ちょっぴり『老子』 ( 1 )
『老子』に触れてみたい
『老子』に触れてみたい
今回を第一回として、『老子』について書かせていただきたいと思います。
まず最初に、お断りしておきたいことは、本稿は『老子』について研究するものでも学習するものでもないということです。
『老子』に関しましては、その人物についても、その書についても、中国はもちろんわが国でも多くの研究がなされてきています。しかも、今なおその研究は道半ばと言っていい状態だ思うのですが、そのようなテーマに素人の私が挑戦してみても意味のないことです。
しかし、『老子』は、その人物であれ、その書であれ、魅力にあふれ、不思議な力で私たちを引き付けてやみません。
私はその魅力に負けて、ほんの少しでもいいから触れてみたい、という思いが募り、本稿を書き進めることにさせていただきました。
願わくば、これまで『老子』とは余り接点を持つ機会のなかった人が、興味本位で結構ですから一人でも多くお付き合いいただきまして、『老子』の魅力の一端に触れていただき、場合によっては、もっと深く研究されている方の著書なりに進まれる切っ掛けになれば、本稿の目的は達せられることになります。
『タオ』という言葉を聞かれたことがありませんか
『老子』の思想の根本を成すものは、『道』という文字であらわされます。
『道』は、通常は「ミチ」と読まれ、本稿でもそうさせていただきます。
道教関係などでは、この『道』にあたるものを、『タオ』と紹介されていることがよくあります。
これは、「道」という文字を中国の言葉では、「タオ」あるいは「ダオ」と発音するそうです。もちろんこの表記は正しい音を表しておりませんので、その点はご勘弁ください。因みに、この「ダオ」といった発音が、わが国の言葉の「道場」とか「柔道」といった言葉の発音になっているようです。
従って、『老子』の教えるところの思想は、『道』でも『タオ』でも同じものを指しています。
ただ、私たちが、ついつい勘違いしてしまうのは、「道」と書いたり発言してしまった場合、『老子』の教えとは違うものを思い浮かべてしまう危険性があります。文章なり話の前後から、「道」を道路だとは考えないまでも、わが国の「道」という文字にも、教えとか方向性であるとかといった意味もありますから、その意味で捉えてしまう危険性があるのです。
かと言って、わが国の多くの『老子』に関する研究書は、『タオ』ではなく『道』を用いているようですので、本稿もそれに従うことにさせていただきます。
ただ、国際的には、たとえば英語では、『Tao』と表記された言葉は、『老子』あるいは道教の教えるところの『道』を指しているそうてす。ちょうど、「禅」が「Zen」として表記されているのと同じ扱いということになります。
触れるだけでも意味がある
『老子』の教えは難解、というのが常識と言ってもよいほどだそうです。
特にわが国の文化には、仏教思想も極めて強いですが、儒教的な考え方が私たちの日常の道徳や儀礼などに染み込んでいます。道教は儒教とは対照的といえる教えが少なくないようですから、理解するのが余計難しいのかもしれません。
もちろん、道教は『老子』が開いたものではありませんが、その教えが重要な役割を担っていることは確かで、乱暴に言えば、『老子』の道教、孔子の儒教ということになります。
では、それほど難解な教えを、私ごときが学んだり、いわんや文章にして公表するのは、何の意味もなく、むしろ害があるだけではないのかという心配があります。
その懸念もないことはないのですが、何せ、相手は『老子』です。そんな心配は無用だと思うのです。
特別に優れた人物だけが理解できるような教えなど、しょせん大した教えではないはずです。
優れた人物にはそれなりに、私のような凡庸な人物にもそれなりに、理解し習得できる教えこそが優れた教えのはずで、『老子』はきっとそのような大先生であるはずです。
まあ、このような自分に都合のよい判断をもとに、「 『ちょっぴり『老子』 」 という作品を進めて参りますので、よろしくお願いいたします。
* * *
『老子』に触れてみたい
『老子』に触れてみたい
今回を第一回として、『老子』について書かせていただきたいと思います。
まず最初に、お断りしておきたいことは、本稿は『老子』について研究するものでも学習するものでもないということです。
『老子』に関しましては、その人物についても、その書についても、中国はもちろんわが国でも多くの研究がなされてきています。しかも、今なおその研究は道半ばと言っていい状態だ思うのですが、そのようなテーマに素人の私が挑戦してみても意味のないことです。
しかし、『老子』は、その人物であれ、その書であれ、魅力にあふれ、不思議な力で私たちを引き付けてやみません。
私はその魅力に負けて、ほんの少しでもいいから触れてみたい、という思いが募り、本稿を書き進めることにさせていただきました。
願わくば、これまで『老子』とは余り接点を持つ機会のなかった人が、興味本位で結構ですから一人でも多くお付き合いいただきまして、『老子』の魅力の一端に触れていただき、場合によっては、もっと深く研究されている方の著書なりに進まれる切っ掛けになれば、本稿の目的は達せられることになります。
『タオ』という言葉を聞かれたことがありませんか
『老子』の思想の根本を成すものは、『道』という文字であらわされます。
『道』は、通常は「ミチ」と読まれ、本稿でもそうさせていただきます。
道教関係などでは、この『道』にあたるものを、『タオ』と紹介されていることがよくあります。
これは、「道」という文字を中国の言葉では、「タオ」あるいは「ダオ」と発音するそうです。もちろんこの表記は正しい音を表しておりませんので、その点はご勘弁ください。因みに、この「ダオ」といった発音が、わが国の言葉の「道場」とか「柔道」といった言葉の発音になっているようです。
従って、『老子』の教えるところの思想は、『道』でも『タオ』でも同じものを指しています。
ただ、私たちが、ついつい勘違いしてしまうのは、「道」と書いたり発言してしまった場合、『老子』の教えとは違うものを思い浮かべてしまう危険性があります。文章なり話の前後から、「道」を道路だとは考えないまでも、わが国の「道」という文字にも、教えとか方向性であるとかといった意味もありますから、その意味で捉えてしまう危険性があるのです。
かと言って、わが国の多くの『老子』に関する研究書は、『タオ』ではなく『道』を用いているようですので、本稿もそれに従うことにさせていただきます。
ただ、国際的には、たとえば英語では、『Tao』と表記された言葉は、『老子』あるいは道教の教えるところの『道』を指しているそうてす。ちょうど、「禅」が「Zen」として表記されているのと同じ扱いということになります。
触れるだけでも意味がある
『老子』の教えは難解、というのが常識と言ってもよいほどだそうです。
特にわが国の文化には、仏教思想も極めて強いですが、儒教的な考え方が私たちの日常の道徳や儀礼などに染み込んでいます。道教は儒教とは対照的といえる教えが少なくないようですから、理解するのが余計難しいのかもしれません。
もちろん、道教は『老子』が開いたものではありませんが、その教えが重要な役割を担っていることは確かで、乱暴に言えば、『老子』の道教、孔子の儒教ということになります。
では、それほど難解な教えを、私ごときが学んだり、いわんや文章にして公表するのは、何の意味もなく、むしろ害があるだけではないのかという心配があります。
その懸念もないことはないのですが、何せ、相手は『老子』です。そんな心配は無用だと思うのです。
特別に優れた人物だけが理解できるような教えなど、しょせん大した教えではないはずです。
優れた人物にはそれなりに、私のような凡庸な人物にもそれなりに、理解し習得できる教えこそが優れた教えのはずで、『老子』はきっとそのような大先生であるはずです。
まあ、このような自分に都合のよい判断をもとに、「 『ちょっぴり『老子』 」 という作品を進めて参りますので、よろしくお願いいたします。
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