操作が行われていたことが明るみに出ました。この会社は、かつてリコール問題でも隠ぺい体質が云々されたことがありますので、無茶を突き進めた結果の怖さは嫌というほど承知されていると思うのですが、組織となると経験から得たものが、なかなかうまく行きわたらないのでしょうか。
今回の件もは、明らかに意図的に虚偽行為を働いたのですから、当事者とその周辺は厳重に隠蔽対策を取ったと思われますが、もっと早い段階で、誰かが、立ち止まって振り返って見る機会があったと思うのです。残念ながら、声を出す勇気がなかったのでしょうか。
何もこの自動車会社ばかりでなく、多くの企業や公共団体で振り返りながら中止する勇気を持たなかった例は数多く見られますし、何かと話題になっている知事や、国会議員や地方議員の中にも、同様な例が山ほど透けて見えます。
ただ、少々心配なのは、振り返って見た場合、遠くの景色や他人の姿はよく見えても、自分の姿は見えないらしいということです。そばに付いている人が、厳しく注意してやってくださいよ。それが忠節というものですよ。

( 2016.04.30 )
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鳥の目も虫の目も ・ 小さな小さな物語 ( 850 )

2016-10-12 15:12:00 | 小さな小さな物語 第十五部
ゴールデンウィークの真っただ中、私は小さな庭で草ぬきに励んでいます。
今年もまた次々と芽吹き、そして花を楽しませてくれた球根たちもその盛りを終え、後は百合の成長を待つばかりになっています。チューリップを除けば、他の球根は植えっぱなしの物ばかりなのですが、年々増加している感じです。花の数はそれほど増えていないのですが、葉のボリュームは確実に増えているようで、それでなくても狭い花壇の大半を覆っています。いま我が家の庭の花の中心は、スミレやパンジー・ビオラの類と、今年もまた通路部分を埋め尽くすように咲き乱れているノースポールの白い花たちです。

水仙やアイリス、ヒヤシンス、ムスカリ、チューリップなどが混在している緑の塊をかき分けて見ると、これから花の季節を迎える花たちも遠慮深げに成長しています。
そこで、少し早いのですが、水仙などの葉を切り取ることにしました。そうすると、緑の塊の中に様々な雑草が期待通りに逞しい姿を見せています。それともう一つ、わが家の花壇では、かねてから、トラノオとシュウメイギクがさかんに勢力範囲を広げているのですが、このところ放置していたものですから、他の縄張りに進出し、シャクヤクの周りにも襲いかかっているのです。せっかく新規拡張に務めているのに可哀そうな気もしますが、それぞれの勢力範囲の確定も行っています。
今のところは幸い少ないのですが、この季節から後の草取りは、蚊や毛虫などの虫が多いのに困ります。蜂や蝶々もやってきますし、小鳥たちも来てくれますし、今は鳩が二羽、すぐ近くで何かを求めて歩き回っています。のんびりとさせていただき、まことにありがたいことですが、蚊や毛虫もお友達、といった心境にはなかなかなれないものです。

そう言えば、今更古い話になるのかもしれませんが、「三つの目を持ちなさい」という話を聞いたことがあります。経営手法に関する講演の場であったと思うのですが、大分前のことです。
三つの目というのは、「鳥の目」「虫の目」「魚の目」だそうです。「鳥の目」は、高い所から全体像を見るのに適していて、リーダーたるものは常に鳥の目で物事を見ることを忘れてはならない、というわけです。反対に虫の目は、足元をしっかり見なさい、ということのようです。理想論ではなく、現実の姿を直視した行動が必要なことを教えています。「魚の目」は、魚が水の流れを注意深く見ているように、時代の流れ、時代の変化を的確に捉えなさい、ということなのでしょう。

「鳥の目」で物事を見るということを考える時、私はトンビを想像します。大空を悠々と舞っていながら、獲物を見つけると急降下して捕えます。しかし、あれは、目で見ているのではなく嗅覚によるのだと何かで読んだ気がするのです。「虫の目」で物事を見るという教えはよく分かりますが、さて、ミミズに目は有ったのかな? と草を抜きながら考えてしまいます。「魚の目」となると、魚眼レンズのことが頭に浮かんでしまい、魚が水の流れを感じているのは目ではなく、きっと身体全体か、もっと別の感覚器官があるのではないかなどと考えてしまいます。
どんなに優れた教えでも、それを素直に吸収するとが出来ない人には、あまり役立たないのでしょうね、きっと。
それが証拠に、草を抜きながらこんなことを考えているのですから、予定の半分も進まないところで厭になってきているのです。

( 2016.05.03 )
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新緑の候 ・ 小さな小さな物語 ( 851 )

2016-10-12 13:54:56 | 小さな小さな物語 第十五部
「新緑の候」といえば、五月の手紙などの書き出しとして代表的なものではないでしょうか。
ふつう、三月・四月・五月を春として考えることが多いですが、「新緑の候」となれば、初夏の感覚ではないでしょうか。現に、今年は昨日の五月五日が「立夏」でしたから、今日あたりは立派な初夏といえます。

「風薫る五月」などという表現があるように、さわやかなイメージがあります。その空に鯉のぼりが舞っている姿をイメージさせれば、いかにも躍動的で力強さを感じさせてくれます。
それに、四月の末から五月の初旬にかけてをゴールデンウィークとして、正月と旧盆の中間にイベント期間を作っているのは、どういう成り行きから生まれたのか実にすばらしい配慮のような気がします。
たまたまこの辺りに国民の祝日が集まっていたことからゴールデンウイークという呼び名や大型連休が生まれてきたのですが、考えてみますと、五日の子供の日は端午の節句から生まれたのでこの日でないといけないわけですが、後は古い歴史がある日というわけではないのですから、偶然というわけでもないかもしれませんが、実によい期間を生み出したものと思うのです。

今年は、悲しいことに熊本・大分を中心とした大地震が発生し、今なお余震が治まらない状態が続いています。しかも、「新緑の候」「風薫る五月」でありながら、激しい風雨が断絶的に当地を襲っており、避難生活や復旧活動に支障をきたしているようです。
それでも、多くのボランティアの方々が訪れているようですし、自衛隊をはじめ、警察、消防、インフラ関係の会社等々が、ゴールデンウィークの最中も、あるいはその休みを利用して支援活動をされていることが伝えられていました。
あるいは、熊本の産品を買うことで励まそうといった動きも、東京など各地で見られることも、聞くだけで何だか嬉しくなってきます。

本日五月六日は、会社などにお勤めの方にとっては微妙な日のようです。休暇を中断された人にとっては、何となく気の乗らない日かもしれませんし、十日、あるいはそれに近い大型連休の方にとっては、ぼつぼつ残り日数が気になりかけている頃ではないでしょうか。
五月はさわやかなイメージがあるとはいえ、すでに各地で真夏日が登場していますし、全国的にも台風まがいの風雨もありました。残念ながら各地で不幸な事故も幾つも報じられています。
「五月雨(サミダレ)」というのは耳ざわりの良い言葉ですが、梅雨のことです。「五月晴れ」も、本来はさわやかな好天というより、梅雨の晴れ間の強い日差しをさします。五月は、天候からいえば、そうそう優しいばかりの時期ではないようです。大型連休の残りの二日は、気力体力を充実させることに務め、厳しい夏に向かって備えたいところです。
とはいえ、帰郷や旅行の日程が詰まっている人も少なくないようですから、くれぐれも気をつけてお帰り下さい。

( 2016.05.06 )
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方違え ・ 小さな小さな物語 ( 852 )

2016-10-12 13:53:56 | 小さな小さな物語 第十五部
平安時代の古典の中には「方違え(カタタガエ)」という言葉がよく登場してきます。私の大好きな『枕草子』はもちろんのこと、小説や日記文学と呼ばれるものなどの中にも、必ずと言っていいほど記されています。
「方違え」とは、その言葉の通り、方角を変えるという意味ですか、当時の生活の中に深く溶け込んでいて、重要な意味合いを持っていたようです。
これは、陰陽道に基づくものですが、現在の私たちから見れば、単なる迷信と受け取ってしまいがちですが、どうしてどうして、それほど簡単に判断してしまってよいものではなさそうです。

自宅から出かける時、あるいは帰える時などに、向かう方角が障りがないかを調べ、障りがある場合には、別の方角の然るべき場所で一夜を過ごし、それから目的地に向かう必要があるわけですから、ちょっと出かけるといっても、知識も時間も費用も必要としたわけです。さらにこの「方違え」は、単に出かけるということだけでなく、宮中行事や、造作の開始、戦の開始、などにも影響を与えたそうです。
この「方違え」、ちょっとばかり調べてみますと、相当大ごとだということが分かります。障りのある方角というのは、その方角に方位神という神がいるため、その方角に行けばわざわいを受けるためです。しかも、その方位神にはいくつかの種類があり、しかもじっとしていないで移動するというのですから大変です。主な物を挙げてみますと、
「天一神(テンイチジン)」は、同じ方角に五日間留まっている。
「太白(タイハク)」は、毎日位置を変える。
「大将軍」は、三年間留まるので、三年塞がりとなる。ただし、遊行日(ユギョウビ)というものがあり、その日は障りがないとされる。
「金神(コンジン)」は、一年間留まる。
この他にもあるようなので、複数の方位神が様々な法則によって方角を塞いでいたので、わざわいを避けて行動することは、簡単なことではなかったと思われます。

「方違え」が、一般庶民にまで広がっていたかどうかは分からないのですが、少なくとも朝廷や貴族の間では相当厳密に行われていたようで、「方違え」のため一夜泊る場所に寺院が選ばれることが多く、そのため大寺院はどんどん裕福になっていったそうです。上級貴族の外出となれば、おそらく何十人という従者や女房が従ったでしょうから、寺院には大変な実入りとなったことでしょう。
そんな迷信に振り回されていたんだ、と思われる人も少なくないと思わますが、決してこの時代だけのことではなく、「方角が悪い」とか、「鬼門の方角」などという言葉は現在も健在であり、意識・無意識にかかわらず、少なからぬ影響を受けている感があります。
また、現代においても、方角を重視することは少なくありません。航空機においては、風や気候の変化をよんでルートを設定することは重要であり、同じコースを走っているように見えるマラソン競技においても、相手選手を風よけにしたり、日蔭の側を選んだり、カーブやコーナーのコース取りの工夫が勝敗を分けることがあります。これらも、方位を選んでいるともいえます。
それは同じことではない、という意見もあることでしょう。一方は迷信に基づくものであり、一方は科学的根拠に基づくものである、というのがその理由だと思いますが、さて、平安貴族たちが真剣に取り組んだ「方違え」と、現代社会の科学とやらを比べてみて、現代科学が勝っていると考えるというのも、どんなものでしょうかねぇ。

長かった人も、細切れだった人も、全く関係なかった人も、ゴールデンウィークは終わりました。
一年で言えば、今日から前半の仕上げの期間となります。野球で言えば、先発投手が勝利投手の権利がかかるイニングになります。敗戦投手になる場合でも同様ですが。
だから頑張らなくてはならない、というのも単純すぎる発想ではないでしょうか。
四月を新年度としてスタートした場合、スタートダッシュの背伸びのメッキが剥げかけてきており、しかも連休で気が緩んだ直後から、「それ頑張れ」となれば、ダメージを受けないのが不思議です。むしろ、この期間は、背伸びし過ぎていた部分を調整し、しっかりと地に足をつけた歩き方を身に付けることこそが大切なのです。
五月病と言われる症状の発生の多くは、上司や教師や家族などの不用意な発言が影響することがあるそうですから、くれぐれもご注意下さい。

( 2016.05.09 )

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平和へのステップ ・ 小さな小さな物語 ( 853 )

2016-10-12 13:52:37 | 小さな小さな物語 第十五部
昨日、五月十一日の各紙の朝刊は、「オバマ米大統領が広島を訪問」と大きく伝えていました。
オバマ米大統領にとっては、任期が少なくなったこの段階での広島訪問は、きっと意義あることと思われます。
早速に、各報道機関は様々な意見を展開し、各界の意見なども紹介しています。安倍首相も同行するそうですから、七十年前には戦火を交えていて、世界で唯一の原爆被災国と、それを投下した国の元首が、そろって広島で花を捧げるとすれば、やはり、意義あることと素直に歓迎したいと思います。

現職の大統領が広島を訪れることについては、米国内で反対論も根強いそうです。
原爆投下の是非については、各国各層の人々の中に様々な意見が存在しています。原爆という、とてつもない兵器を敵国とはいえ大都市の真ん中に投下するにあたっては、投下する側にもきっと様々な意見があったはずです。しかし、原爆だけが悪だというのも極論のような気もします。あの大戦では、わが国の国民も、敵国であった国民も、多大な犠牲者を出しています。非人道的な兵器を抑制していくことは必要なことでしょうが、人道的な兵器はどんどん使用しなさいというわけではないと思うのです。
何とか戦争や紛争を抑制していく知恵こそ重要だと思うのです。そのために、オバマ米大統領の広島訪問が、いくら小さくてもいいので、「平和へのステップ」になってほしいと切望します。

しかしながら、言葉や机上においては、「平和」云々などと簡単に言えますが、現実の世界で起こっていることをみると、伝えられている情報からだけでも、いかに難しいことかと考えてしまいます。
第一、「平和」とはどのような状態を指すのかということさえ、定義することが簡単ではないように思われます。
わが国から見れば、とんでもない国、あるいはとんでもない人物だと思われる場合でも、そのような国や地域や指導者たちの多くは、誰かを苦しめてやろうと行動しているのはごく少数で、多くは、自分が信じる正義や平和を獲得するために激しい戦いを展開させているような気もするのです。

例えば、ジャンケンで物事を決めることがあります。日常のそれほど深刻でないことであれば、その勝ち負けで物事を決定させても、口では残念がったり文句は言っても、その決定に従うものです。
考えてみれば、それが出来るのも、「グーよりパーは強く、パーよりチョキが強い」といったルールが、何の疑いもなく共有されているからです。
根本的にルールが違う社会同士が何とか共存していけるためのルール、それを「平和」というものをキーワードにして築き上げたいものです。
三段跳びは、ホップ・ステップ・ジャンプで結果が出ます。「平和へのステップ」は、それほど簡単に結果には繋がらないのでしょうが、幾つものステップを積み上げていくことが大切なように思うのです。

( 2016.05.12 )


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さもしすぎる ・ 小さな小さな物語 ( 854 )

2016-10-12 13:51:19 | 小さな小さな物語 第十五部
「さもしい」という言葉を辞書で調べてみますと、「心が下劣であさましい。卑しい」とあります。
とても嫌な言葉ですが、ある状態を表現するのには実にすばらしいような気もします。
最近では「ゲスの何とか・・」といった言葉がやたら使われることが多いようですが、決して耳障りにおいても、言葉の意味としても好感を持てる部分などないと思うのですが、まるで市民権を得たかのような気がします。
「さもしい」も貴重な日本語表現の一つですが、大手を振って歩き回らないことを願っています。

まあ、あまり大きなことは言えないのは、私自身の心中や行動に「さもしい」ということがないかと言われると、即座に否定できないところが辛いところです。
「旅の恥は掻き捨て」という言葉もありますから、人が見ている所、それも知っている人が見ている所と誰もいない所とでは、大小の差はあるとしても、その振る舞いに差が出がちなのは私だけではないようです。人間誰でもとまではいかなくても、ほとんどの人は、「自分に優しく他人に厳しい」ものですし、「たとえ一円でも得したい」という気持ちも抱いているものです。
しかし、それも程度もので、ほとんどの人はそのような「さもしい」部分を最小限に抑えようとしているもので、それが常識であり、品性というものではないでしょうか。

某首長の会見とやらを聞きました。多額過ぎる出張費や、信じられないような公用車の使い方、私的な支出を政治資金等で流用していたことなどの指摘を受けて、その説明をしていました。
それを受けて、様々な方がコメントされていましたが、あの説明である程度納得した人も何人かはいたのでしょうか。さらに言えば、あの説明が、ある程度の納得性を持っていると当人は思っていたのでしょうか。伝わって来たのは、人間はここまで厚顔無恥になれるのかということと、政治の世界ではあの程度の釈明も有効なのかという疑問でした。
あまりにも、「さもしすぎる」と思いました。

私たちは生きていく中で、それもそこそこの齢(ヨワイ)を重ねると、過去を振り返って見た時、身が縮むような恥ずかしい思いの一つや二つはあるのではないでしょうか。恥ずかしいばかりでなく、よくあれほどの嘘がつけたとか、他人の足を引っ張ってしまったとか、泥棒とまではいかないとしても何かをちょろまかしてしまったとか・・・、私自身、忸怩たる思いを抱きつつ切り抜けて来た部分が有ります。
その背負っている過去を思えば、そうそう他人様の「さもしさ」を責めることなど出来ませんが、「さもしすぎる」振る舞いを笑って見過ごすのも、何とも腹立たしいものです。
話題となっている人物も、人格全てがさもしすぎる人物、というわけではないのでしょうが、その高さや低さに関係なく、お山の大将になれば、自分の「さもしさ」が見えなくなるようですから、心したいものです。

( 2016.05.15 )

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公私混同 ・ 小さな小さな物語 ( 855 )

2016-10-12 13:49:58 | 小さな小さな物語 第十五部
何かと話題を提供してくれている某首長の釈明会見は、予想した通り散々な評価を受けているようです。釈明の記者会見を受けて、テレビ局などが実施した、その釈明に納得できたかといったアンケートが、そのほとんどにおいて90%以上が納得できないと答えているようで、中には98%もの人が「NO」を突き付けていたようで、その結果に少し安心しました。
しかし、同時に数%とはいえ、納得出来る人もいたようですから、物事の味方には様々な見方があるのだと感心しています。

これは、あるテレビ番組で、コメンテーターの人が言っていたことの受け売りなのですが、「せめてあの場で、『やっと、知事になれたんです・・・』と絶叫してほしかった」といった意味のことを言っておられました。ナイスコメントに思わず笑ってしまいました。
そう言われてみますと、失礼ながら、誰に対して失礼なのか自分でもよく分からないのですが、かの名高い某地方議員の釈明会見と、水を飲む時の仕草、片手を耳に当てる仕草が、何だか酷似しているように思われました。もしかすると、あのスタイルは、脳の働きか何かが、ある条件下では自然に現れる動きかもしれないとも思いました。

地方議会であれ国会であれ、議員や首長が選挙により選出されることは民主政治の根幹であり、幾つかの欠陥を抱えているとはいえ、それが当然のこととして実施されることに私たちは感謝すべきだと思っています。
その中から、幾人かの問題人物が出てきても、ある程度は辛抱しなければならないのかもしれません。そもそも民主主義というものはコストが掛かるものなのですから。
それを、当コラムのように茶化すのはとんでもないことだと思うのですが、議員や首長などはいったんその地位を得れば、少々品格が欠けていたり、下々では犯罪になることでも、根性だけで職を続けられるのに対抗手段を知らない身としては、犬の遠吠えのようなことしか方法を知らないのです。

今回の「事件」に対して、『公私混同』という言葉をやたらに聞きます。
個人が支出すべき費用を、政治資金や公金から支出していることを指しているようです。しかし、今回某知事の問題となっている支出は、あれも『公私混同』という性格のものなのでしょうか。
私たちが『公私混同』という言葉を使う場合、そのほとんどが悪い意味で使うようです。その意味では今回の事件に対して『公私混同』と表現するのは間違いではないのでしょうが、今回問題になっているものは、『混同』などという次元のものなのでしょうか。明らかに『詐取』ではないのでしょうか。『公私混同』という言葉には、「だらしなさから起きる」といった感じを受けがちですが、今回指摘されているものの多くは、確信犯のような気がするのですが、言いすぎでしょうか。
まあ、それはともかく、今回の問題発生の背景には、「某都」には資金があり余っているためであり、政治資金とされるものが治外法権的すぎる辺りに原因があるようにも思われます。
そう言えば、「猫に鰹節」という言葉もありましたっけ。

( 2016.05.18 ) 
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金がかかっても仕方がない ・ 小さな小さな物語 ( 856 )

2016-10-12 13:48:49 | 小さな小さな物語 第十五部
某首長の記者会見とやらを聞いていると不愉快になってきます。私が住んでいる所ではないとはいえ、わが国の象徴的な所の首長がこんな状態なのですから、関係ないとはいえ恥ずかしくなってきます。
それにしても、政治資金や選挙などに関する法律は、どうしてどれもこれも抜け道だらけなのでしょうか。
まあ、民主国家とはそういうもので、一つの法律に対して延々と裁判を続けることは珍しいことではないわけですから、民主国家の法解釈というものはそういうものなのかもしれません。

ただ、政治資金の収支を規制する法律などについては全く知らないのですが、報道などで耳にする限りによれば、「訂正して返金します」と言った言い訳をよく聞きます。どう考えても泥棒と同じ行為、言い方が悪ければ詐取だと思われるものでも、訂正して返金すればそれで済むとすれば、いわゆる民間の泥棒などはもっと頭を使う必要があるよな気がします。
もちろん、人間は間違いを犯します。それも同じようなことを何度も何度も間違います。それは事実だと思うのですが、本当の間違いと、悪意に満ちた間違いの差は、ほんの少し常識を持っている人であれば判別できるはずです。そうとはいえ、その「ほんの少しの常識」とはどの程度を指すのかと延々と意見を戦わせるのでしょうね、きっと。

今回のあまりに不様な状態に、辞任を求める声もちらちらと聞こえて来はじめました。
選挙で選出した人を辞任させるのは、首長であれ議員であれ簡単なことではありませんが、「さもしすぎる人物」や「この先責務を果たせると本人以外は思っていないような人物」は、法律の許す限りの手段を持って辞任させるべきです。往々にして、この種の人物は自らを恥じて辞任することはほとんどないのですから。
ただ、気になるのは、「辞任させるのはよいが、再選挙に何十億円もの金がかかる」とか、「今再選挙をすれば、次の選挙が東京オリンピックにぶつかる」などを理由に、辞任に追い込むのに二の足を踏んでいる人もいる、という話も聞こえてきます。冗談じゃないですよ。

再選挙で使う金がたとえムダ金だとしても、こんな主張を選出した選挙民にも責任の一端があるわけですから、五十億円かかろうと百億円かかろうと、負担は甘んじて受けるべきです。それとも、この先もこの首長の指導下で、わが国の中心地の政治が行われていいのでしょうか。
また、四年先のオリンピックのことなど考えるのは全くナンセンスです。今が問題なのですよ。四年先の心配など無用ですし、本当にその時期に選挙を行うことが困難であれば、少し早める方法など簡単に見出せるはずです。
民主政治は手間暇がかかり、金がかかるものなのです。ここで選挙資金を惜しんで、物事をうやむやにしないでほしいものです。

( 2016.05.21 )
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バレーボール女子日本代表チームに拍手 ・ 小さな小さな物語 ( 857 )

2016-10-12 13:47:46 | 小さな小さな物語 第十五部
バレーボール女子日本代表チームは、リオ五輪世界最終予選大会に於いて、見事出場枠を獲得しました。その健闘に敬意を表し、心からの拍手を送りたいと思います。
最終戦となったオランダ戦は大変な接戦となり、これに逆転勝ちしたことによって今大会出場チーム中アジア一位となり、全体でも三位で最終予選を突破ということになりました。結果としてはまずまずというように見えますが、その内容は実に厳しいもので、関係者の方や選手の方々のプレッシャーは大変なものだったと拝察いたします。

大会前の予想では、関係者といわれる方の多くはしきりに厳しい戦いだとコメントされていましたが、フアンの多くは、かなり楽勝と考えていたように見えました。私自身も、悪くとも三位ぐらいにはなれると思っていました。
ところが、韓国戦にほぼ完敗を喫してからは、実に厳しい戦いとなりました。タイ戦では、一度は敗戦を覚悟するような状態からの、まさに奇跡的な逆転勝利で、結果として、この勝利がリオへの切符につながったように思われます。
出場権を確定させた戦いはイタリア戦でしたが、この戦いでは、韓国戦で指を痛めていた木村選手が、女性には失礼な表現かもしれませんが、まさに獅子奮迅の戦いぶりを見せてくれました。テレビ観戦でありながら、手に汗を感じました。
この戦いは敗れましたが、実に感動的な試合を見せていただきました。

オリンピックに関しては、昨年来何かと話題が多く、その多くは面白くないことばかりです。東京オリンピックに関しては、招致にまつわる不愉快な金銭授受があったかの報道もありました。リオ・オリンピック出場を目指す選手についても、ドーピングなどの疑惑が各国で起きているようです。
一般的にわが国では、スポーツというものは、清廉潔白といった連想を抱く人が多いと思うのですが、昨今では、そんな幻想を打ち砕くような事件が多すぎるように思うのです。
今回のバレーボール女子日本代表チームは、そんな気持ちを払拭させ、スポーツの持つすばらしさを思い起こさせてくれたように思うのです。

リオ・オリンピックの出場権を得た女子バレーチームですが、今回出場している選手全員がオリンピックに出場出来るわけではないそうです。何でも、選手枠が今回は十四人なのがオリンピックは十二人だそうで、これだけでも厳しい競争が待っています。さらには、今回出場できなかった選手の中には怪我などの回復を待っている人もいるでしょうし、今回出場した選手であっても、コンディションを崩す可能性もあります。
いわゆるお遊びでなく、オリンピックはもちろんのこと、国内大会や、もっと低いレベルでの大会を目指している人たちにとっても、スポーツを簡単に楽しいなどと表現することは出来ないと思われます。ただ、それが今回の代表チームの域まで達すれば、多くの人に多くの感動を与えるものであることも確かなようです。
すばらしい戦いぶりを見せてくれたバレーボール女子日本代表チームに、改めて敬意を表します。

( 2016.05.24 )
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G7 伊勢志摩サミット ・ 小さな小さな物語 ( 858 )

2016-10-12 13:46:23 | 小さな小さな物語 第十五部
厳重な警戒態勢など、様々な話題が伝えられてきた「G7 伊勢志摩サミット」が開催されました。
正式日程は、昨日と今日の二日間という慌ただしい日程ですが、順調にすべての日程をこなしてくれることを願っています。
今回の会議は正式には「第42回主要国首脳会議」というそうですが、参加者は、日本・アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・カナダの七か国の首脳と、欧州連合の欧州理事会議長・欧州委員会委員長が参加しています。わが国は最初から参加しており、議長国も1979年が第一回目で今回は六回目の大役です。

「G7 サミット」について少々調べましたので紹介させていただきます。
発足の契機となったのは、1970年代に入り、ニクソンショック(ドルの切り下げ)や第一次オイルショックなど経済面での世界的な動揺が広がったことのようです。これらの問題に対して、先進国の財務担当大臣による会合がありましたが、フランスの当時の大統領の提案により、パリ郊外で第一回の「先進国首脳会議」が開かれました。最初は、フランス・アメリカ・イギリス・ドイツ(西ドイツ)・日本の五ヶ国のようでしたが、イタリアが不満を唱え参加することになり、結局「G6」として開催されました。
その後地域的なバランスもあり、カナダが加わって「G7」体制となりました。
その後、冷戦の終了もあって、ロシアが1994年より一部参加するようになり、1998年に正式参加となり「G8」体制になりました。
その後、ロシアのクリミア半島への軍事介入などがあり、現在は参加を停止させており、今回も「G7」での開催になっています。
なお、ロシアが加わるようになった頃から、「先進国・・・」という表現はどうかということになり、「主要国・・・」という表現に変わりました。

サミット発端の経緯から、当初は経済関係に関する事が主要テーマでしたが、その後冷戦終了などもあって、政治的な課題もテーマとなり、順次広がり、現在ではあらゆる課題が取り上げられるようです。
この会議の最大の特徴は、非公式な会議として自由闊達な意見交換を目的としていて、その成果は「宣言」として発表されます。国連などの機関と違い、強制力や執行機関はありませんが、むしろそれゆえに各国の良識に強く訴えることになるようです。
また、首脳会議とは別に、前後して多くの閣僚会議も開催されますが、こちらでの実務的な成果も重要となります。

今回のサミット開催において、伊勢志摩周辺はもちろん、大都市や、特に今回はオバマ米大統領の広島訪問もあって、厳しい警戒体制や交通制限、あるいは観光への影響など、不便を被る人たちも少なくないようです。
しかし、例えば、米大統領が専用機で到着し、専用ヘリコプター、専用乗用車を自国より運び込んでくる警備体制を聞くと、世界の首脳を迎えるということは大変なことであり、何だかんだと不満を述べながらも、わが国がこの会議に加わっていることを素直に誇りに思いたいと思います。
参加各国の首脳や随行の方々、さらには大勢の報道関係などの方々が、無事に日程をこなし、わが国の素顔を好意的に見ていただけることを祈っています。

( 2016.05.27 )
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