『 マスクも大切ですが 』
梅雨明けと共に 厳しい暑さになっている
コロナ対策も 自粛だ 経済優先だと
どうすればよいのかと 突っ込みたくなるが
マスクは 絶対必需品になっている感がある
ただ 熱中症には 悪い影響を与えることが多いようだ
コロナも恐いが 熱中症は 直接命にかかわることがある
本人はもちろん 周囲の人も
マスクの使用を 弾力的に考えて欲しい
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夏引きの 手引き糸の 年経ても
絶えぬ思ひに むすぼほれつつ
作 者 越 前
( NO.1140 巻第十二 恋歌二 )
なつひきの てびきのいとの としへても
たえぬおもひに むすぼほれつつ
* 作者 越前は、鎌倉初期の宮廷女房・歌人である。七條院越前、嘉陽門院越前、伊勢女房などと呼ばれた。生没年ともに未詳。全くの個人的な推定であるが、1180年代ごろに誕生し、1250年頃に亡くなったと考えられる。
* 歌意は、「 夏になっても 春の繭(マユ・かいこのまゆ)を手引きする糸のように 年が久しく経っても 止むことのない恋の思いに 心が結ばれて解けることがない(心がふさぎ続けている) 」といった意味。
* ただ、この和歌の意味は難解で、いくつかの参考書に頼ってしまった。
この和歌の前書き(詞書)には、「久恋(ヒサシキコヒ)といへることを」とあるので、出題に応じた和歌ということになるが、実は、「返歌」らしいのである。
この和歌は、いわゆる「本歌取り」と言われるもので、その本歌は「 夏びきの 手引きの糸を 繰り返し 言(コト)しげくとも 絶えむと思ふな (古今集・読み人しらず)」で、この和歌に対する「返歌」の形を取っている。実に技巧的といえる。
* 越前の父は伊勢神官の大中臣公親である。
最初に後鳥羽院の生母である七條院(藤原殖子)に出仕した。後に、後鳥羽院皇女礼子内親王(嘉陽門院)に仕えた。その時期については、幾つかの推定は出来るが、今一つはっきりしない。
* 礼子内親王は、1200年の誕生であるが、幼いころは七條院に養育されたらしいので、越前は誕生早々から繋がりがあったのかもしれない。
礼子内親王は、1204年に賀茂斎院に卜定され、1212年に病気のため退下している。なお、この後、承久の乱などの混乱もあって、これ以後賀茂斎院が卜定されることはなく、礼子内親王が最後の賀茂斎院となっている。1214年に院号を宣下されている。
1221年に起こった承久の乱により後鳥羽院は隠岐に配流となり、七條院は後鳥羽院に同行しているが、礼子内親王(嘉陽門院)は京都に残っている。嘉陽門院は、歴史の表舞台に立ったという記録はないようであるが、承久の乱・南北朝時代といった難しい時代で、皇室を裏で支えた一人であったような気もするのである。
( 七條院が隠岐に同行したというのは正しくない、との指摘を受けました。私の勉強不足のようですので、その点考慮してお読みください。申し訳ございません。)
越前が嘉陽門院(礼子内親王)に仕えたのは、個人的には礼子内親王誕生間もない頃ではないかと考えているが、遅くとも七條院が隠岐に移った時と推定できる。
* 越前は、新古今和歌集に七首選ばれている。その内、一首を除けば、全てが題詠とか歌会などで詠まれたものである。
越前の歌会などへの参加は、1200年であるが、以後数多くの歌会などに参加しており当時の歌壇の有力メンバーであったと推定できる。記録されている最後のものは1247年なので、実に四十八年間にわたって一流の歌人として活動し続けていたようである。
* 越前は、鎌倉時代中期に作られた女房三十六歌仙に選ばれているので、当時の評価は高かったと思われるが、現代、越前の和歌を特別に評価する声はあまりないようである。筆者個人としても、「どろどろとした人間模様」といったものを感じさせるよりも、技巧的な面が強すぎるような気がする。
しかし、もしかすると、そうした歌風こそが、新古今和歌集の特徴の一つのようにも思われる。
* いずれにしても、相模をいわゆる歴史上の人物的に見るのは正しくないと思われるが、仕えていた嘉陽門院ともども、皇室にとって難しい時代を、かなり中核に近い辺りで生きた女性の一人であることは確かであろう。
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