『 地蔵に助けられた無礼な男 ・今昔物語 ( 17 - 4 ) 』
今は昔、
備中国[ 欠字。「津」らしい。]郡に藤原文時(伝不詳)という者がいた。字(アザナ・通称)は大藤大夫(ダイトウダイブ)と言った。この者は、先祖相伝の良家の子孫である。その家はたいそう裕福で、子孫は繁栄していた。
その文時の家は、津郡宮郷にあった。その文時の従者に一人の男がいた。生来、思考や言動が常軌を逸していて、いつも主人の気に入らぬ事ばかりしていた。その男の家は、文時の家の門前にあった。
ある時、この男が主人に無礼な行いをしたので、文時は大いに怒り、郎等(家来。従者)の中で特に武勇に勝っている者を一人呼んで、「おい、速やかにあの無礼な奴を召し捕って、津坂(ツノサカ)に連れて行って殺してしまえ。必ず、命令に背いてはならんぞ」と命じた。
そこで、郎等は主人の命令を受けて、無礼な男を捕まえて、縄で縛り、馬の前に立たせて追い立てて、津坂に連れて行った。
こうされる間、無礼な男は泣きながら心の内で祈念したことは、『今日はまさに二十四日で、地蔵菩薩のご縁日です。私は今、そのご縁日に、殺されようとしています。これは地蔵菩薩にとって御嘆きではございませんか。願わくば地蔵尊、あらたかなお慈悲を賜って、私をお助け下さい。もしお助けいただければ、私は地蔵尊の御像をお造りいたします」と、一足ごとに祈念し奉り、まったく他のことは考えなかった。
その頃、文時の家に、僧が三人ばかりやって来た。
文時はその僧たちに会って話をしているうちに、文時は自分から、あの無礼な男を殺すために津坂に連れて行ったことを話した。僧たちは、それを聞くと大変驚き、「今日は、まさに地蔵菩薩が衆生をお助けする日ですよ。ですから、決して悪行をなさってはいけません」と言った。
文時はそれを聞いて、大変畏れ、一人の男を呼んで、この殺害を止めさせるために、駿馬に乗せて走らせて、一行を呼び返すよう命じた。
そこで、命じられた男は、鞭打って馬を走らせて追ったが、津坂は遠く、また、かなり先に進んでいるので、すぐには追いつけない。
一方で、無礼な男を殺害しようとしている男は、ようやく津坂に行き着こうとしていたが、その時、後ろの方から大きな声で呼び叫ぶ者がいた。よく聞いてみると、「主人の大夫殿のご命令である。その男を慌てて殺してはならぬぞ」と言っている。
そこで、振り返ってその呼ぶ者を「何者か」と見てみると、年が十余歳ばかりの小僧だった。その小僧が、命がけで走って呼び叫んでいる。
そこで、この殺害しようとしている男は馬をゆっくり進ませ、小僧は早く走っているので、その差は二町ばかりになった。殺害しようとしている男は驚き怪しんで、馬から下りてしばらく留まっていると、あの駿馬に乗って止めるために追ってきた男が追いついた。
そして、慌てて殺してはならない、という命令を伝えると、同じように追ってきていた小僧の姿が、突然見えなくなった。それに気付いて、使者たちは不思議に思いながら、命じられたように無礼な男を連れて返り、主人の家に着くと、小僧が走って追ってきて殺害を止めるように言ったことを語ると、文時は奇妙に思い、無礼な男を召し出して詰問すると、その男は涙を流して泣く泣く答えた。「これは他でもありません。ひたすら地蔵菩薩を祈念し奉ったからです」と。
文時はこれを聞いて、地蔵菩薩が目の前で示されてご利益を貴く思った。これを見聞きした人も、皆涙を流して尊ばない人はいなかった。
その後、その里の人は、上中下すべての人が地蔵菩薩の像を造りまた絵に描いて、帰依し奉ることを恒例の事として今も絶えることなく行われている。
無礼な男は、地蔵のお助けによって命が助かったことを喜び、これまで以上に心を込めて地蔵にお仕えした、
となむ語り伝へたるとや。
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日本ほど地蔵信仰が、発展した国は無いですね😃
小さな道の傍らには必ず安置され、京都を始め、小さな町内には必ず安置されています。
私も近所のお寺の地蔵尊に毎日お参りしております。
古来このような霊験談が民間に流布したからでしょう。
オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ
当地にも、まだまだお地蔵さんが幾体も残されています。
「北向き地蔵」というのは、余り多くないそうですが、私宅から比較的近い地区に、2個所あります。どちらも、大切にお世話されているようです。
通りかかった時に、ちょっと頭を下げるだけでも、良いものですねぇ。