『下級官吏の悲哀 (2) ・ 今昔物語 ( 31 - 5 ) 』
( (1) より続く )
さて、明日には堂供養が行われるという日になったが、夕方になって、松明をたくさん灯して、車二台に川船二艘を積んで、牛に引かせて池の水際に降ろす者がいるので、僧都が、「これはどこから持ってきたものか」と訊ねると、「大蔵の史生高助が持ってこさせた川船です」と運んできた者が答えた。
僧都は「何のための川船だろう」と思っていると、高助はかねてから準備していたので、その船に、柱などを加え、一晩中さまざまな装具を付け、上には錦の天幕で覆い、側面には帽額(モコウ・簾の上部を縁取りする布。)の簾を懸け、裾濃(スソゴ・上を薄く下を濃くする染め方。)の几帳の帳を重ねた。さらに、朱塗りの高欄を船の周囲に巡らし、その下には紺の布を引きめぐらした。
こうして、暁になると、蔀(シトミ・車の側面の囲い)を上げた新しい車に娘たちを乗せて、その後ろには、出し車(イダシグルマ・装束の裾を出して飾りにした車。)十輛ばかりに女房たちが色鮮やかな裾を出して続いた。さらに、色とりどりに装った指貫姿の前駆が十余人がその前に松明を灯して続いている。
そして、全員が船に乗り終ると、簾を巡らせているその下から、全員が衣を垂らした。その衣の重なり具合や色合いは、とても言い表せないほどすばらしく、まるで光を放っているようであった。
盤絵(草花や鳥獣を円形に図案化した絵柄。)の衣装を着た童は髪をみずらに結って、二艘の船に乗せ、色鮮やかな棹で船を操った。池の南には平張りを立て、そこに前駆の者どもの席を設けた。
さて、夜が明けて、供養当日の朝になると、上達部・殿上人・招請した僧などがやって来た。
先ほどの二艘の船が池の上を巡っていくと、飾り立てた太鼓・鉦鼓(ショウコ・雅楽用の打楽器の一つ)・舞台・絹屋(絹製の天幕)などが照り輝いて目を見張るように見えるが、それ以上に、この二つの船の飾り立てた様や、出し衣が高欄に打ちかけられているのが色とりどりに重なって、それが水に映ってこの世のものとは思えぬほどすばらしく見えるので、上達部や殿上人はこれを見て、「あれは、いずれの宮の女房方の御物見か」とお尋ねになるが、僧都は、「決して誰の船とは言ってはならぬ」と固く口止めしたので、「高助の船だ」と言う者はいなかった。
しかし、ますます知りたがって、しつこく問い訊ねたが、遂に誰の船とも分からないまま終った。
その後も、事の折節に付けて、高助はこのようにして娘に物見をさせた。しかし、それが高助の娘だとは、知られることはなかった。
このように、すばらしく立派に養育していたので、勤番の者や宮の侍や諸官庁の尉(ジョウ・三等官)の子など(いずれも身分が低い)が、「婿になりたい」と申し入れてきたが、高助は気にくわないことだと娘への手紙さえ受け取らせなかった。
そして、「わが身は卑しくとも、先払いを付けるくらいの家柄の者を娘の許に通わせたい。たとえ富裕な近江・播磨(共に最上級の国とされる。)の守の子であろうとも、先払いを付けられないような者は、我が娘たちの近くには、絶対に寄せ付けない」などと言って、婿取りもしないでいるうちに、高助も妻も続いて亡くなってしまった。
娘たちには兄が一人いたが、高助が返す返すも妹のことを言い置いていたが、この兄は、「全ての財産は、自分が独り占めしよう」と思って、妹たちのことはいっさい面倒を見なかった。
そのため、侍も女房も一人残らず去って、寄り付きもしなくなった。娘二人は嘆くばかりで、食事も摂らないうちに病となり、懇切に看病してくれる者もなく、二人とも相次いで死んでしまった。
この高助は、大蔵の史生時延(トキノブ・伝不詳)の祖父である。
昔は、このように卑しい身分の者の中にも、このような気概のある者もいたのである。だが、どれほど気概があっても、家が貧しく財産を持っていなければ、いくら娘が可愛くとも、これほどのことは出来まい。
これを思うに、「高助は計り知れないほどの財産を持っていたのだ。現職の受領などにも勝っていたからこそ、このように振る舞えたのであろう」と人々は言い合った、
となむ語り伝へたるとや。
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