雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  平安の怪人

2012-10-16 08:00:00 | 運命紀行
       運命紀行

           平安の怪人


「小倉百人一首」の歌人の中には、謎の人物と表現したくなる人がいる。猿丸大夫や蝉丸がそうである。
ただ、彼らを謎の人物と評するのは、出所や来歴が謎めいているからである。
しかし、小野篁(オノノタカムラ)となれば、少しばかり様子が違う。いや、少しばかりではなく、およそスケールが違うのである。

小野篁は官位を持つ歴とした貴族であるが、裏の顔を持っていた。
もっとも、どちらが裏なのか表なのかははっきりしないが、閻魔大王の補佐官を務めていたのである。
閻魔大王といえば、人間の生前の行いの善悪を審判して、死者を極楽へ行かせるか地獄へ落とすかなどを判断する死者の王である。その判決は独断により下されると思われがちであるが、そうではなくて、どうやら補佐役もいたようなのである。
小野篁がいつからいつまでその任にあったのか明確ではないが、形式的な補佐役などではなく相当の発言力を持っていたらしい。

今昔物語には、「小野篁、情により西三条の大臣を助くる語」という話が載っている。
西三条の大臣が、病気で亡くなり閻魔庁に引き据えられたが、閻魔大王の補佐役についていた小野篁のとりなしで蘇生したという内容である。
西三条の大臣というのは、藤原良相のことであるが、幼い頃から度量の大きな人物として知られていたらしい。また、小野篁が罪に問われた時に弁護してくれたという恩義もあったらしく、生前の善行や、なお現世で成さねばならない役目がある、などと閻魔大王を説得したらしく、大王は補佐役小野篁の申し出を受け入れて、娑婆に送り返したらしい。
「地獄の沙汰も金次第」という言葉があるが、どうも地獄の審判にも情状酌量の余地はあるらしい。

藤原良相は小野篁とほぼ同時代の人物なので、この審判がなされたのが何時のことなのかも興味深い。
良相が右大臣になったのは四十五歳の頃で、その五年ほど前に小野篁は亡くなっている。良相が大臣になってからのことであれば、小野篁は閻魔庁の専任役人になっていたのかもしれないし、もっと若い頃のことであれば、パートというわけではないのだろうが、現世と掛け持ちしていたことになる。
しかし、それは別に不思議なことでもなんでもない。小野篁は地獄への専用通路を持っていたからである。
京都東山にある六道珍皇子にある井戸は「死の六道」と呼ばれ、小野篁が地獄へ向かう通路であり、京都嵯峨の福生寺(明治期に廃寺)にあった井戸は「生の六道」と呼ばれ、現世に戻って来る道であったらしい。

小野篁が閻魔大王と関わりがあったということは、何もこの話だけではない。
京都市北区にある小野篁と紫式部の墓は、現在は島津製作所の敷地にあり整備されているが、かつてこの辺りは、蓮台野と呼ばれる葬送の地であった。この辺りに二人の墓があったことは文献で確認されているそうであるが、異色と見える二人の墓が並んでいるのには理由があるらしい。
紫式部は、生前、あることないことに構わずに何とも妖艶な文章を書き残したため、閻魔大王の怒りにふれて地獄に落とされて苦しんでいたが、その姿を憐れみ小野篁が救いの手を差し伸べたのである。
その頃には、小野篁はすでに亡くなっていたので、閻魔庁専任で然るべき役職にあったと想像できるが、紫式部の罪は重く、自分と並んで墳墓を作ることで閻魔大王の許しを得たらしい。

今昔物語や伝説を、全て単なる作り話や戯言と一笑してしまえば、何もかも与太話に過ぎない。
かといって、すべて真実とするには、並の常識では理解し難い。
さて・・・。


     * * *

小野篁が生まれたのは、延暦二十一年(802)、まだ桓武天皇が在位している平安時代初頭のことである。
小野氏は、第五代孝昭天皇の第一皇子天足彦国押人命(アマタラシヒコクニオシヒトノミコト)の末裔とされる。
孝昭天皇は、紀元前475年から八十二年余りも在位していたとされるが、いわゆる欠史八代と呼ばれる天皇の一人であり、小野氏は神代につながる古い家系を誇っている。
篁の五代前には、遣隋使を務めたことで知られる小野妹子がおり、孫には能筆家として知られる小野道風がいる。また、美人の代名詞のような小野小町も篁の孫にあたるという家系図も残っているらしいが、二人の年齢差は二十数歳程度と推定されるので、血のつながった孫娘というのは少し無理がある。

篁は、身の丈六尺二寸(188cmほど)と伝えられ、現代人よりかなり小柄であったと考えられる当時としては、とてつもない長身であったらしい。
若い頃は、父に従って陸奥国に赴いているが、その頃は弓馬の道に優れていて、体形からしても天晴れな若武者ぶりだったと想像できる。
その後、嵯峨天皇の言葉を受けて発奮、学問に励んだという。
さすがに父も参議まで務める学問の家柄の御曹司らしく、たちまちのうちに才能をあらわしていった。

二十一歳の頃には文章生に補せられ、蔵人などを経て三十一歳で従五位下に叙せられた。そして、翌年には仁明天皇の皇太子に恒貞親王がつくと、東宮学士に任ぜられている。
藤原氏の全盛期には、異例の速さで出世していく貴族が続出するが、小野氏としては順調な宮仕えであったと考えられる。ただ、惜しむらくは、皇太子である恒貞親王が後見者である嵯峨上皇の崩御もあって政争に巻き込まれ、廃太子となってしまったことである。篁の官位昇進に大きな影響を与えたことは間違いあるまい。

承和元年(834)、三十三歳の篁は遣唐副使に任ぜられる。学識の高さを認められたもので、特に漢詩文の分野では抜群の才能を示していて、篁が遣唐使の一員となったことを遥かな唐で知った白居易(詩人)は、篁と会うのを楽しみにしていたという。
ところが、承和五年、正使である藤原常嗣といさかいを起こし、病気と称して乗船を拒否してしまったのである。このいさかいの原因は、遣唐使一行の渡海が二度失敗し、三度目の出帆に際して正史である常嗣が乗る予定の第一船が破損しているため、副使である篁が乗る予定の第二船に乗り換えようとしたことが原因らしい。
いずれにしても、小野篁という人物は、血気盛んであり且つ凡庸な人物ではなかったことがうかがえる。

遣唐使一行は、篁を残して同年六月に出発し、仮病で乗船しなかった篁は苦しい立場におかれた。さらに、朝廷を批判するような詩を作ったことで嵯峨上皇の怒りを買い、官位を剥奪された上、隠岐への配流に処されてしまった。
「小倉百人一首」の十一番歌は、
『 和田の原八十島かけてこぎ出ぬと 人にはつげよあまのつり舟 』
という篁の和歌が採録されている。
和田の原とは、特定の地ではなく大海原といった意味なので、この歌はその時の心境のものかもしれない。

その後許されて都に戻り、もとの身分に戻ることが出来たが、この間の出来事が官位昇進という面では悪影響となったことは確かであろう。
しかし、その後も蔵人頭などの要職を歴任し、陸奥の国司も経験している。
そして、承和十四年(847)には参議として公卿に列し、仁寿二年(852)十二月に従三位に叙せられたが、ほどなく没した。享年五十一歳であった。

小野篁は公卿にまで昇った貴族であり、その政務能力は高く評価され、漢詩文の分野では当代屈指と伝えられている。
同時に、何とも魅力的な逸話を数多く残してくれた人物でもある。
最後に、「宇治拾遺物語」にも載せられている逸話をご紹介する。

嵯峨天皇の御代、「無悪善」という落書が書かれているのを知った天皇が小野篁に
「これが読めるか」とお尋ねになった。
「読めますが、少々障りがあります」と篁が答えた。
「かまわないから読め」と、強く求められたので、それではと、篁は読み上げた。
「悪さが(嵯峨) 無くば 善けん」(悪人の嵯峨天皇がいなければ良いのに)
これを聞いた天皇は、「このような文字を簡単に読み説いたのは、お前が書いたからに違いない」とひどく怒られたので、「滅相もありません。私には読めない文字などございません」と篁が答えると
「それほど言うなら、この文字を読んでみよ」と天皇は『子子子子子子子子子子子子』と「子」という字を十二並べたものを見せました。
篁は単調な文字の羅列をしばらく見ますと、『ネコのコ コネコ シシのコ コシシ』(猫の子 子猫 獅子の子 子獅子)と読み解き、事なきを得たのだと伝えられている。

                                        ( 完 )

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 心を静めて ・ 心の花園 ( 8 ) | トップ | さっそうとして ・ 心の花... »

コメントを投稿

運命紀行」カテゴリの最新記事