( 十 )
美沙子は母の故郷に向かっていた。
母が残していった使い古したスーツケースと僅かなお金が彼女の全財産だった。
母の故郷は信州だった。八ヶ岳の懐に抱かれたような小さな村だった。
美沙子は子供の頃に、母に連れられて何度か訪れたことがあった。母の兄夫婦の家に何度か泊まった記憶が残っている。都会の狭いアパートで育った美沙子は、古い農家のだだっ広い間取りが嫌いだった。都会とは違う太陽の光の強さや、したたるような緑の強さが嫌いだった。
そして何よりも、伯父とその家族たちの優しさが、嫌いだった。
美沙子の母親が亡くなったのは、彼女が高校三年になる春休みだった。その街で簡単な葬儀を済ませた後、伯父に連れられて母の故郷の墓地に納骨に行ったが、それっきりでお墓参りさえしていなかった。
悲しい人生を送った母に、今自分がしてやれることがあるとすれば、飯島と別れることだけだと美沙子は思った。
**
十七歳で母を亡くした美沙子は、卒業間近の高校を中退し喫茶店で働き始めた。
頼るべき肉親はいなかった。母も幼くして両親と死別していて、兄と二人で懸命に生き抜いた母は中学卒業と同時に一人故郷を離れていた。美沙子が思い当たる親戚はその伯父一人で、頼ることなど考えもしなかった。
小さなアパートにせよ、一人で生活するには高校生にとって容易なことではなかった。母が残してくれたお金は、どこまで本当か分からなかったが、お金を貸しているといって返済を求められるままに支払うと、殆ど残らなかった。
父の顔も覚えていない環境で育った美沙子は、必死に生きる母の決して清潔ではない生き様に反感を抱いていたが、一人残されてみると、その母に護られていたことが痛いほどに感じられた。
美沙子が勤めをスナックに変えて間もなく、そこで知り合った客に誘われて、酔い潰された上で操を奪われた。翌朝目覚めて、状況が分からず呆けたようになっている美沙子に男は再び体を重ねて、「心配するな」と囁いた。
そのまま美沙子のアパートに入り込んだ男は、健康食品のセールスをしているとのことで午後から夜遅くまで出かけていたが、収入らしいものを美沙子に渡すことはなかった。それどころか、生活費ばかりでなく飲み代から麻雀の元手までを何の臆面もなく要求した。
それでも美沙子は、時々示す男の優しさにすがる思いで、お金を渡し、体を投げ出した。男に言われるままに勤めを変え、サラ金の借り方も覚えた。
日ごとに荒んでいく生活が一年近く続いた頃だった。
風邪気味で勤めを休みアパートで寝ていた美沙子は、息苦しさで目を覚ました。意識が朦朧としている状態ではあったが、自分がただならぬ状態にあるのに気付くのに時間はかからなかった。
見知らぬ男が体の上にあり、すでに素肌が触れ合っていた。必死に抵抗したが体が自由に動かず、頭の芯がずきずきと痛んだ。大声で叫んだつもりの声も喉に引っ掛かり、小さな叫びにしかならなかった。
それでもなお力の限り暴れる美沙子に、中年の男は低い声で言った。
「静かにしなよ。おまえの彼氏は承知の上なんだぜ。それとも、旦那の麻雀の負け分二十万円、払ってくれるかい。それなら止めてもいいんだぜ」
その言葉が、美沙子の抵抗を奪った。
男の体の重さを感じながら、美沙子は目をつぶった。抜け殻のようになった身をまかせながら、自分はもうどうすることも出来ないところまで落ちているのだと思った。
次の日、一度勤め先に向かった後すぐに引き返し、母の思い出の物が入っているスーツケースと、持てるだけの着替えや身の回り品を持って家を飛び出した。
行く先のあてはなかったが東京に向かった。その街から東京駅まで一時間程の距離であるが、その夜は上野駅近くのビジネスホテルに泊まった。
所持金といっても、男に見つからないように隠していた僅かなものだけだった。とてもひと月暮らすことは無理で、早く仕事を見つけなければならないが、上野辺りのことなど全く分からないし、いくら大都会といっても東京で働くのは危険だった。
あの街から逃げ出したとなると、誰もが東京の盛り場を一番に探すはずだ。男の品物を持ってきているわけではないが、光熱費や家賃は滞りがちだし、保証人にさせられているサラ金の借金も幾つかある。勤めていた店の立て替え金も少なくない額なのだ。
姿を隠した美沙子を探そうとするのは、あの男だけではないのだ。
翌日、ホテルを早朝に出て、大阪に向かった。
もちろん大阪にも何のあてもなかったが、女が一人で生きていくためには、それも人目を忍んで生き延びるためには、大都会の雑踏に紛れ込むしかないというのが、美沙子なりに考え抜いた上での選択だった。
美沙子は母の故郷に向かっていた。
母が残していった使い古したスーツケースと僅かなお金が彼女の全財産だった。
母の故郷は信州だった。八ヶ岳の懐に抱かれたような小さな村だった。
美沙子は子供の頃に、母に連れられて何度か訪れたことがあった。母の兄夫婦の家に何度か泊まった記憶が残っている。都会の狭いアパートで育った美沙子は、古い農家のだだっ広い間取りが嫌いだった。都会とは違う太陽の光の強さや、したたるような緑の強さが嫌いだった。
そして何よりも、伯父とその家族たちの優しさが、嫌いだった。
美沙子の母親が亡くなったのは、彼女が高校三年になる春休みだった。その街で簡単な葬儀を済ませた後、伯父に連れられて母の故郷の墓地に納骨に行ったが、それっきりでお墓参りさえしていなかった。
悲しい人生を送った母に、今自分がしてやれることがあるとすれば、飯島と別れることだけだと美沙子は思った。
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十七歳で母を亡くした美沙子は、卒業間近の高校を中退し喫茶店で働き始めた。
頼るべき肉親はいなかった。母も幼くして両親と死別していて、兄と二人で懸命に生き抜いた母は中学卒業と同時に一人故郷を離れていた。美沙子が思い当たる親戚はその伯父一人で、頼ることなど考えもしなかった。
小さなアパートにせよ、一人で生活するには高校生にとって容易なことではなかった。母が残してくれたお金は、どこまで本当か分からなかったが、お金を貸しているといって返済を求められるままに支払うと、殆ど残らなかった。
父の顔も覚えていない環境で育った美沙子は、必死に生きる母の決して清潔ではない生き様に反感を抱いていたが、一人残されてみると、その母に護られていたことが痛いほどに感じられた。
美沙子が勤めをスナックに変えて間もなく、そこで知り合った客に誘われて、酔い潰された上で操を奪われた。翌朝目覚めて、状況が分からず呆けたようになっている美沙子に男は再び体を重ねて、「心配するな」と囁いた。
そのまま美沙子のアパートに入り込んだ男は、健康食品のセールスをしているとのことで午後から夜遅くまで出かけていたが、収入らしいものを美沙子に渡すことはなかった。それどころか、生活費ばかりでなく飲み代から麻雀の元手までを何の臆面もなく要求した。
それでも美沙子は、時々示す男の優しさにすがる思いで、お金を渡し、体を投げ出した。男に言われるままに勤めを変え、サラ金の借り方も覚えた。
日ごとに荒んでいく生活が一年近く続いた頃だった。
風邪気味で勤めを休みアパートで寝ていた美沙子は、息苦しさで目を覚ました。意識が朦朧としている状態ではあったが、自分がただならぬ状態にあるのに気付くのに時間はかからなかった。
見知らぬ男が体の上にあり、すでに素肌が触れ合っていた。必死に抵抗したが体が自由に動かず、頭の芯がずきずきと痛んだ。大声で叫んだつもりの声も喉に引っ掛かり、小さな叫びにしかならなかった。
それでもなお力の限り暴れる美沙子に、中年の男は低い声で言った。
「静かにしなよ。おまえの彼氏は承知の上なんだぜ。それとも、旦那の麻雀の負け分二十万円、払ってくれるかい。それなら止めてもいいんだぜ」
その言葉が、美沙子の抵抗を奪った。
男の体の重さを感じながら、美沙子は目をつぶった。抜け殻のようになった身をまかせながら、自分はもうどうすることも出来ないところまで落ちているのだと思った。
次の日、一度勤め先に向かった後すぐに引き返し、母の思い出の物が入っているスーツケースと、持てるだけの着替えや身の回り品を持って家を飛び出した。
行く先のあてはなかったが東京に向かった。その街から東京駅まで一時間程の距離であるが、その夜は上野駅近くのビジネスホテルに泊まった。
所持金といっても、男に見つからないように隠していた僅かなものだけだった。とてもひと月暮らすことは無理で、早く仕事を見つけなければならないが、上野辺りのことなど全く分からないし、いくら大都会といっても東京で働くのは危険だった。
あの街から逃げ出したとなると、誰もが東京の盛り場を一番に探すはずだ。男の品物を持ってきているわけではないが、光熱費や家賃は滞りがちだし、保証人にさせられているサラ金の借金も幾つかある。勤めていた店の立て替え金も少なくない額なのだ。
姿を隠した美沙子を探そうとするのは、あの男だけではないのだ。
翌日、ホテルを早朝に出て、大阪に向かった。
もちろん大阪にも何のあてもなかったが、女が一人で生きていくためには、それも人目を忍んで生き延びるためには、大都会の雑踏に紛れ込むしかないというのが、美沙子なりに考え抜いた上での選択だった。