雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

プロ野球も そろりそろり

2020-05-25 18:53:50 | 日々これ好日

       『 プロ野球も そろりそろり 』

     緊急事態宣言の全面解除に関して 首相会見
     不満を数え上げれば 切りがないかもしれないが
     ここまでの結果は 先進諸国に比べて 
     圧倒的にすばらしい結果だ
     素直に評価し リーダーシップを示された方々に感謝すべきだと思う
     ただ ほんとうに真価が問われるのは ここからの数か月だと思う
     プロ野球も そろりそろりながら 開幕を決定
     スポーツばかりでなく さまざまなイベントの
     リード役になって欲しい

                         ☆☆☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日とも知らず

2020-05-25 08:09:06 | 新古今和歌集を楽しむ

     昨日とも今日とも知らず 今はとて
              別れしほどの 心まどひに

               作 者  恵子女王

( No.1238  巻第十四 恋歌四 )
       きのうとも きょうともしらず いまはとて
                 わかれしほどの こころまどひに

* 作者 恵子女王(ケイシジョオウ)は、醍醐天皇の孫にあたる皇族で、摂関家の正妻としての生涯を送っている。( 925 - 992 )行年六十八歳。

* 歌意は、「 昨日の事か今日の事か 今になれば いつからお別れしてしまったのかと 心が乱れております 」といった意味と受け取ったが、この和歌、とらえ方によれば、もっと奥深いものと受け取ることが出来そうにも思われる。
ただ、この和歌は、1237番にある夫の謙徳公の和歌「 別れては 昨日今日こそ 隔てつれ 千世しも経たる 心地のみする 」に対する「返し」になっているので、「恋歌」というより夫婦間のなれあいのような和歌と思われ、仲の良い夫婦だった様子が垣間見える。

* 恵子女王は、第六十代醍醐天皇の第三皇子・代明親王(ヨシアキラシンノウ)の息女である。
藤原北家九条流の伊尹(コレマサ・謙徳公)の正妻となり、五男二女を儲けている。歌人としては、当時の上流の女性の教養としての程度ではないかと推定されるが、皇族から降嫁した女性として充実した生涯であったようだ。血筋、教養共に恵まれ、さらに容姿も優れていたらしい。

* 子供のうち、恵子女王が生んだ男子のうち一番下の義懐は摂政・太政大臣にまで昇っており、二人の女子は、上の子は冷泉天皇の女御となり、その子は花山天皇として即位している。下の女子も為尊親王の妃になっており、摂関家の正妻として十分な役割をはたしているかに見える。
しかし、当時、若くして亡くなる人が多い時代ではあったが、恵子女王も子供に先立たれる悲哀を経験している。
一番目と二番目の男子は夭折したようであるが、三番目の挙賢(タカカタ)と四番目の義孝は同じ日に亡くすという経験をしている。年子の二人は、ともに容姿端麗なことでも評判であったが、はやり病のため、天延二年(974)九月十六日の朝に挙賢が亡くなり、夕方には弟の義孝が亡くなったのである。人々は、挙賢を前少将、義孝を後少将と呼んで、その死を悼んだと言われる。二人とも、二十歳を迎えたばかりの頃であった。

* 恵子女王は、この二年前に夫の謙徳公と死別したばかりであり、その哀しみの深さは察するに余りある。
拾遺和歌集には、この時の悲しみを詠んだ恵子
女王の和歌が載せられている。    「謙徳公の北の方、二人のこども亡くなりて後」
『 あまといへど いかなるあまの 身なればか 
             世に似ぬ潮を 垂れわたるらむ 』
( あま(海人/尼)といっても、どのようなあまの身だというので、世の中にはないような辛い潮を たらし続けるのか )

* 朝と夕べに、年齢の似通った兄と弟の若い公達が亡くなるという出来事は、当時大きな話題になったようで、「今昔物語」や「大鏡」などにも記されている。
特に弟の義孝は、その子の行成が三蹟の一人とされ、能書家として知られている。
また、その和歌が小倉百人一首にも選出されている。
 『 君がため 惜しからざりし 命さへ
             長くもがなと 思ひけるかな 』 

* 天皇の孫として誕生し、公家社会にも公卿の妻としての生涯を生きた恵子女王は、現代の私たちが学ぶ歴史においては、あまりお目にかかることはない。
しかし、祖父である醍醐天皇、夫である藤原伊尹、そして孫にあたる藤原行成、同じく孫にあたる花山天皇などは歴史上の人物として知られている。その陰に隠れがちではあるが、恵子女王の生涯も、その悲劇性も含めて、魅力に満ち溢れている。
そして、恵子女王の末裔は繁栄し今上天皇にまでも繋がっているのである。

     ☆   ☆   ☆  

   
     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする