『 燃ゆるわが恋 』
君といへば 見まれ見ずまれ 富士の嶺の
めづらしげなく 燃ゆるわが恋
作者 藤原忠行
( 巻第十四 恋歌四 NO.680 )
きみといへば みまれみずまれ ふじのねの
めづらしげなく もゆるわがこひ
* 歌意は、「 あなたのことになると 人が見ていようといるまいと 富士の高嶺のように 何ら変わることなく 私の恋は激しく燃え上がるのです 」といった激しく燃える胸の内を詠んだものでしょう。
ただ、第二句の「見まれ見ずまれ」の意味については、「見る」と「逢う」の取り方が考えられますし、単に「富士の嶺」を強調するための修飾語とも考えられます。そのいずれを取っても、歌意に大きな変化は出ないと思われます。
* 作者の藤原忠行( ? - 906 )は、平安時代前期の中・下級の貴族です。
生年が不詳ですが、最初の官職は 887 年の土佐掾です。この職位は、土佐国の三等官で官位は八位か七位で最下位に近い官職だったと考えられます。これが何歳の頃なのか分かりませんが、地方官ですから、おそらく二十歳に近い頃だったのではないでしょうか。
890 年に従五位下を叙爵して、貴族の仲間入りを果たしています。
900 年に遠江守に就いていますから、掲題の和歌はその頃の経験がベースになっているのかもしれません。
905 年に刑部大輔として京官になっていますが、翌年の 906 年正月に若狭守となり、その年の十二月に没しています。おそらく行年は四十歳そこそこだったのではないでしょうか。
* 忠行は、藤原氏の南家に属していますが、祖父の三守は右大臣になっている家柄です。父の有貞も、姉の貞子が仁明天皇の女御であったことから、十八歳で従五位下に叙爵するなど将来を嘱望されていましたが、仁明天皇の更衣の三国町との密通を疑われて左遷されるという事件を起こしているのです。
文徳朝になりその件は許されたようですが、おそらく、その事が忠行の昇進に影響があったと考えられますし、時代は、藤原氏の中でも北家の力が台頭してきたことも忠行には不遇へと作用したのではないでしょうか。
* 古今和歌集に採録されている忠行の和歌はこの一首だけです。当時、この家集に採録されることは大変名誉なことであったと想像できますが、忠行の歌人として評価は高くなかったようです。
忠行の母は、紀名虎の娘ですので、その関係からか古今和歌集の撰者の一人である紀友則と交際があったようです。忠行と紀友則は遠い縁戚といった間柄ですので、歌人としての活躍もあったのかもしれません。
* 現代の私たちから見れば、藤原忠行という人物は、平安時代の貴族としては、目立った人物でもなく、むしろ不遇な生涯であったように見えがちです。しかし、国守を経験しているわけですから、庶民から見ると歴とした貴族です。また、掲題の和歌が忠行の実体験だとすれば、情熱的な一時期も経験しています。
さて、どのような生涯だったのでしょうか。
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