あらざらん 後しのべとや 袖の香を
花橘に とどめ置きけん
作者 祝部成仲
( No.844 巻第八 哀傷歌 )
あらざらん のちしのべとや そでのかを
はなたちばなに とどめおきけん
* 作者 祝部成仲(ハフリベノナリナカ)は、平安時代末期の神職・歌人である。( 1099 ? - 1191 ? )行年は九十三歳(?)。
* 歌意は、「 死んだ後に 偲べということで 袖にたきしめた香を 花橘に とどめておいたのか 」といったものであろう。
この和歌の前書き(詞書)には、「 子の身まかりにける次の年の夏、かの家にまかりたりけるに、花橘の薫りければよめる 」とある。この和歌は、一年前にわが子を失くした父親が、花橘の薫りに亡き子を偲んで詠んだものであることが分かる。
なお、花橘は個別の樹ということではなく、花の咲いている橘のこと。
* 作者は姓からもうかがえるように、神職の家の出自である。父は日吉社禰宜の祝部成実で、成仲も同神社の禰宜に就いている。官位も正四位上ということであるかられっきとした貴族の身分である。
歌人としても、四十歳のころから歌壇で活躍を始め多くの歌合いにも参加していたようで、当時の著名な歌人との交流も伝えられている。
* 成仲が禰宜を勤めた日吉社(ヒエシャ・日吉大社とも)は、大変な歴史を持つ有力神社である。正式には「山王総本宮日吉大社」といい、その創建は極めて古く、古事記には「此の神は 近淡海国の日枝の山に坐(マシマ)す・・・」と記されていて、日枝の山(比叡山)の主とされ、大津市坂本の現在地に移ったのが崇神天皇の御代とされるので、神話の時代にまで遡る歴史を有している。
全国にある日吉・日枝・山王神社およそ三千八百社の総本社でもある。
* この神社の由来をみると、成仲は当時の神職者の中でも超一流に属する人物ではないかと思料される。そうだとすれば、神職者としていくら高名な人物だったとしても、八百余年を経た今日、私たちが祝部成仲という人物を知る可能性は極めて低い。たとえほんの一片だとしても、その消息をうかがえるのは、歌人であるゆえといえる。
* 成仲の行年は九十三歳と推察されている。当時としては、相当の長命であり、九十賀を催した、と伝えられているので、晩年まで健康に恵まれて、勅撰和歌集に31首選ばれていることから歌人としても一流であったと思われる。
しかし、それでもなお、わが子の死という不幸を経験し、掲題のような和歌を詠まなければならなかったことを考えると、つくづくと人の一生の重さが思い知らされる。
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