雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

雨に閉じ込まれて

2018-09-09 18:18:24 | 日々これ好日
        『 雨に閉じ込まれて 』

     終日雨 家の中に閉じ込められた状態
     各地の大雨情報などを見ると 贅沢は言えないが
     今夜から明日にかけても 激しい雨らしい
     そのお蔭で たまっていたビデオを 大分整理できた
     雨の日曜日も 被害が出ない程度なら 悪くはないが・・・

                    ☆☆☆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寿命を得た私たち

2018-09-09 16:05:36 | 私の好きなフレーズ
   『 私たちは、進化により人間という生命体となったわけですが、その過程で、個体としての死、すなわち寿命というものを持ったのです。 』


地球上に生物が登場した頃、その命には寿命といったものはなかったそうです。他力的な要因や、あるいは病気のようなものを原因として命が失われることはあっても、細胞分裂のような形で増殖する生命体には寿命という概念は存在しないことになります。
私たちは、進化により人間という生命体となったなったわけですが、その過程で、個体としての死、すなわち寿命というものを持ったのです。奇跡のような命の連鎖の結果誕生した私たちは、個体としては必ず死滅するという必然も背負っているわけです。


                   ( 「小さな小さな物語」第三部 No.170 より )
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信太の森を見よ

2018-09-09 08:07:15 | 新古今和歌集を楽しむ
     うつろはで しばし信太の 森を見よ
                かへりもぞする 葛の裏風


                       作者  赤染衛門

( No.1820  巻第十八 雑歌下 )

               うつろはで しばししのだの もりをみよ
                          かへりもぞする くずのうらかぜ



* 作者は平安中期の女流歌人である。( 956 ? - 1041 ? ) 概ねこの頃とされているが、生没年とも確定されていない。没年については、少なくとも長久二年(1041)までは生存していたらしい。享年も八十歳は越えていたと思われる。

* 歌意は、「 心変わりして、新しい恋人のもとに行くことなどしないで、しばらくは和泉国にいる人の様子をご覧なさい。信太の森の葛の葉が、風にひるがえって葉の裏を見せるかもしれませんよ。」 歌そのものの意味は、このようなものか。
ただ、この和歌の前書きには、「 和泉式部、道貞に忘られて後、ほどなく敦道親王通ふと聞きて、遣はしける 」とあるので、赤染衛門が和泉式部に忠告したものであることが分かる。
新古今和歌集には、この和歌の次に、和泉式部の「返歌」が載せられているので、大変興味深い。

* 平安王朝における女流文学の最盛期は、おそらく、一条天皇の中宮(後に皇后)定子と、そのあとの中宮彰子のもとに才女が女房として綺羅星の如く集まった頃ではないだろうか。この時代は、藤原氏が絶頂期に向かう時代でもあったが、中関白家藤原道隆は、わが娘定子のもとに優秀な女房を集め、その後を追った御堂関白藤原道長も、わが娘彰子のために優秀な女房を集めた。その中には、定子のもとには清少納言がおり、彰子のもとには赤染衛門、和泉式部、紫式部がなどがいた。
現代に伝えられているものからは、清少納言、紫式部の作品が名高いが、当時の文学、というより教養の中心は、和歌であった。そう考えた場合、この王朝の女流文学の最高峰を推定するならば、それは、赤染衛門と和泉式部が双璧と推定するのである。もちろん、異論は覚悟してであるが。

* 赤染衛門が女房として彰子のもとに出仕することになったのは、一条左大臣源雅信邸に出仕したのが切っ掛けである。その後、雅信の娘倫子が藤原道長の正妻として嫁ぐのに付いて行ったものと思われ、さらに、道長と倫子の娘彰子が入内するにあたって女房として付き従ったのであろう。つまり、おそらく、数多い彰子の女房の中でも長老格であったと考えられる。

* 赤染衛門と和泉式部は、彰子の女房として親しく接する機会があったと思われる。年齢はおよそ二十歳ほど赤染衛門の方が年長と推定されるので、同僚というより、親子のような関係だったのかもしれない。ただ二人が知り合ったのは、後述するようにもっと早くから親しい関係であったらしい。
和歌の上手としては、当時から二人は周囲から高く評価されていたようだが、その歌風は全く違う。赤染衛門が穏健にして典雅とされるのに対して、和泉式部は情熱的にして奔放と評されるものである。二人の生き方もまた、その歌風同様といっていいほど対照的なものであったようだ。
二人の生き様については大変興味深いが、二人とも本作品に再三登場させていただく予定なので、その機会に譲るとして、本稿では、冒頭の和歌についての背景を述べさせていただく。

* 赤染衛門がこの和歌を和泉式部に送った背景には、和泉式部の情熱的な恋の遍歴があった。
和泉式部は、999年の頃に橘道貞と結婚し一女を儲けている。小式部内侍である。ただ、二人の蜜月期間は長くなかったようである。和泉式部は、小式部内侍誕生から程ない頃に冷泉天皇の第三皇子である為尊親王と恋愛関係となり、身分違いということもあって世間の非難を浴びたようである。それを乗り越えての恋愛も、一年余りほどで為尊親王が早世し、幕を閉じる。
ところが、その一年ほど後には、為尊親王の弟である敦道親王の激しい求愛を受けることになる。1003年の頃のことなので、冒頭の和歌は、この頃に赤染衛門が贈ったもののようである。
和泉式部と敦道親王の仲は、さらに激しい非難を浴びながらも和泉式部は敦道邸に入ることになり、一男を儲けるが四年ほどで、やはり敦道親王の崩御で終わる。この辺りのことは、「和泉式部日記」に残されてる。
和泉式部が彰子のもとに出仕するのは、この数年後のことと思われ、もしかすると、赤染衛門の口添えがあったのかもしれない。

* 冒頭の和歌が贈られた時、和泉式部と橘道貞の関係はすでに終わっていたように思われるが、正式に離縁にはなっていなかったらしい。もっとも当時は、一夫多妻が普通で、道貞にも別の女性がいたし、一夫多妻といっても、後世のものとはかなり違い、女性が複数の男性と交際があるのも珍しいことではないようである。現に、赤染衛門の実父についても、親権を争うようなことがあったと伝えられている。

* さて、赤染衛門が、「またまた親王とお付き合いするようなことはしないで、和泉にいる橘道貞のことを気にしたらどうですか。心変わりしてくれるかもしれませんよ」と忠告したのに対して、和泉式部は次のように答えている。
 『 秋風は すごく吹くとも 葛の葉の うらみがほには みえじとぞ思ふ 』
 ( あの人が、飽きてひどい仕打ちをしても、わたしは、恨んでいるようには見えない様にしようと思っているのです。)
二人の関係は、もとに戻ることはなかった。 

     ☆   ☆   ☆       


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする