『 中納言隆家の帰京 ・ 望月の宴 ( 72 ) 』
中宮定子さまが男宮をお生みになられたことは、没落の一途にある中関白家(伊周や定子らの一家)に、明るい日差しが差し込んだかに見えたのでございます。
実際に、筑紫の伊周殿も、但馬の隆家殿も、この慶事により帰京の道が開かれると希望を抱いたのでございます。
しかし、定子様は、脩子内親王誕生の折に、女宮でよかったと漏らされたとか聞こえてきておりますが、大殿(道長)殿の隆盛と、自らのお立場を考え合わせ、男宮の誕生が持つ将来の不安を抱いていたのでございましょう。
そして、この度の男宮の誕生を、一族の方々の手放しの喜びを、定子さまはどのようにお思いだったのでしょうか。
この男宮、敦康内親王は、一条帝の第一皇子でございますが、中宮(皇后と同格)がお生みになった第一皇子が、ご健康でありさえすれば、皇位をお継ぎになるのが自然な流れでございます。
ただ、哀しいかな、母の定子さまが懸念なさいましたように、敦康内親王には、厳しい生涯が待っていたのですが、それは少し先のことでございます。
さて、若宮(敦康親王)には、伊周殿や隆家殿が配所にいることから、後見する方がいない有様なので、とても捨て置けることではないと、「なんとしても、今はこの御慶びの験(シルシ)として配流の人を呼び還そう」と、女院(東三条院詮子。一条天皇生母。)と帝(一条天皇)はご相談なさって、殿(道長)にもそのように申されると、
「仰せの通り若宮御誕生の御験はございます方がよろしいでしょう。今すぐ召還の使者をお遣わしなさいませ」などと奏上なさったので、帝はたいそう嬉しく思いながら、「それでは、しかるべく、なんとしても」と、嬉しさを抑えられて穏やかに仰せになられた。
四月になって、今は召還する由の宣旨が下されたのである。
ところが、今年はこれまでの裳瘡(モガサ・天然痘)とは違って、真っ赤な瘡が細かく発疹する病(はしか)が流行して、老いたる者も若き者も、上下の区別なくこの病にかかり大騒ぎしており、そのまま亡くなってしまう者もいるようである。
これを朝廷も世間も当面の憂慮すべき事として、落ち着かない状況である。
しかし、この召還の宣旨が下されたので、中宮(定子)はたいそう嬉しく思われているに違いない。夜を日に継いで、朝廷の御使者に関係なく、真っ先に中宮からの御使者が配流地に向かう。これにつけても、若宮の御徳だと世間の人々は感心し騒いでいる。
京は、賀茂祭や何くれの行事が過ぎて、月末になった。
筑紫には、中宮の御使者も朝廷からの宣旨もまだ参っていないが、但馬には、都からとても近いので、お迎えの然るべき人々が数えられないほど参上した。その事が格別面目あることでもないが、中納言殿(隆家)はまことに嬉しく思われたであろう。
こうして中納言殿は京にお上りになる。五月の三、四日頃に京に到着なさった。
中納言殿は兼資朝臣(カネモトアソン・源氏。隆家は兼資の娘のもとに通っていた。)の家に身を寄せられたが、この家には、殿(道長)の源中将(成信。道長の猶子。)が通われているので、中納言殿がおいでになるのを、父の兼資は何とも好ましくないことだと思っているので、中納言殿は注意を払ってお忍びで訪れたのである。
この殿の源中将と申すのは、村上帝の三の宮に兵部卿の宮(致平親王)と申されていたお方が、入道して石蔵(イワクラ・京都市左京区にある大雲寺)にお住まいであったが、そのお方に男子が二人いらっしゃった。お一人は法師になって三井寺にいらっしゃり、もうお一人は大殿の北の方(倫子)が養子にされていらっしゃったが、そのお方が兼資の婿になっていた。
ところが、この中納言(隆家)が、兼資のもう一人の娘に、親には内密で通っていたのだが、あのような配流といった事件まで持ち上がったので、両親も困った事だとこぼしていたので、いまだに忍びの仲なのである。
この源中将の母は、大殿の北の方の異腹の姉妹だったので、源中将は御甥に当たるので、御子となさったのである。
五月五日、中納言(隆家)がお詠みになった歌は、
『 思ひきや 別れしほどの このころよ 都の今日に あはんものとは 』
これに対する女君(兼資の娘)の返歌は、
『 うきねのみ 袂(タモト)にかけし あやめ草 引きたがへたる 今日ぞうれしき 』
中納言殿は、中宮(定子)の御もとに参上なさると、御喜びの涙をせき止めることが出来ない。
感極まる思いであったが、姫宮(脩子内親王)、若宮(敦康親王)がそれぞれに可愛らしくあられるので、ご覧になられるにつけても、夢の世界が現実になったような心地でいらっしゃった。そして、できるだけ早く、筑紫の殿(伊周)をお迎えしたいと思われる。
その御迎えには、明順朝臣(アキノブアソン・二位の息子。定子の叔父にあたる。)など何人かが向かった。
淑景舎女御(シゲイサのニョゥゴ・皇太子の女御、原子。定子の妹。)や宮の北の方(敦道親王の室。定子の妹。)などがお集まりになった。四の御方(一条天皇に出仕。定子の妹。)は、今宮(敦康親王)の御養育役にお決めになられたので、よくお世話申し上げている。
中納言殿は、夜の間は女君(兼資の娘)のもとに通っておられるが、それ以外は、もっぱら中宮の御所(定子が里邸にしている平生昌邸。)にばかり詰めていらっしゃる。
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