『 遅れむと思ふ 』
唐土の 吉野の山に こもるとも
遅れむと思ふ 我ならなくに
作者 左大臣
( 巻第十九 雑躰歌 NO.1049 )
もろこしの よしののやまに こもるとも
おくれむとおもふ われならなくに
* 歌意は、「 例えあなたが 遙かに遠い唐土の 吉野山に籠もったとしても ついて行くのを諦めるような 私ではありませんよ 」という激しい恋歌と思われますが、恋い歌に分類されていないこともあって、判断が難しいところです。
* この歌は、古今和歌集の代表的な歌人の一人である伊勢の私家集によれば、古今和歌集のNO.780にある『 三輪の山 いかに待ち見む 年経(フ)とも たづぬる人も あらじと思へば 』という歌に対する返歌とされています。
ただ、この歌の前書きには、「仲平朝臣あひ知りて侍りけるを、離(カ)れがたになりにければ、父が大和守に侍りけるもとへまかるとて、よみてつかはしける」とあるのです。つまり、伊勢は、恋仲である仲平と疎遠になりかけていたが、「わたしは大和へ行ってしまいますよ」と、未練たらたらに詠んだ歌なのですが、その歌に対して、兄である作者が、「あとは私が」と言わんばかりに掲題の歌を送ったらしいのです。
* 作者の左大臣とありますのは、藤原時平のことです。
時平( 871 - 909 )は、摂政関白太政大臣である藤原基経の長男として誕生しました。生母は、人康親王(仁明天皇の第四皇子)の娘で、上記の仲平も同母の弟です。
歌人の伊勢も、この時平も艶事に関してはなかなかの人物であったようで、伊勢は、仲平との失恋後に時平と交際があったようで、その後、宇多天皇の更衣となって皇子を儲け(早世)、その後、宇多天皇の皇子である敦慶親王との間に、女流歌人として名高い中務を生んでいる、まさに情熱の女性なのです。
* 藤原四家の中では出遅れていた感があった北家ですが、冬嗣・良房・基経と三代にわたって天皇の外戚となり、北家嫡流が藤原氏の長者(藤氏長者)となる道筋を築き、基経は朝廷政治において絶大な権力を有していました。
その恩恵と期待を受けて、時平はめざましい昇進を続けます。
886 年に元服と共に正五位下を受け、887 年に従四位下、890 年には従三位となり、二十歳で公卿に列しています。
891 年に父の基経が没します。行年五十六歳ですから、当時としては早世というわけではありませんが、まだ若い時平は動揺したことでしょう。基経の後継の藤氏長者には時平の大叔父にあたる良世が就いています。
* 897 年、宇多天皇が譲位して醍醐天皇が即位します。藤氏長者も良世から時平に代わり、時平は名実ともに藤原氏一門の頂点に立ちました。
899 年には、時平は左大臣に昇り、右大臣になった菅原道真と共に朝廷を牽引することになります。
しかし、901 年に、菅原道真は失脚し、太宰員外師として.九州に流罪となりました。これによって、時平の権限は更に強固なものになりました。
この事件について、道真は時平により更迭されたという見方がされることが多いようですが、必ずしも正しくないようです。
時平と道真は比較的親しい関係であったとも言われ、真っ向から対立するような関係ではなかったようなのです。それよりも、時平と道真の権力が強くなりすぎ、多くの政敵を作ってしまったことに原因があるように思われます。時平には藤原氏という強力なバックアップがあるが、道真にはそれが無かったという気もするのです。
* 道真の失脚の真因はともかく、これにより時平を頂点とした藤原氏の朝廷政治における権力は圧倒的なものになっていきます。
ただ、909 年に、時平は三十九歳で亡くなりました。死因は、道真の怨霊によるというものが長く信じられていたようです。
また、時平の死後、藤氏長者の地位を引き継いだのは、掲題の歌に関係する四歳年下の仲平ではなく、九歳下の同母弟の忠平でした。そして、藤原氏による平安王朝の全盛期を築いていく中心は、この仲平の子孫たちなのです。時平の子孫は、中級の貴族に甘んじることになっていきます。
* 時平の歌人としての力量については、特別に語られている資料は無いようです。やはり、時平という人物は、政治家として輝いた人生を送った人物といえます。それだけに、三十九歳で亡くなったことはまことに残念で、それも、道真の怨霊によるというのですから、何とも複雑な思いがしてなりません。
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