仙人となる ・ 今昔物語 ( 13 - 3 )
今は昔、
陽勝(ヨウジョウ)という人がいた。能登国の人である。
俗称は紀氏。年十一歳にしてはじめて比叡山に登り、西塔の勝蓮花院(ショウレンゲイン)の空日律師(クウニチリッシ・出自等不詳)という人を師として、天台の教えを学び、法華経を受持するようになった。
聡敏にして一度聞いたことは二度と問うことがなかった。また、幼い頃から道心があり他のことに興味を示すことがなかった。また、長時間睡眠をとることがなく、無駄に休息することもない。 また、諸々の人に対する哀れみの心が深く、裸の人を見ると自分の衣を脱いで与え、飢えている人を見ると自分の食物を与えたが、これはいつものことである。また、蚊や虱が身を刺したり噛んだりしても、厭うことがなかった。
また、自ら法華経を書写して日夜に読誦した。
やがて、道心が強く起こり、比叡山を去ろうと思うようになった。そして、遂に山を出て、金峰山(ミタケ・きんぶさん)の仙人が前に住んでいた庵にやって来た。また、南京(奈良。ここでは吉野の古京を指す。)の牟田寺に籠って仙人の法を学んだ。
始めは穀物を断って山菜だけ食べた。次にはその山菜を断って木の実だけを食べた。後には全く食を断ってしまった。但し、一日に粟一粒を食べた。身には藤の蔓の皮で織った粗末な衣を着た。最後には完全に食を離れてしまった。そして、長く衣食の欲望を断ち、ひたすら菩提心にすがった。
そこで、人間らしい生活から長く去って、現世の跡を消し去った。着ていた袈裟を脱いで、松の木の枝に懸けて置いたまま姿を消してしまった。その袈裟は、経原寺の延命禅師(エンミョウゼンジ・出自等不詳)という僧に譲ると言い残していた。
禅師は袈裟を譲り受けて、陽勝を恋い悲しむこと限りなかった。そして、禅師は山々谷々を歩き回って、陽勝を捜し求めたが、その消息を掴むことは出来なかった。
その後、吉野山で苦行を修めている僧の恩真(オンシン・出自等不詳)らが、「陽勝はすでに仙人になって、身には血も肉もなくなって、怪しげな骨と毛だけになっている。その身には二つの翼が生えており、空を飛ぶこと麒麟か鳳凰のようであった。竜門寺の北の峰でそれを見たことがある。また、吉野の松本の峰で比叡山の仲間の僧に会い、長年抱いていた仏法の不審について話し合った」と語った。
また、笙の石室(ショウノイワムロ・奈良県吉野郡にある)に籠って修業する僧がいたが、食を断って数日が経っていた。何も食べずに、般若経を読誦していた。その時、青い衣を着た童子がやって来て、白い物を僧に与えて、「これを食べなさい」と言った。
僧がそれを貰って食べてみると、とても甘くて飢えがたちどころに癒えた。僧は童子に、「あなたはいったいどなたでしょうか」と尋ねた。童子は、「私は、比叡山の千光院の延済和尚(エンサイカショウ)に仕える童子でしたが、山を離れ、長年苦行して仙人になった者です。このところの師僧は陽勝仙人です。この食物は、その仙人がわざわざお与えになった物です」と話して、去っていった。
その後、また、東大寺に住む僧に会って語ったという。「私は、この山に住むようになって五十余年が経った。年は八十を過ぎた。仙人の道を修得して、自在に空を飛ぶことが出来るし、空に昇ることも地にもぐることも自在にできる。法華経の力によって、仏にお会いして仏法をお聞きするのも思いのままである。世の中を救い、衆生に恵みを与えることにも事欠くことがない」と。
また、陽勝仙人の親が、生国(能登国)で病にかかって苦しんでいて、その親が歎いて、「私にはたくさんの子がいるが、その中でも、陽勝仙人は最愛の子だ。もし、私のこの気持ちを知ることが出来るなら、やって来て私を看取ってほしい」と言った。
陽勝は、神通力によってこの事を知り、親の家の上に飛んできて、法華経を読誦した。ある人が外に出て、屋根の上を見たが、読経の声は聞こえるが姿は見えない。すると、仙人は親に、「私は長く娑婆世界を離れているので、人間界に来ることは出来ないが、孝養のために強いてやって来て、経を誦し言葉を交わすのです。毎月十八日に、香をたき花を散らして私を待っていてください。私は香の煙を尋ねてここに下りてきて、経を誦し法を説いて、父母のご恩に報じたいと思います」と申し上げて、去っていった。
また、陽勝仙人は毎月八日に本山(モトノヤマ・比叡山を指す)にやって来て、不断念仏を聴聞し、慈覚大師(不断念仏の創始者)の遺跡を礼拝申し上げた。他の日には来なかった。
ところで、西塔の千光院に浄観僧正(ジョウガンソウジョウ・正しくは静観。千光院座主。第十代天台座主。)という人がいた。常のお勤めとして、夜ごとに尊勝陀羅尼を夜もすがら読誦する。長年の修行の功徳が積もって、聞く人は誰もがこれを尊んだ。
ある時、陽勝仙人が不断念仏の聴聞に参るため空を飛んでいたが、この僧房の上を過ぎる時、僧正が声高く尊勝陀羅尼を誦すのを聞いて、たいそう尊び感じ入って、僧房の前の杉の木に下りて聞くと、ますます尊く感じられて、木より下りて僧坊の高欄の上に座っていた。
すると、僧正がその気配を怪しんで、「あなたはどなたですか」と尋ねた。
それに答えて、「陽勝でございます。空を飛んでおりましたが、尊勝陀羅尼を読誦される声をお聞きして、やって来たのです」と言った。
すると僧正は、妻戸を開けて呼び入れた。仙人は、鳥が飛び入るかのように入って僧正の前に座った。二人は、これまでの事を夜もすがら語り合って、暁になって仙人が、「お暇しましょう」と言って立ち上がろうとしたが、人間世界の気を受けて身が重くなり、飛び立つことが出来なかった。そこで仙人は、「香の煙を近くに寄せてください」と言った。僧正は、言われたように香炉を近くに寄せると、仙人はその煙に乗って空に昇って行ってしまった。
この僧上は、これから後は、いつも香炉に火をおこし煙を断たぬようにしているのである。
この仙人は、西塔に住んでいた時は、この僧正の弟子であった。
それゆえ、仙人が帰って行った後は、僧正はたいそう恋しがり悲しんでいた、
となむ語り伝へたるとや。
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今は昔、
陽勝(ヨウジョウ)という人がいた。能登国の人である。
俗称は紀氏。年十一歳にしてはじめて比叡山に登り、西塔の勝蓮花院(ショウレンゲイン)の空日律師(クウニチリッシ・出自等不詳)という人を師として、天台の教えを学び、法華経を受持するようになった。
聡敏にして一度聞いたことは二度と問うことがなかった。また、幼い頃から道心があり他のことに興味を示すことがなかった。また、長時間睡眠をとることがなく、無駄に休息することもない。 また、諸々の人に対する哀れみの心が深く、裸の人を見ると自分の衣を脱いで与え、飢えている人を見ると自分の食物を与えたが、これはいつものことである。また、蚊や虱が身を刺したり噛んだりしても、厭うことがなかった。
また、自ら法華経を書写して日夜に読誦した。
やがて、道心が強く起こり、比叡山を去ろうと思うようになった。そして、遂に山を出て、金峰山(ミタケ・きんぶさん)の仙人が前に住んでいた庵にやって来た。また、南京(奈良。ここでは吉野の古京を指す。)の牟田寺に籠って仙人の法を学んだ。
始めは穀物を断って山菜だけ食べた。次にはその山菜を断って木の実だけを食べた。後には全く食を断ってしまった。但し、一日に粟一粒を食べた。身には藤の蔓の皮で織った粗末な衣を着た。最後には完全に食を離れてしまった。そして、長く衣食の欲望を断ち、ひたすら菩提心にすがった。
そこで、人間らしい生活から長く去って、現世の跡を消し去った。着ていた袈裟を脱いで、松の木の枝に懸けて置いたまま姿を消してしまった。その袈裟は、経原寺の延命禅師(エンミョウゼンジ・出自等不詳)という僧に譲ると言い残していた。
禅師は袈裟を譲り受けて、陽勝を恋い悲しむこと限りなかった。そして、禅師は山々谷々を歩き回って、陽勝を捜し求めたが、その消息を掴むことは出来なかった。
その後、吉野山で苦行を修めている僧の恩真(オンシン・出自等不詳)らが、「陽勝はすでに仙人になって、身には血も肉もなくなって、怪しげな骨と毛だけになっている。その身には二つの翼が生えており、空を飛ぶこと麒麟か鳳凰のようであった。竜門寺の北の峰でそれを見たことがある。また、吉野の松本の峰で比叡山の仲間の僧に会い、長年抱いていた仏法の不審について話し合った」と語った。
また、笙の石室(ショウノイワムロ・奈良県吉野郡にある)に籠って修業する僧がいたが、食を断って数日が経っていた。何も食べずに、般若経を読誦していた。その時、青い衣を着た童子がやって来て、白い物を僧に与えて、「これを食べなさい」と言った。
僧がそれを貰って食べてみると、とても甘くて飢えがたちどころに癒えた。僧は童子に、「あなたはいったいどなたでしょうか」と尋ねた。童子は、「私は、比叡山の千光院の延済和尚(エンサイカショウ)に仕える童子でしたが、山を離れ、長年苦行して仙人になった者です。このところの師僧は陽勝仙人です。この食物は、その仙人がわざわざお与えになった物です」と話して、去っていった。
その後、また、東大寺に住む僧に会って語ったという。「私は、この山に住むようになって五十余年が経った。年は八十を過ぎた。仙人の道を修得して、自在に空を飛ぶことが出来るし、空に昇ることも地にもぐることも自在にできる。法華経の力によって、仏にお会いして仏法をお聞きするのも思いのままである。世の中を救い、衆生に恵みを与えることにも事欠くことがない」と。
また、陽勝仙人の親が、生国(能登国)で病にかかって苦しんでいて、その親が歎いて、「私にはたくさんの子がいるが、その中でも、陽勝仙人は最愛の子だ。もし、私のこの気持ちを知ることが出来るなら、やって来て私を看取ってほしい」と言った。
陽勝は、神通力によってこの事を知り、親の家の上に飛んできて、法華経を読誦した。ある人が外に出て、屋根の上を見たが、読経の声は聞こえるが姿は見えない。すると、仙人は親に、「私は長く娑婆世界を離れているので、人間界に来ることは出来ないが、孝養のために強いてやって来て、経を誦し言葉を交わすのです。毎月十八日に、香をたき花を散らして私を待っていてください。私は香の煙を尋ねてここに下りてきて、経を誦し法を説いて、父母のご恩に報じたいと思います」と申し上げて、去っていった。
また、陽勝仙人は毎月八日に本山(モトノヤマ・比叡山を指す)にやって来て、不断念仏を聴聞し、慈覚大師(不断念仏の創始者)の遺跡を礼拝申し上げた。他の日には来なかった。
ところで、西塔の千光院に浄観僧正(ジョウガンソウジョウ・正しくは静観。千光院座主。第十代天台座主。)という人がいた。常のお勤めとして、夜ごとに尊勝陀羅尼を夜もすがら読誦する。長年の修行の功徳が積もって、聞く人は誰もがこれを尊んだ。
ある時、陽勝仙人が不断念仏の聴聞に参るため空を飛んでいたが、この僧房の上を過ぎる時、僧正が声高く尊勝陀羅尼を誦すのを聞いて、たいそう尊び感じ入って、僧房の前の杉の木に下りて聞くと、ますます尊く感じられて、木より下りて僧坊の高欄の上に座っていた。
すると、僧正がその気配を怪しんで、「あなたはどなたですか」と尋ねた。
それに答えて、「陽勝でございます。空を飛んでおりましたが、尊勝陀羅尼を読誦される声をお聞きして、やって来たのです」と言った。
すると僧正は、妻戸を開けて呼び入れた。仙人は、鳥が飛び入るかのように入って僧正の前に座った。二人は、これまでの事を夜もすがら語り合って、暁になって仙人が、「お暇しましょう」と言って立ち上がろうとしたが、人間世界の気を受けて身が重くなり、飛び立つことが出来なかった。そこで仙人は、「香の煙を近くに寄せてください」と言った。僧正は、言われたように香炉を近くに寄せると、仙人はその煙に乗って空に昇って行ってしまった。
この僧上は、これから後は、いつも香炉に火をおこし煙を断たぬようにしているのである。
この仙人は、西塔に住んでいた時は、この僧正の弟子であった。
それゆえ、仙人が帰って行った後は、僧正はたいそう恋しがり悲しんでいた、
となむ語り伝へたるとや。
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