朝ごとの あか井の水に 年暮れて
わが世のほどの 汲まれぬるかな
作者 権律師隆聖
( No.700 巻第六 冬歌 )
あさごとの あかゐのみずに としくれて
わがよのほどの くまれぬるかな
* 作者 権律師隆聖(ゴンノリッシ リュウショウ)は、平安時代から鎌倉時代にかけての僧。後鳥羽天皇の頃の人であるが、生年は1135年前後、没年は不詳である。
* 歌意は、「 朝ごとの 閼伽井(アカイ・仏に供える水を汲む井戸)の水を汲んで 仏に仕えて年も暮れてしまった 自分の余生も もう幾ばくも無いなあ 」といったものであろう。
* 権律師 隆聖は、あの西行法師の息子とされている。
西行法師は、新古今和歌集に最多の94首が採録されているこの時代の有力歌人である。本姓は藤原氏で俗名は佐藤義清、あの百足退治伝説で知られた藤原秀郷(俵の藤太)の八世の孫で、西行自身も、流鏑馬(ヤブサメ)の達人であったともいわれ、なかなかの強者(ツワモノ)であったらしい。
ところが、西行は二十三歳の時に突然出家した。その動機について、さまざまな理由が伝えられているが、やや創作ではないかと思われるほど興味深いものが溢れている。
* 出家時西行には、妻と男女二人の子供がいた。
西行は出家にあたって、冷たく見捨てて行ったという説と、弟に後事を頼み、出家後も見守っていたという話もある。どちらが事実かは断定が難しい。
残された妻と娘は、共に尼になったようである。娘は「西行の娘」として伝えられていて、生没年も( 1137 頃 - 1199 頃 )という説がある。
そして、もう一人が、この隆聖である。
* 残念ながら、隆聖の消息を尋ねることは、私の力では困難であった。
それでありながら、あえてこの和歌を選定したのは、何故この和歌が新古今和歌集に採録されたのかということに疑問と興味を抱いたからである。私に当時の和歌の良し悪しを云々する力はないのは承知しているが、切なさはあるも秀逸だとは思えないこの和歌が採録されるにはそれなりの理由があったはずなのである。
例えば、父である西行の推奨があったとか、あるいは西行の息子であることに配慮したとかである。また、もしかすると、現代伝えられていないだけで、歌人として認められるだけの活動があったのかもしれない。
* ともあれ、隆聖は、僧としての生涯を送ったようである。「権律師」というのは、下位ではある役僧の地位であり、僧ひとすじの生涯であったらしい。
西行法師が、僧としての評価はともかく、歌人としては当時の超一流であり、政権の実力者との交流もあったらしい記録を見るにつけ、突然棄てられた妻子のその後がどうであったのか知りたい気持ちが強い。美化されたような物語ではなく、捨てられた者たちの生々しい声を、である。
そう考えた場合、隆聖のこの和歌は、彼の生涯の一端を伝えてくれているようにも思うのである。
☆ ☆ ☆
2000首も有り、私は忘れつつある歌なので、再度調べ直したりしております。学而時習之、不亦説乎の気分です。
私は、この「汲む」について、水を汲むだけではなく、1年間修行して、何の仏道の進歩も無く過ごしてしまったと言う述懐の意味に取りました。汲む→掬ふ→救ふのイメージです。
年末になると、誰もが今年1年を振り返って、反省する事しきりかと思います。しかも年齢を重ねて、自分の寿命も残り少ないのに。そんな歌では?と思う次第です。
なお、この歌は選者が不明ですので、慈円が依頼して載せたかも知れません。慈円は西行と親しく、彼を尊敬していましたので。この歌の直前が慈円歌で、これも選者が不明ですので。
後、今年も2ヶ月となりましたが、体調には十分お気を付けてて下さい。
拙句
今更に急いでみても秋の暮れ
(今年は感染防疫に明け暮れてしまい後2ヶ月も同じだろうか?)