雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

中関白家 ・ 望月の宴 ( 35 )

2024-03-13 20:30:59 | 望月の宴 ①

        『 中関白家 ・ 望月の宴 ( 35 ) 』


こうしているうちに、大殿(兼家)は病気になられましたので、何かにつけ危惧されることがあり、大殿のご子息方(道隆、道兼、道長らを指す)も皇太后宮(詮子・兼家の娘)もあらん限りのご回復への祈祷をなさった。
この二条院は、もともと物の怪の恐ろしい所で、その気配も恐ろしいと申されている。さまざまな御物の怪の中には、あの三の宮の霊が入り交じっているのも、たいそう哀れである。(三の宮( 保子内親王 ) は、兼家の愛情が急速に薄れたため、悲嘆のうちに亡くなったとされている。)

「やはり、場所を変えて養生なさいますように」と、殿方たちが申し上げられたが、大殿は、この二条院をどこよりもすばらしい所と思っておられるので、聞き入れようとなさらない。
そのうちに、病状がさらに恐ろしいことになったので、東三条院(兼家のもともとの居宅。)にお移りになった。皇太后宮もたいそう心を痛めお嘆きである。
大殿は、摂政もご辞退なさりたい旨を奏上なさったが、なおしばらくはこのままにということで過ごされているうちに、お苦しみの様子がいよいよ恐ろしい状態になったので、五月五日のことなので、菖蒲の根ではないが、音(ネ)をあげて泣く涙のかからぬ御袂(タモト)はない。
遂に、太政大臣の御位も、摂政をもご辞退になられた。なおこの後は、関白などと申し上げるのが穏当かと思われた。


この後も、大殿のご病状は重態のままでございましたので、五月八日に出家なさいました。
そして、この日に、摂政の宣旨を内大臣殿(道隆)がお受けになられました。後世、中関白家と呼ばれることになる、道隆殿の世の始まりともいえる宣旨でございます。
ただ、大殿が大変お苦しみの中でのご就任ですから、お喜びを表すわけには参りませんでした。
大殿は、今度ばかりはこれが最期だと思われたのでしょうか、お気持ちが乱れて、二条院をそのまま寺院に改造なさいました。もし、平癒なさることがあれば、そこにお住まいとのお考えのようでございました。
お屋敷内の方々は、皆様途方に暮れていらっしゃいますが、もう、快方に向かわれることを期待できない様子でございました。

摂政となられた道隆殿のご様子は、たいそう張り合いがあってひときわご繁栄をうかがわせておいでです。北の方(高階貴子)のご兄弟は、明順(アキノブ)殿、道順(ミチノブ)殿、信順(サネノブ)殿などといって、大勢いらっしゃいます。
道隆殿の摂政任命の宣旨を伝える役には、北の方の御妹の摂津守為基の妻が任ぜられました。
北の方の御親(高階成忠)もまだ健在であられます。
大殿のご病気が重態であられることを、誰もが同じ気持ちで平癒を祈願されているように見えてはおりました。

こうした中で、摂政となられた道隆殿は、帝のご内意を頂いて、まずは、わが娘である女御の定子さまを后にお立て申すべく、あれこれとご準備を進めておいでです。
ご自身が第一位の人になられたのですから、万事につけ今は思いのままでいらっしゃる上に、これら一族の方々にも促されて、六月一日に女御は后の位にお就きになられました。後世までも語られる、中宮定子さまの誕生でございます。
ただ、世間では、大殿がご重態であられる折、今少しお待ちになることが出来なかったのか、などといった取り沙汰もされているようでございます。
中宮大夫(中宮職の長官)には右衛門督(ウエモンノカミ・道長)殿を任命なさいました。何とも意味深長なものが窺える配置とも思われ、道長殿はどう思われましたことか、受任はなさいましたが、まるきり中宮さまのおそばに寄り付かないとのお噂ですから、道長さまのご気性もなかなか剛毅なものでございます。

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