『 ジャンプ混合団体チームに拍手 』
北京五輪 ジャンプ混合団体の日本チーム
一番手の高梨沙羅選手が 見事なスタートを切ったが
まさかの「スーツ規定違反」で 得点「0」に
思わぬ落とし穴に 絶句してしまったが
高梨選手の気持ちを思うと まことに辛い
しかし このアクシデントを受けての
他の選手の頑張りは 実にすばらしかった
さらに この状態での 高梨選手の二度目のジャンプには
胸に迫るものがあった
四選手やスタッフの チームワークのすばらしさに 拍手! 拍手!
そして この「4位」は 後々まで語り継がれるほどの栄冠だと思う
「感激をありがとう」
☆☆☆
『 音をこそ泣かめ 』
作者 典侍藤原直子朝臣
海人の刈る 藻に住む虫の われからと
音をこそ泣かめ 世をば恨みじ
( 巻第十五 恋歌五 No.807 )
あまのかる もにすむむしの われからと
ねをこそなかめ よをばうらみじ
* 歌意は、「 漁師が刈る 藻に住んでいる 『われから』という虫ではないが わたしは我から作ったと諦めて 声を挙げて泣きはしますが 二人の仲がこうなったことで世を恨むことなどいたしません 」といった激しい恋歌でしょう。
* 作者の典侍藤原直子朝臣(ナイシノスケ フジワラノナオイコ アソン)の出自などには、伝えられている情報は極めて少ない。
その中で、確かとされているものは、
「 ◎ 874 年 従五位下 ◎ 902 年 正四位下 」の官位を得ているらしい事だけなのです。生没年や、父の名前さえ筆者の力では調べることが出来ませんでした。
従って、作者の姿を探る手段は、すべて具体的な資料に基づいていないことをお断りしておきます。
* まず、生没年について推定しますと、上記の官位を受けた年代から、生年は 850 年前後、没年は 902 年以降と考えられます。なくなったのは、おそらく五十歳を超えていたのではないでしょうか。
また、「典侍」という役職ですが、これは、内侍司(後宮)の次官職にあたります。長官職は、尚侍(ナイシノカミ)ですが、天皇の寵愛を受けることが多く、空席になったり実務にあたらないことが多かったようで、典侍が事実上の長官でした。また、典侍も天皇の寵愛を受ける例もあり、出自は相当身分のある家柄であったようです。藤原氏を名乗っていますから、おそらく、受領クラス以上の家柄と考えられます。
なお、「朝臣」という姓(カバネ)ですが、この頃には、多くの氏族が名乗っていたようで、家柄の格を計るのにはあまり役に立たないようです。
* 藤原直子の和歌は、古今和歌集にはこの一首だけが収録されていますが、どうやら、これ以外の和歌は伝えられていないようなのです。少し、不思議な気がします。
直子が正四位下に昇ったのは、古今和歌集の編纂を命じた醍醐天皇の御代であることを考えれば、採録にあたって、編者に何らかの忖度があったとも考えられるような気がするのです。そこまででなくとも、編者たちと比較的近しい環境にあり、それも、典侍という役職からも、醍醐天皇に近い位置で活躍していたと考えられるのです。
そして、藤原直子が現代に伝えている和歌がこれ一首だけだとすれば、それだけで秘密めいたものを感じるのですが、一部には、この和歌は、「古今伝授」の秘伝歌の一つだと伝えられているようなのです。
* この「古今伝授」については、筆者は勉強しておりませんが、一般的には、「古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたもの」とされ、その始まりは、藤原俊成( 1204 年没 )から子の定家に伝えられたものを元祖とする説や、1471 年に、足利義政に仕えた東常縁(トウツネヨリ)が連歌師の宗祇に伝えたものを祖とするものがあるとされ、それらが複雑に分岐しているようです。
* いずれにしましても、藤原直子が残した歌は、激しい、しかも悲恋を思わせる恋歌ですが、何とはなく、秘密めいたものを感じさせられてならないのです。
同時に、本当は、醍醐天皇の内侍司(後宮)において、天皇の寵愛とまではいかないとしても、厚い信頼を受けながら、豊かな日々を送った女性の一人だったようにも思うのです。
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