き み は 虹 を 見 た か
( 1 - 1 )
正雄くんは、少し緊張していました。
家族全員でお出かけすることはよくあるのですが、展覧会に行くことなどあまりなかったからです。それも、自分の絵が張り出されている展覧会なので、いつものように、はしゃいだ気持ちにはなれないのです。
夏休みの宿題で描いた絵を、先生がとてもほめてくれて、学校の代表者の一人として出品してくれたのですが、それが優秀作品に選ばれたのです。
正雄くんは、小さいころから絵を描くのが好きだったのですが、お姉ちゃんの方がずっとうまいので、自分の絵が上手に描けているとは思っていなかったのです。
今度の展覧会には、お姉ちゃんも学校の代表に選ばれたのですが、入選したのは正雄くんの作品だけでした。それで、ほんとうは、ちょっと自慢なのですが、やはり恥ずかしい気持ちもあって、落ちつかないのです。
**
商工会館という大きな建物の中にある会場には、部屋いっぱいに絵が張り出されていて、たくさんの人が来ていました。ほとんどが親子連れで、たぶん正雄くんたちと同じように、入選した子供の絵を見に来ているようです。
学年ごとの入選作品が並んでいる奥に優秀作品が張られていて、さらにその奥には最優秀作品が張り出されています。
最優秀作品は、中学三年生の人と小学五年生の人が選ばれていましたが、中学三年生の人の絵は、「まるでプロの作品みたいだ」と、お父さんは感心していました。
そして、その次の優秀作品の中に正雄くんの絵がありました。学年ごとに二人ずつくらいが選ばれているようで、最優秀作品よりずっとうまいと思われる絵や、小学一年生の子の画用紙からはみ出しそうに描かれている絵もあります。
「マーくん、すごいねぇ」
お姉ちゃんが、頬を真っ赤に染めて正雄くんの顔をのぞきこみました。
正雄くんは、お姉ちゃんがあまりに顔を近づけるので恥ずかしくなりましたが、同時に、とてもうれしかったのです。それは、正雄君だけが優秀賞をもらうことになり、もっと上手なお姉ちゃんが駄目だったので、きっとお姉ちゃんは怒っていると思っていたからです。
でも、お姉ちゃんは、自分のことのように喜んでくれているのです。
**
会場を出たあと、正雄くんたちはレストランに入りました。家族でときどき行くファミリーレストランですが、いつもとは別のお店です。
正雄くんの家族は、お父さんとお母さん、それにお姉ちゃんと正雄くんの四人です。お姉ちゃんは道子という名前で、正雄くんより二つ上で小学五年生です。
四人はメニューを見ながら注文するものを考えました。正雄くんは、いつもハンバーグか海老フライを選ぶのですが、お姉ちゃんは、いつも注文するものが違います。これまで食べたことがないものを見つけると、必ずそれを注文します。どこのお店ででもそうするのです。ときどきは、辛すぎたり気味が悪いものがあったりするので、その時はお母さんかお父さんに交換してもらうことになります。
正雄くんは、変わったものは食べないことにしています。
この日も、お姉ちゃんが注文するものを決めるのに、一番時間がかかりました。
ようやくお店の人に注文することが出来たあとは、話題は正雄くんの絵のことについての話になりました。この時も、お姉ちゃんは、しきりに正雄くんの絵をほめるのです。
「正雄の絵は確かにすばらしいけれど、他にも良い絵がたくさんあったよ。優秀賞になっていない作品にも、実によく描けている作品があったよ」
お父さんが、お姉ちゃんに逆らうような言い方でお姉ちゃんの顔を見ました。
「ええ、でも、マーくんのが一番よかったよ」
「ミッちゃんは、マーくんの絵がよほど気に入ったのね。でも、ほめすぎじゃない?」
今度はお母さんがうれしそうな顔で、話に加わりました。
「そうじゃないわ。他にも良い絵はたくさんあったけれど、マーくんの絵にはかなわないわ。マーくんが絵が上手なことは知ってたけれど、みんなのと比べると、あんなに目立つなんて考えことがなかったわ。
だって、マーくんの絵、画用紙からあふれ出てくるみたいだったわ。色がすごいのよ。ねえ、そうだったでしょう」
お姉ちゃんは、お父さんとお母さんの顔を交互に見ながら熱心に話しています。正雄くんは、何だか変な気持ちです。うれしいのと恥ずかしいのとが入り交じったような気持ちです。お姉ちゃんにほめられることなど、これまであまりなかったからです。
「なんたって、色の使い方がすごいのよ。激しくって、それでいて、とても優しいの。畑いちめんの野菜の色や、空の色や、遠くの山の色が、画用紙からあふれてくるみたいに膨らんでいるの・・・。上手な絵はたくさんあったけれど、マーくんみたいにすごい絵は他にはなかったわ」
お姉ちゃんは、ますます力を込めて正雄くんの絵をほめるのです。
食事中ずっと話題は正雄くんの絵のことでした。正雄くんは、うれしい気持ちと恥ずかしい気持ちを半分ずつ感じながら、食事の間とっても幸せな気持ちでした。
正雄くんは、少し緊張していました。
家族全員でお出かけすることはよくあるのですが、展覧会に行くことなどあまりなかったからです。それも、自分の絵が張り出されている展覧会なので、いつものように、はしゃいだ気持ちにはなれないのです。
夏休みの宿題で描いた絵を、先生がとてもほめてくれて、学校の代表者の一人として出品してくれたのですが、それが優秀作品に選ばれたのです。
正雄くんは、小さいころから絵を描くのが好きだったのですが、お姉ちゃんの方がずっとうまいので、自分の絵が上手に描けているとは思っていなかったのです。
今度の展覧会には、お姉ちゃんも学校の代表に選ばれたのですが、入選したのは正雄くんの作品だけでした。それで、ほんとうは、ちょっと自慢なのですが、やはり恥ずかしい気持ちもあって、落ちつかないのです。
**
商工会館という大きな建物の中にある会場には、部屋いっぱいに絵が張り出されていて、たくさんの人が来ていました。ほとんどが親子連れで、たぶん正雄くんたちと同じように、入選した子供の絵を見に来ているようです。
学年ごとの入選作品が並んでいる奥に優秀作品が張られていて、さらにその奥には最優秀作品が張り出されています。
最優秀作品は、中学三年生の人と小学五年生の人が選ばれていましたが、中学三年生の人の絵は、「まるでプロの作品みたいだ」と、お父さんは感心していました。
そして、その次の優秀作品の中に正雄くんの絵がありました。学年ごとに二人ずつくらいが選ばれているようで、最優秀作品よりずっとうまいと思われる絵や、小学一年生の子の画用紙からはみ出しそうに描かれている絵もあります。
「マーくん、すごいねぇ」
お姉ちゃんが、頬を真っ赤に染めて正雄くんの顔をのぞきこみました。
正雄くんは、お姉ちゃんがあまりに顔を近づけるので恥ずかしくなりましたが、同時に、とてもうれしかったのです。それは、正雄君だけが優秀賞をもらうことになり、もっと上手なお姉ちゃんが駄目だったので、きっとお姉ちゃんは怒っていると思っていたからです。
でも、お姉ちゃんは、自分のことのように喜んでくれているのです。
**
会場を出たあと、正雄くんたちはレストランに入りました。家族でときどき行くファミリーレストランですが、いつもとは別のお店です。
正雄くんの家族は、お父さんとお母さん、それにお姉ちゃんと正雄くんの四人です。お姉ちゃんは道子という名前で、正雄くんより二つ上で小学五年生です。
四人はメニューを見ながら注文するものを考えました。正雄くんは、いつもハンバーグか海老フライを選ぶのですが、お姉ちゃんは、いつも注文するものが違います。これまで食べたことがないものを見つけると、必ずそれを注文します。どこのお店ででもそうするのです。ときどきは、辛すぎたり気味が悪いものがあったりするので、その時はお母さんかお父さんに交換してもらうことになります。
正雄くんは、変わったものは食べないことにしています。
この日も、お姉ちゃんが注文するものを決めるのに、一番時間がかかりました。
ようやくお店の人に注文することが出来たあとは、話題は正雄くんの絵のことについての話になりました。この時も、お姉ちゃんは、しきりに正雄くんの絵をほめるのです。
「正雄の絵は確かにすばらしいけれど、他にも良い絵がたくさんあったよ。優秀賞になっていない作品にも、実によく描けている作品があったよ」
お父さんが、お姉ちゃんに逆らうような言い方でお姉ちゃんの顔を見ました。
「ええ、でも、マーくんのが一番よかったよ」
「ミッちゃんは、マーくんの絵がよほど気に入ったのね。でも、ほめすぎじゃない?」
今度はお母さんがうれしそうな顔で、話に加わりました。
「そうじゃないわ。他にも良い絵はたくさんあったけれど、マーくんの絵にはかなわないわ。マーくんが絵が上手なことは知ってたけれど、みんなのと比べると、あんなに目立つなんて考えことがなかったわ。
だって、マーくんの絵、画用紙からあふれ出てくるみたいだったわ。色がすごいのよ。ねえ、そうだったでしょう」
お姉ちゃんは、お父さんとお母さんの顔を交互に見ながら熱心に話しています。正雄くんは、何だか変な気持ちです。うれしいのと恥ずかしいのとが入り交じったような気持ちです。お姉ちゃんにほめられることなど、これまであまりなかったからです。
「なんたって、色の使い方がすごいのよ。激しくって、それでいて、とても優しいの。畑いちめんの野菜の色や、空の色や、遠くの山の色が、画用紙からあふれてくるみたいに膨らんでいるの・・・。上手な絵はたくさんあったけれど、マーくんみたいにすごい絵は他にはなかったわ」
お姉ちゃんは、ますます力を込めて正雄くんの絵をほめるのです。
食事中ずっと話題は正雄くんの絵のことでした。正雄くんは、うれしい気持ちと恥ずかしい気持ちを半分ずつ感じながら、食事の間とっても幸せな気持ちでした。
( 1 - 2 )
展覧会のあとのレストランでの楽しい食事から、一週間ほど経った日のことです。今度は、正雄くんがたいへんつらい気持ちになることが起きてしまいました。
入賞した絵の賞品として、正雄くんは図書カードをもらいました。展覧会の主催者から郵便で送られてきたのです。
正雄くんはとてもうれしくて、ゲームの解説が載っている本を買おうと考えました。買いたい本は何冊もあるのですが、とても全部は買えませんが、二冊か、うまくいけば三冊買えるはずです。
夕食のあと、正雄くんはお父さんにその話をしました。前から欲しいと思っていた本の名前を何冊か言って、絶対欲しいと頼みました。
「正雄が賞品としてもらったものだから、欲しい本を買っていいよ。でも、図書カードの半分はお姉ちゃんにあげなくてはいけないよ」
と、お父さんはにこやかに正雄くんに話しました。
正雄くんは、頭の中で考えました。それだと、欲しい本が一冊しか買えません。どれも前から欲しいと思っていたものばかりで、三冊にしぼるのさえ大変なくらいなのです。
「でも、どれも、欲しい本ばかりなんだ。半分お姉ちゃんにあげると買えなくなってしまうよ・・・」
「あんなにすばらしい絵を描いたご褒美としてもらったものだから、それは、お姉ちゃんと半分ずつにしないといけないよ。全部でなくても、買える分だけにしたらいいじゃないか」
「でも、これは、僕がもらった図書カードだよ・・・」
お父さんが怒りかけているのが、正雄くんには分かっていました。お母さんと違って、お父さんはあまり怒らないのですが、お父さんに叱られる時はいつも自分の方が悪いことも分かっていました。でも、正雄くんは、どの本もどうしても欲しかったのです。
「じゃあ、一枚だけお姉ちゃんにあげる」
正雄くんは、六枚ある図書カードのうちの一枚だけお姉ちゃんに投げるようにして渡しました。
「なぜ、分からないんだ」
お父さんが大きな声を出しました。
「そんなもの、いらない」
お姉ちゃんは泣きそうな声で言うと、二階の自分の部屋へ走って行きました。
正雄くんは、お姉ちゃんを泣かすようなことはしていないのにと思いながらも、いつにないお父さんの怒り方に、どうしたらいいのか分からなくなってしまいました。
「こんなもの、ぼくもいらない」
正雄くんは、残りの図書カードや入っていた封筒などを一緒にテーブルに叩きつけると、やはり二階にある自分の部屋に駆け込みました。そして、そのままベッドにもぐりこみました。
すると、なぜだか涙が出てきて、それから泣いてしまいました。
これまでも、お姉ちゃんが何かをもらった時は、たいていは、半分正雄くんにくれていました。もらう時は、それが当たり前だと思っていました。
正雄くんが賞品をもらうのは今回が初めてですが、お姉ちゃんと分けるべきだということはよく分かっているのです。でも、どうしてもゲームの本が欲しかったのです。
ベッドの中で泣きじゃくりながら、正雄くんは、とても腹立たしく、つらい気持ちになっていました。
展覧会のあとのレストランでの楽しい食事から、一週間ほど経った日のことです。今度は、正雄くんがたいへんつらい気持ちになることが起きてしまいました。
入賞した絵の賞品として、正雄くんは図書カードをもらいました。展覧会の主催者から郵便で送られてきたのです。
正雄くんはとてもうれしくて、ゲームの解説が載っている本を買おうと考えました。買いたい本は何冊もあるのですが、とても全部は買えませんが、二冊か、うまくいけば三冊買えるはずです。
夕食のあと、正雄くんはお父さんにその話をしました。前から欲しいと思っていた本の名前を何冊か言って、絶対欲しいと頼みました。
「正雄が賞品としてもらったものだから、欲しい本を買っていいよ。でも、図書カードの半分はお姉ちゃんにあげなくてはいけないよ」
と、お父さんはにこやかに正雄くんに話しました。
正雄くんは、頭の中で考えました。それだと、欲しい本が一冊しか買えません。どれも前から欲しいと思っていたものばかりで、三冊にしぼるのさえ大変なくらいなのです。
「でも、どれも、欲しい本ばかりなんだ。半分お姉ちゃんにあげると買えなくなってしまうよ・・・」
「あんなにすばらしい絵を描いたご褒美としてもらったものだから、それは、お姉ちゃんと半分ずつにしないといけないよ。全部でなくても、買える分だけにしたらいいじゃないか」
「でも、これは、僕がもらった図書カードだよ・・・」
お父さんが怒りかけているのが、正雄くんには分かっていました。お母さんと違って、お父さんはあまり怒らないのですが、お父さんに叱られる時はいつも自分の方が悪いことも分かっていました。でも、正雄くんは、どの本もどうしても欲しかったのです。
「じゃあ、一枚だけお姉ちゃんにあげる」
正雄くんは、六枚ある図書カードのうちの一枚だけお姉ちゃんに投げるようにして渡しました。
「なぜ、分からないんだ」
お父さんが大きな声を出しました。
「そんなもの、いらない」
お姉ちゃんは泣きそうな声で言うと、二階の自分の部屋へ走って行きました。
正雄くんは、お姉ちゃんを泣かすようなことはしていないのにと思いながらも、いつにないお父さんの怒り方に、どうしたらいいのか分からなくなってしまいました。
「こんなもの、ぼくもいらない」
正雄くんは、残りの図書カードや入っていた封筒などを一緒にテーブルに叩きつけると、やはり二階にある自分の部屋に駆け込みました。そして、そのままベッドにもぐりこみました。
すると、なぜだか涙が出てきて、それから泣いてしまいました。
これまでも、お姉ちゃんが何かをもらった時は、たいていは、半分正雄くんにくれていました。もらう時は、それが当たり前だと思っていました。
正雄くんが賞品をもらうのは今回が初めてですが、お姉ちゃんと分けるべきだということはよく分かっているのです。でも、どうしてもゲームの本が欲しかったのです。
ベッドの中で泣きじゃくりながら、正雄くんは、とても腹立たしく、つらい気持ちになっていました。
( 2 )
次の日の朝、正雄くんは、お父さんが会社に出かけるのを待って起きだしました。
いつもは、お父さんが会社に出かけるのと正雄くんが起きるのは、だいたい同じ時間なのです。ですから、朝お父さんと顔を合わさないこともよくあるのですが、この日は目を覚ましていたのですが、お父さんと顔を合わせるのがいやなので、ベッドの中でお父さんが出かけるのを待っていたのです。
部屋を出てお母さんに挨拶すると、お母さんは、少し寂しそうな笑顔で正雄くんに応えました。でも、図書カードのことは何も言わないで、「少し遅いわよ」と、いつものように、急ぐように言いました。
お姉ちゃんはすでに食卓に座っていましたが、正雄くんに、「おはよう」と、いつものように挨拶するだけで、昨日のことはもう怒っていないみたいでした。
**
その日のお昼休み時間のことです。
担任の山村先生が、校庭で遊んでいた正雄くんを呼びに来ました。お姉ちゃんと、お姉ちゃんの担任の先生も一緒でした。
「お父さんが病気なので、すぐ帰る準備をしなさい」
山村先生が、いつもと違う、少し震えているような声で言いました。
正雄くんは、「はい」と返事をしましたが、よく意味が分かりませんでした。お父さんは、昨日元気だったし、今朝も顔は合わせていませんが元気そうな声が聞こえていましたし、いつものように会社へ行ったはずです。
急に病気だなんて言われても、何のことだか分かりません。
二人は、山村先生に連れられて家に帰りました。
家には良子おばさんが来ていました。お母さんのお姉さんにあたる人です。
良子おばさんは山村先生と少し話していましたが、そのあと二人に、「すぐ病院に行くのよ」と言いました。いつもと違って、少し恐い顔で、命令するような言い方です。
病院は、電車を乗り継いで一時間近くかかる所です。お母さんは先に行っているとのことですが、お父さんの様子は良子おばさんにはよく分からないようでした。
良子おばさんがお母さんから電話で聞いた話では、お父さんは会議中に倒れて、救急車で病院に運ばれたようなのです。
その病院はとても大きな病院で、一階の受付のあたりには大勢の人がいました。
良子おばさんは、二度も三度も尋ねながら病室を探しました。ようやく分かったお父さんが治療を受けている大きな病室の近くの待合室に、お母さんがいました。会社の人らしい男の人も一緒でした。
お母さんは三人を見ると、「早かったわね」と微笑みかけましたが、その顔色は悪く、お母さんの方が病人みたいでした。
お母さんは会社の人に良子おばさんを紹介し、そのあと三人でしばらく話をしていましたが、やがて会社の人は帰って行きました。
お母さんは何度もお礼を言いながら会社の人を見送った後、三人をお父さんが入っている病室に連れて行きました。病室はガラスに覆われた大きな部屋で、いくつものベッドがあり、その中の一つにお父さんが寝ているようでした。お母さんがその場所を教えてくれましたが、正雄くんには本当にお父さんなのかどうかはよく分かりませんでした。
お母さんの話によれば、お父さんは普通に出勤した後、朝の十時過ぎから始まった会議の途中で気分が悪くなり、やがて意識を失い、救急車で病院に運ばれたそうです。
会社から自宅に連絡があり、お母さんはお隣と良子おばさんに連絡を取ったあと病院に駆けつけました。その時はまだ手術中で、手術が終わったあと病室に運ばれる時にお父さんと短い時間会ったそうですが、話をすることはできませんでした。
今は、お医者さんたちが付きっきりで懸命の治療をしてくれている最中なので、今日は面会が出来ないようです。
夕方になって、山下のおじさんと、田舎のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが来てくれました。山下のおじさんというのは良子おばさんの旦那さんで、田舎からきてくれたのはお父さんの両親です。
その日は、お母さんと良子おばさんが病院に残ることになりましたが、病院に泊まることはできませんので、近くのホテルに泊まることになりました。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんと正雄くんとお姉ちゃんは、山下のおじさんの車で家に帰りました。
その夜は、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが泊まってくれて、正雄くんもお姉ちゃんもお祖父ちゃんたちと同じ部屋で寝ました。
翌日も、みんなで病院へ行きました。正雄くんもお姉ちゃんも学校を休むことにしたのです。お隣のおばさんも来てくれて、学校への連絡などをしてくれました。
病院に着くと、お母さんが受付の所で待っていました。京都のお祖父ちゃんお祖母ちゃんも来ていました。お母さんの両親です。
お父さんは、小さな病室に移っていました。一人用の部屋なので、みんなで部屋に入ることが出来ました。
お父さんは、管のついたマスクのようなものをしていました。他にも何本も管がつけられていて、ベッドの横の大きな機械につながれていました。
しかし、マスクの間から見えるお父さんの表情は、いつもとあまり変わらないように、正雄くんには見えました。苦しそうでもなく、むしろ、優しい時のお父さんの表情です。
「おとうさあーん」
お姉ちゃんが、大きな声で呼びかけました。
でも、お父さんの表情は変わりません。お母さんが、お姉ちゃんの肩を抱きしめ、正雄くんも一緒に抱きしめられました。
正雄くんは、お姉ちゃんと体がぴったりとひっついたので、お姉ちゃんが泣きじゃくっているのを初めて知りました。そして、お母さんも泣いていました。
その日の夜遅く、お父さんは息を引き取りました。
次の日の朝、正雄くんは、お父さんが会社に出かけるのを待って起きだしました。
いつもは、お父さんが会社に出かけるのと正雄くんが起きるのは、だいたい同じ時間なのです。ですから、朝お父さんと顔を合わさないこともよくあるのですが、この日は目を覚ましていたのですが、お父さんと顔を合わせるのがいやなので、ベッドの中でお父さんが出かけるのを待っていたのです。
部屋を出てお母さんに挨拶すると、お母さんは、少し寂しそうな笑顔で正雄くんに応えました。でも、図書カードのことは何も言わないで、「少し遅いわよ」と、いつものように、急ぐように言いました。
お姉ちゃんはすでに食卓に座っていましたが、正雄くんに、「おはよう」と、いつものように挨拶するだけで、昨日のことはもう怒っていないみたいでした。
**
その日のお昼休み時間のことです。
担任の山村先生が、校庭で遊んでいた正雄くんを呼びに来ました。お姉ちゃんと、お姉ちゃんの担任の先生も一緒でした。
「お父さんが病気なので、すぐ帰る準備をしなさい」
山村先生が、いつもと違う、少し震えているような声で言いました。
正雄くんは、「はい」と返事をしましたが、よく意味が分かりませんでした。お父さんは、昨日元気だったし、今朝も顔は合わせていませんが元気そうな声が聞こえていましたし、いつものように会社へ行ったはずです。
急に病気だなんて言われても、何のことだか分かりません。
二人は、山村先生に連れられて家に帰りました。
家には良子おばさんが来ていました。お母さんのお姉さんにあたる人です。
良子おばさんは山村先生と少し話していましたが、そのあと二人に、「すぐ病院に行くのよ」と言いました。いつもと違って、少し恐い顔で、命令するような言い方です。
病院は、電車を乗り継いで一時間近くかかる所です。お母さんは先に行っているとのことですが、お父さんの様子は良子おばさんにはよく分からないようでした。
良子おばさんがお母さんから電話で聞いた話では、お父さんは会議中に倒れて、救急車で病院に運ばれたようなのです。
その病院はとても大きな病院で、一階の受付のあたりには大勢の人がいました。
良子おばさんは、二度も三度も尋ねながら病室を探しました。ようやく分かったお父さんが治療を受けている大きな病室の近くの待合室に、お母さんがいました。会社の人らしい男の人も一緒でした。
お母さんは三人を見ると、「早かったわね」と微笑みかけましたが、その顔色は悪く、お母さんの方が病人みたいでした。
お母さんは会社の人に良子おばさんを紹介し、そのあと三人でしばらく話をしていましたが、やがて会社の人は帰って行きました。
お母さんは何度もお礼を言いながら会社の人を見送った後、三人をお父さんが入っている病室に連れて行きました。病室はガラスに覆われた大きな部屋で、いくつものベッドがあり、その中の一つにお父さんが寝ているようでした。お母さんがその場所を教えてくれましたが、正雄くんには本当にお父さんなのかどうかはよく分かりませんでした。
お母さんの話によれば、お父さんは普通に出勤した後、朝の十時過ぎから始まった会議の途中で気分が悪くなり、やがて意識を失い、救急車で病院に運ばれたそうです。
会社から自宅に連絡があり、お母さんはお隣と良子おばさんに連絡を取ったあと病院に駆けつけました。その時はまだ手術中で、手術が終わったあと病室に運ばれる時にお父さんと短い時間会ったそうですが、話をすることはできませんでした。
今は、お医者さんたちが付きっきりで懸命の治療をしてくれている最中なので、今日は面会が出来ないようです。
夕方になって、山下のおじさんと、田舎のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが来てくれました。山下のおじさんというのは良子おばさんの旦那さんで、田舎からきてくれたのはお父さんの両親です。
その日は、お母さんと良子おばさんが病院に残ることになりましたが、病院に泊まることはできませんので、近くのホテルに泊まることになりました。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんと正雄くんとお姉ちゃんは、山下のおじさんの車で家に帰りました。
その夜は、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが泊まってくれて、正雄くんもお姉ちゃんもお祖父ちゃんたちと同じ部屋で寝ました。
翌日も、みんなで病院へ行きました。正雄くんもお姉ちゃんも学校を休むことにしたのです。お隣のおばさんも来てくれて、学校への連絡などをしてくれました。
病院に着くと、お母さんが受付の所で待っていました。京都のお祖父ちゃんお祖母ちゃんも来ていました。お母さんの両親です。
お父さんは、小さな病室に移っていました。一人用の部屋なので、みんなで部屋に入ることが出来ました。
お父さんは、管のついたマスクのようなものをしていました。他にも何本も管がつけられていて、ベッドの横の大きな機械につながれていました。
しかし、マスクの間から見えるお父さんの表情は、いつもとあまり変わらないように、正雄くんには見えました。苦しそうでもなく、むしろ、優しい時のお父さんの表情です。
「おとうさあーん」
お姉ちゃんが、大きな声で呼びかけました。
でも、お父さんの表情は変わりません。お母さんが、お姉ちゃんの肩を抱きしめ、正雄くんも一緒に抱きしめられました。
正雄くんは、お姉ちゃんと体がぴったりとひっついたので、お姉ちゃんが泣きじゃくっているのを初めて知りました。そして、お母さんも泣いていました。
その日の夜遅く、お父さんは息を引き取りました。
( 3 - 1 )
お通夜からお葬式と、お父さんとのお別れはあわただしく行われました。
山下のおじさんが中心になって、みんなに指示をしてくれました。良子おばさんは、ずっとお母さんの横についてくれていました。近所の人たちや、お父さんの会社の人も手伝いに来てくれました。
お葬式の日には、正雄くんやお姉ちゃんのクラスの人たちが、先生と一緒にお参りしてくれました。
お母さんとお姉ちゃんは、ずっと泣いていました。田舎のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんや、京都のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんも泣いていました。近所の人たちや、会社の人たちも泣いていました。学校の友達や、先生も泣いていました。
山下のおじさんは泣いていませんでした。みんなを励まして、時々は厳しい口調で命令していました。
良子おばさんは、少しだけ泣いているみたいでしたが、ずっとお母さんを抱きかかえるようにしていました。正雄くんやお姉ちゃんにも、優しく声をかけ続けてくれていました。
正雄くんも、少し泣きました。でも、本当は、お父さんが死んでしまったということが、どういうことなのか、よく分かりませんでした。
死んだということは、分かっていました。死ぬということがどういうことなのか、テレビや漫画などで知っていましたから、もうこれからはお父さんと会えなくなるのだということも、分かっていました。
でも、お父さんが死んだのは、テレビでも漫画でもありません。お父さんがいなくなってしまうなど、どうしても信じられません。
これまでにもお父さんは、出張で何日も帰ってこないことがありました。それでも何日かすると、必ずお土産を持って帰ってきてくれました。
正雄くんがもっと小さい頃、かくれんぼうをするとお父さんは上手に隠れました。家の中でしていても、なかなか見つからないことがよくありました。お父さんがいなくなってしまったのではないかと、正雄くんがべそをかきそうになると、どこからか現れてくるのです。
お通夜やお葬式の間中、正雄くんは、お父さんがどこかから現れるのを、ずっと待っていたのです・・・。
やがて、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんたちも帰ってしまいました。
お父さんのいない家は、何だか、がらんとしています。お父さんは会社から帰るのが遅くなることもあったので、夕食は三人だけで食べることが多かったのですが、その時は何とも感じなかったのに、お父さんが死んでからの食事は、食卓が広すぎるのです。
夜は、これまでは、正雄くんもお姉ちゃんも自分たちの部屋のベッドで寝ていたのですが、お祖父ちゃんたちが帰って行ったあとからは、お父さんのお仏壇のある部屋で、三人一緒に寝ることにしました。
良子おばさんは、一日おきぐらいに来てくれて、たまには食事を一緒にすることもありました。
長い間休んだあと、学校へ行くことになりました。
友達や先生が、いろいろと優しく声をかけてくれました。しかし正雄くんは、前とは違うみんなの優しさが、すごく嫌でした。お父さんが死んだから優しくしてくれているのだと思うと、すごく嫌で、みんなが憎らしく思うこともありました。
「優しくなんか、してほしくないんだ!」と、正雄くんは、時々心の中で叫びました。だって、正雄くんは、お父さんが帰ってくるのを待ち続けていたからです。
どうしてもお父さんには帰ってきてもらわなくては困るんだ、と正雄くんは思い続けていました。そして、お父さんに謝らなくてはならないと思っていたのです。
図書カードのことでわがままを言ったので、お父さんは怒って、どこかへ行ってしまったのだと正雄くんは考えていました。もう何日も経っているのに帰ってこないのは、お父さんがまだ怒っているからだと思うと、正雄くんは、とても悲しくなるのです。
お通夜からお葬式と、お父さんとのお別れはあわただしく行われました。
山下のおじさんが中心になって、みんなに指示をしてくれました。良子おばさんは、ずっとお母さんの横についてくれていました。近所の人たちや、お父さんの会社の人も手伝いに来てくれました。
お葬式の日には、正雄くんやお姉ちゃんのクラスの人たちが、先生と一緒にお参りしてくれました。
お母さんとお姉ちゃんは、ずっと泣いていました。田舎のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんや、京都のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんも泣いていました。近所の人たちや、会社の人たちも泣いていました。学校の友達や、先生も泣いていました。
山下のおじさんは泣いていませんでした。みんなを励まして、時々は厳しい口調で命令していました。
良子おばさんは、少しだけ泣いているみたいでしたが、ずっとお母さんを抱きかかえるようにしていました。正雄くんやお姉ちゃんにも、優しく声をかけ続けてくれていました。
正雄くんも、少し泣きました。でも、本当は、お父さんが死んでしまったということが、どういうことなのか、よく分かりませんでした。
死んだということは、分かっていました。死ぬということがどういうことなのか、テレビや漫画などで知っていましたから、もうこれからはお父さんと会えなくなるのだということも、分かっていました。
でも、お父さんが死んだのは、テレビでも漫画でもありません。お父さんがいなくなってしまうなど、どうしても信じられません。
これまでにもお父さんは、出張で何日も帰ってこないことがありました。それでも何日かすると、必ずお土産を持って帰ってきてくれました。
正雄くんがもっと小さい頃、かくれんぼうをするとお父さんは上手に隠れました。家の中でしていても、なかなか見つからないことがよくありました。お父さんがいなくなってしまったのではないかと、正雄くんがべそをかきそうになると、どこからか現れてくるのです。
お通夜やお葬式の間中、正雄くんは、お父さんがどこかから現れるのを、ずっと待っていたのです・・・。
やがて、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんたちも帰ってしまいました。
お父さんのいない家は、何だか、がらんとしています。お父さんは会社から帰るのが遅くなることもあったので、夕食は三人だけで食べることが多かったのですが、その時は何とも感じなかったのに、お父さんが死んでからの食事は、食卓が広すぎるのです。
夜は、これまでは、正雄くんもお姉ちゃんも自分たちの部屋のベッドで寝ていたのですが、お祖父ちゃんたちが帰って行ったあとからは、お父さんのお仏壇のある部屋で、三人一緒に寝ることにしました。
良子おばさんは、一日おきぐらいに来てくれて、たまには食事を一緒にすることもありました。
長い間休んだあと、学校へ行くことになりました。
友達や先生が、いろいろと優しく声をかけてくれました。しかし正雄くんは、前とは違うみんなの優しさが、すごく嫌でした。お父さんが死んだから優しくしてくれているのだと思うと、すごく嫌で、みんなが憎らしく思うこともありました。
「優しくなんか、してほしくないんだ!」と、正雄くんは、時々心の中で叫びました。だって、正雄くんは、お父さんが帰ってくるのを待ち続けていたからです。
どうしてもお父さんには帰ってきてもらわなくては困るんだ、と正雄くんは思い続けていました。そして、お父さんに謝らなくてはならないと思っていたのです。
図書カードのことでわがままを言ったので、お父さんは怒って、どこかへ行ってしまったのだと正雄くんは考えていました。もう何日も経っているのに帰ってこないのは、お父さんがまだ怒っているからだと思うと、正雄くんは、とても悲しくなるのです。
( 3 - 2 )
正雄くんがお父さんを待ち続ける日が、何日も続きました。
学校は休まず行きましたが、友達と遊ぶことは少なくなりました。宿題を時々忘れるようになりましたが、先生はきつくは叱りません。
少し前から、正雄くんもお姉ちゃんも自分たちの部屋で寝るようになりました。お母さんだけがお仏壇のある部屋で寝ているのですが、お姉ちゃんは、時々お母さんの横で寝ているようでした。
しかし正雄くんは、一人で自分のベッドで寝る方がいいのです。布団の中にもぐりこんで、お父さんに謝ることが出来るからです。
「ごめんなさい、ごめんなさい」と、声に出して謝るのです。いつか、きっとお父さんは許してくれて、優しい笑顔で姿を現してくれると、正雄くんは信じていたのです。
やがて、年が変わりました。
クリスマスもお正月も、お父さんがいないと寂しいだけです。お年玉をいつものようにたくさんもらいましたが、正雄くんには買いたいものがありません。テレビゲームはお父さんが亡くなってからはあまりしないし、おもしろくなくなってしまったのです。
一月の中頃から、お母さんが勤め始めました。
朝は、正雄くんたちが学校へ行く時にはまだお母さんは家にいますが、夕方は四時半頃になります。正雄くんもお姉ちゃんも、家の鍵を持つようになりました。
お父さんが亡くなったあと、お母さんは泣いてばかりでしたが、クリスマスの頃から突然元気になりました。正雄くんにも、お父さんがいた頃よりもっと大きな声で叱るようになりました。お風呂の掃除が正雄くんの仕事だと決められたのも、その頃からです。
「お父さんがいなくなったのだから、みんなで家のことをしていかなくてはならないのよ」
と、お母さんが決めたのです。お父さんがお風呂の掃除をしているのを見たことがなかったので、正雄くんは不満でしたが、なぜだか引き受けてしまいました。
正雄くんがベッドの中でお父さんに謝ることも、少しずつ減っていきました。
お父さんはまだ怒っているのだと初めのうちは思っていたのですが、そうではないのかもしれないと少しずつ思うようになりました。
死んでしまうということが、かくれんぼうや出張とは違うのだということに、正雄くんは気付きはじめていました。
いくら正雄くんが悪かったとしても、お父さんがこんなに長い間許してくれなかったことはなかったし、こんなに長い間帰ってこないのはおかしいと思い始めたのです。
もしかすると、お母さんやお姉ちゃんが言うように、お父さんは遠い遠い所へ行ってしまったのかもしれないと思うこともありました。
正雄くんの心の中で、少しずつですが変化が起きていました。
それは、お父さんはもう怒っていないかもしれないと、少しだけ思えるようになったことですが、それと同時に、お父さんはもう帰ってこないのかもしれないという思いが、どんどん膨らんでいきました。
そして、その原因は自分のわがままのためだ、という思いは大きくなるばかりでした。
その考えは、お父さんが倒れたということを聞いた時から正雄くんの心の中にあったものでした。
正雄くんはそのことがつらくて、何とか消そうと思っていました。お父さんに謝ることで、そのつらさを消すことが出来ると考えていました。お父さんが帰ってきてくれさえすれば、いくら叱られても絶対に許してもらえると思い、帰りを待ち続けていたのです。
しかし、お父さんは帰ってきてくれないのです。
正雄くんがお父さんを待ち続ける日が、何日も続きました。
学校は休まず行きましたが、友達と遊ぶことは少なくなりました。宿題を時々忘れるようになりましたが、先生はきつくは叱りません。
少し前から、正雄くんもお姉ちゃんも自分たちの部屋で寝るようになりました。お母さんだけがお仏壇のある部屋で寝ているのですが、お姉ちゃんは、時々お母さんの横で寝ているようでした。
しかし正雄くんは、一人で自分のベッドで寝る方がいいのです。布団の中にもぐりこんで、お父さんに謝ることが出来るからです。
「ごめんなさい、ごめんなさい」と、声に出して謝るのです。いつか、きっとお父さんは許してくれて、優しい笑顔で姿を現してくれると、正雄くんは信じていたのです。
やがて、年が変わりました。
クリスマスもお正月も、お父さんがいないと寂しいだけです。お年玉をいつものようにたくさんもらいましたが、正雄くんには買いたいものがありません。テレビゲームはお父さんが亡くなってからはあまりしないし、おもしろくなくなってしまったのです。
一月の中頃から、お母さんが勤め始めました。
朝は、正雄くんたちが学校へ行く時にはまだお母さんは家にいますが、夕方は四時半頃になります。正雄くんもお姉ちゃんも、家の鍵を持つようになりました。
お父さんが亡くなったあと、お母さんは泣いてばかりでしたが、クリスマスの頃から突然元気になりました。正雄くんにも、お父さんがいた頃よりもっと大きな声で叱るようになりました。お風呂の掃除が正雄くんの仕事だと決められたのも、その頃からです。
「お父さんがいなくなったのだから、みんなで家のことをしていかなくてはならないのよ」
と、お母さんが決めたのです。お父さんがお風呂の掃除をしているのを見たことがなかったので、正雄くんは不満でしたが、なぜだか引き受けてしまいました。
正雄くんがベッドの中でお父さんに謝ることも、少しずつ減っていきました。
お父さんはまだ怒っているのだと初めのうちは思っていたのですが、そうではないのかもしれないと少しずつ思うようになりました。
死んでしまうということが、かくれんぼうや出張とは違うのだということに、正雄くんは気付きはじめていました。
いくら正雄くんが悪かったとしても、お父さんがこんなに長い間許してくれなかったことはなかったし、こんなに長い間帰ってこないのはおかしいと思い始めたのです。
もしかすると、お母さんやお姉ちゃんが言うように、お父さんは遠い遠い所へ行ってしまったのかもしれないと思うこともありました。
正雄くんの心の中で、少しずつですが変化が起きていました。
それは、お父さんはもう怒っていないかもしれないと、少しだけ思えるようになったことですが、それと同時に、お父さんはもう帰ってこないのかもしれないという思いが、どんどん膨らんでいきました。
そして、その原因は自分のわがままのためだ、という思いは大きくなるばかりでした。
その考えは、お父さんが倒れたということを聞いた時から正雄くんの心の中にあったものでした。
正雄くんはそのことがつらくて、何とか消そうと思っていました。お父さんに謝ることで、そのつらさを消すことが出来ると考えていました。お父さんが帰ってきてくれさえすれば、いくら叱られても絶対に許してもらえると思い、帰りを待ち続けていたのです。
しかし、お父さんは帰ってきてくれないのです。
( 4 - 1 )
道子さんは、弟の正雄くんのことが心配でした。
お父さんが亡くなったことを、なかなか納得することが出来なかった道子さんですが、泣いて泣いて泣き疲れた時、良子おばさんの言葉を思いだしました。
「道子ちゃん、これからは、あなたがお母さんの力になってあげるのよ・・・」と、良子おばさんは道子さんの肩を抱いて言ったのです。
良子おばさんは、お母さんのお姉さんです。お父さんがいなくなれば、お母さんが一番頼りにするのは良子おばさんです。
「あたしなんかが、お母さんを助けられるはずがないわ」と、その時は思いました。
第一、こんなに悲しい自分こそ、お母さんに助けてもらいたいのだ、と道子さんは思っていたのです。
しかし、七日ごとのお参りがあり、その最後にあたる四十九日の法要が終わると、お母さんの一番近くにいることが出来るのは自分だと、道子さんは気づきました。良子おばさんだけでなく、近所の人やお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも助けてくれますが、いつもお母さんのそばにいることが出来るのは自分だと、道子さんは思うようになったのです。
お父さんが亡くなってからしばらくの間は、道子さんは泣いてばかりでした。お母さんも同じように泣いてばかりでした。道子さんのように声を出して泣くようなことはあまりありませんでしたが、本当は、お母さんの方がたくさん泣いていたことを道子さんは知っています。
その頃の正雄くんは、時々は泣いていましたが、大きな声で泣くようなことはあまりなく、小さくても男の子は強いのかな、と道子さんは思っていたのです。
しかし、お母さんや道子さんが少しずつ元気を取り戻してきているのに比べて、正雄くんは、少しも元気を取り戻すことが出来ず、反対に、ますます元気を失っているように感じられるのです。道子さんには、それが心配でした。
正雄くんがおかしいと、道子さんがはっきりと感じたのは、お正月が終わり三学期が近付いた日のことでした。
冬休みの宿題はそれほど多くないので、道子さんはとっくに終わっていましたが、正雄くんはほとんどしていませんでした。正雄くんが夏休みや冬休みの宿題をぎりぎりまでしないのはいつものことなので、道子さんは別に驚きもせず手助けをしたのです。
ところが、全部終わっているか確認していた時、すでに描きあげていた正雄くんの絵を見て道子さんはびっくりしました。
「マーくん、この絵、なに?」
「うまく描けなかったんだ・・・」
道子さんの大きな声に驚いた正雄くんは、恥ずかしそうに、広げた絵を隠そうとしました。
道子さんは、はじめは、正雄くんがふざけて描いた絵なのだと思いました。しかし、正雄くんの悲しそうな顔を見ていると、そうではないことが分かりました。
この前展覧会で入賞したからというのではなく、もっと前から正雄くんの絵はすばらしいと道子さんは思っていました。幼稚園の頃から、画用紙からはみ出すようにのびのびとした絵を描き、何よりも色の使い方がすばらしく、大胆に多くの色を使うのです。
しかし、正雄くんが隠そうとした絵をむりやり広げてみると、画用紙の真ん中の半分くらいに、弱々しい絵が描かれているのです。おそらく、近くにあるお城のお濠を描いたのだと思われる絵です。石垣と、その上いちめんに茂っている樹木と、お濠の水が描かれていて、端っこの方に水鳥が二羽います。
首が長いので白鳥だと思うのですが、いかにも小さく、それも白というより黒に近いような灰色なのです。水の色も、水鳥より少しだけ明るい灰色、樹木は黒みがかった緑が単調にぬられているだけなのです。
石垣の感じや樹木などはうまく描けていると思うのですが、黒っぽい水鳥はなんだか悲しげで、絵全体が肩をすぼめているように道子さんには見えました。
「画用紙を飛び出してくるような色づかいでなくちゃあ、マーくんの絵じゃない・・・」と、道子さんはとても悲しい気持ちになりました。
「あと一日あるから、もっと元気なのにした方がいいわ・・・」
道子さんは、やっとそれだけ言って絵を正雄くんに返しました。これ以上話すと自分が泣きだすかも知れないと、道子さんは思ったのです。
道子さんは、弟の正雄くんのことが心配でした。
お父さんが亡くなったことを、なかなか納得することが出来なかった道子さんですが、泣いて泣いて泣き疲れた時、良子おばさんの言葉を思いだしました。
「道子ちゃん、これからは、あなたがお母さんの力になってあげるのよ・・・」と、良子おばさんは道子さんの肩を抱いて言ったのです。
良子おばさんは、お母さんのお姉さんです。お父さんがいなくなれば、お母さんが一番頼りにするのは良子おばさんです。
「あたしなんかが、お母さんを助けられるはずがないわ」と、その時は思いました。
第一、こんなに悲しい自分こそ、お母さんに助けてもらいたいのだ、と道子さんは思っていたのです。
しかし、七日ごとのお参りがあり、その最後にあたる四十九日の法要が終わると、お母さんの一番近くにいることが出来るのは自分だと、道子さんは気づきました。良子おばさんだけでなく、近所の人やお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも助けてくれますが、いつもお母さんのそばにいることが出来るのは自分だと、道子さんは思うようになったのです。
お父さんが亡くなってからしばらくの間は、道子さんは泣いてばかりでした。お母さんも同じように泣いてばかりでした。道子さんのように声を出して泣くようなことはあまりありませんでしたが、本当は、お母さんの方がたくさん泣いていたことを道子さんは知っています。
その頃の正雄くんは、時々は泣いていましたが、大きな声で泣くようなことはあまりなく、小さくても男の子は強いのかな、と道子さんは思っていたのです。
しかし、お母さんや道子さんが少しずつ元気を取り戻してきているのに比べて、正雄くんは、少しも元気を取り戻すことが出来ず、反対に、ますます元気を失っているように感じられるのです。道子さんには、それが心配でした。
正雄くんがおかしいと、道子さんがはっきりと感じたのは、お正月が終わり三学期が近付いた日のことでした。
冬休みの宿題はそれほど多くないので、道子さんはとっくに終わっていましたが、正雄くんはほとんどしていませんでした。正雄くんが夏休みや冬休みの宿題をぎりぎりまでしないのはいつものことなので、道子さんは別に驚きもせず手助けをしたのです。
ところが、全部終わっているか確認していた時、すでに描きあげていた正雄くんの絵を見て道子さんはびっくりしました。
「マーくん、この絵、なに?」
「うまく描けなかったんだ・・・」
道子さんの大きな声に驚いた正雄くんは、恥ずかしそうに、広げた絵を隠そうとしました。
道子さんは、はじめは、正雄くんがふざけて描いた絵なのだと思いました。しかし、正雄くんの悲しそうな顔を見ていると、そうではないことが分かりました。
この前展覧会で入賞したからというのではなく、もっと前から正雄くんの絵はすばらしいと道子さんは思っていました。幼稚園の頃から、画用紙からはみ出すようにのびのびとした絵を描き、何よりも色の使い方がすばらしく、大胆に多くの色を使うのです。
しかし、正雄くんが隠そうとした絵をむりやり広げてみると、画用紙の真ん中の半分くらいに、弱々しい絵が描かれているのです。おそらく、近くにあるお城のお濠を描いたのだと思われる絵です。石垣と、その上いちめんに茂っている樹木と、お濠の水が描かれていて、端っこの方に水鳥が二羽います。
首が長いので白鳥だと思うのですが、いかにも小さく、それも白というより黒に近いような灰色なのです。水の色も、水鳥より少しだけ明るい灰色、樹木は黒みがかった緑が単調にぬられているだけなのです。
石垣の感じや樹木などはうまく描けていると思うのですが、黒っぽい水鳥はなんだか悲しげで、絵全体が肩をすぼめているように道子さんには見えました。
「画用紙を飛び出してくるような色づかいでなくちゃあ、マーくんの絵じゃない・・・」と、道子さんはとても悲しい気持ちになりました。
「あと一日あるから、もっと元気なのにした方がいいわ・・・」
道子さんは、やっとそれだけ言って絵を正雄くんに返しました。これ以上話すと自分が泣きだすかも知れないと、道子さんは思ったのです。
( 4 - 2 )
このことをお母さんに話した方がいいのかどうか、道子さんは一人悩んでいました。
間もなく、お母さんが働きに行くことを道子さんは知っていました。そのことは正雄くんも知っていることですが、お父さんが亡くなったためにお母さんが働かなくてはならないことを、道子さんは深刻に考えていました。
山下のおじさんなどは、もう少し落ち着いてからでいいのではないかと言ってくれましたが、お母さんの希望で勤めに行くことが決まったのです。山下のおじさんの知り合いの会社なので、普通の人より少し短い時間働くことで了解が得られたからです。
お母さんはお父さんの代わりに働きに行くのですから、自分は少しでもお母さんの代わりをしなければいけないと、道子さんは考えていました。ですから、正雄くんのことは、お母さんに心配をかけないようにして、自分が相談にのってやろうと決心したのですが、やはり少しつらい気もするのです。
お母さんが働き始めてからは、道子さんは出来るだけ早く家に帰るようにしました。
学校は正雄くんが早く終わることの方が多いのですが、正雄くんが校庭で遊んでいて、帰る時間を遅らせていることを知ったからです。友達と遊んでいることもありますが、一人で遊んでいることの方が多いのです。きっと、誰もいない家に最初に入るのがいやなのです。
道子さんは、勉強塾とピアノ教室に通っていましたが、勉強塾をやめることにしました。
お母さんは反対しましたが、正雄くんが一人になる時間が長くなるのが心配だったので、勉強塾は中学校になってから行くということにしました。本当はピアノ教室もやめるつもりでしたが、練習に行くのが土曜日の夕方なのと、お母さんが涙を流して反対するので続けることにしたのです。
そして道子さんは、おやつを準備するのを自分の仕事にしました。正雄くんと自分の分だけではなく、お母さんの分も準備するようにしました。土曜日か日曜日のどちらかにお母さんは必ず買い物に行くのですが、道子さんも一緒に行くことにして、おやつを買うことにしたのです。足らない分は、間の日にお母さんが帰ってきたあと、正雄くんと一緒に近くのスーパーへ行くこともありました。
しかし、道子さんが心配したり、優しくしたりしているつもりなのに、正雄くんは元気を取り戻すことが出来ません。
お母さんがいる時などはあまり変わらないのですが、道子さんと二人の時は前とは違うのです。テレビゲームをあまりしないし、テレビを見る時も、道子さんとチャンネルの取り合いをしなくなったのです。
お母さんも正雄くんの変化に気づいているのか、強く叱るようなことが少なくなりました。それに、正雄くんは、叱られるようなこともあまりしなくなっているのです。
道子さんは、お母さんと正雄くんのことについて相談しました。いろいろ話し合った後、お母さんは言いました。
「まだまだ、時間が足らないのよ。お父さんが亡くなったことや、亡くなったお父さんがわたしたちと一緒にいるということが分かるようになるのには、もっともっと時間が必要なのよ、きっと・・・」
それは、正雄くんのことだけでなく、自分に対しても言っているのだと道子さんは感じました。そして、もっともっと時間が必要なのは、きっとお母さんなのだと思うと道子さんはとても悲しくなりました。
道子さんは、正雄くんのことをお母さんと長い時間話し合いましたが、絵のことについては、どうしても話すことが出来ませんでした。絵のことを話すのが、正雄くんをひどく傷つけることのように思われたからです。
しかし、正雄くんの絵の変化に気づいている人が、もう一人いました。正雄くんの担任の山村先生です。
三学期が終わる前の保護者会の時、山村先生がお母さんに正雄くんの絵の変化について話してくれたのです。
正雄くんが学校で描いた何枚かの絵は、どれも弱々しいものでした。一つ一つの描写は丁寧なのですが、全体に小さく、特に色づかいが以前の正雄くんのものとは全然違うものでした。暗い青や緑が多く、赤や黄色がほとんど使われていません。それに、使われている色の数が極端に少ないのです。
山村先生とお母さんは、正雄くんのことについて相談し合いましたが、しばらくはそっと見守っていこうということになりました。正雄くんは四月から四年生になりますが、クラス替えはなく、山村先生が担任のままなのです。
お母さんは、女性で年齢も近い山村先生を大変信頼していましたので、クラス替えがないことはうれしいことでした。
道子さんは、この話をお母さんから聞きました。
「道子も悲しいでしょうが、正雄のこと頼むね。あの子は男の子だから、きっと、わたしたちとは違う悲しさを感じているのよ・・・」
と、二階の自分の部屋にいる正雄くんに聞こえないように、お母さんは道子さんの肩を抱くようにして小さな声で言いました。
そして、お父さんの仏壇の前で、二人は泣いてしまいました。
お母さんが言うように、お葬式の時あまり泣かなかった正雄くんが、お父さんと別れるのを一番悲しんでいたのだ、と道子さんは思いました。
このことをお母さんに話した方がいいのかどうか、道子さんは一人悩んでいました。
間もなく、お母さんが働きに行くことを道子さんは知っていました。そのことは正雄くんも知っていることですが、お父さんが亡くなったためにお母さんが働かなくてはならないことを、道子さんは深刻に考えていました。
山下のおじさんなどは、もう少し落ち着いてからでいいのではないかと言ってくれましたが、お母さんの希望で勤めに行くことが決まったのです。山下のおじさんの知り合いの会社なので、普通の人より少し短い時間働くことで了解が得られたからです。
お母さんはお父さんの代わりに働きに行くのですから、自分は少しでもお母さんの代わりをしなければいけないと、道子さんは考えていました。ですから、正雄くんのことは、お母さんに心配をかけないようにして、自分が相談にのってやろうと決心したのですが、やはり少しつらい気もするのです。
お母さんが働き始めてからは、道子さんは出来るだけ早く家に帰るようにしました。
学校は正雄くんが早く終わることの方が多いのですが、正雄くんが校庭で遊んでいて、帰る時間を遅らせていることを知ったからです。友達と遊んでいることもありますが、一人で遊んでいることの方が多いのです。きっと、誰もいない家に最初に入るのがいやなのです。
道子さんは、勉強塾とピアノ教室に通っていましたが、勉強塾をやめることにしました。
お母さんは反対しましたが、正雄くんが一人になる時間が長くなるのが心配だったので、勉強塾は中学校になってから行くということにしました。本当はピアノ教室もやめるつもりでしたが、練習に行くのが土曜日の夕方なのと、お母さんが涙を流して反対するので続けることにしたのです。
そして道子さんは、おやつを準備するのを自分の仕事にしました。正雄くんと自分の分だけではなく、お母さんの分も準備するようにしました。土曜日か日曜日のどちらかにお母さんは必ず買い物に行くのですが、道子さんも一緒に行くことにして、おやつを買うことにしたのです。足らない分は、間の日にお母さんが帰ってきたあと、正雄くんと一緒に近くのスーパーへ行くこともありました。
しかし、道子さんが心配したり、優しくしたりしているつもりなのに、正雄くんは元気を取り戻すことが出来ません。
お母さんがいる時などはあまり変わらないのですが、道子さんと二人の時は前とは違うのです。テレビゲームをあまりしないし、テレビを見る時も、道子さんとチャンネルの取り合いをしなくなったのです。
お母さんも正雄くんの変化に気づいているのか、強く叱るようなことが少なくなりました。それに、正雄くんは、叱られるようなこともあまりしなくなっているのです。
道子さんは、お母さんと正雄くんのことについて相談しました。いろいろ話し合った後、お母さんは言いました。
「まだまだ、時間が足らないのよ。お父さんが亡くなったことや、亡くなったお父さんがわたしたちと一緒にいるということが分かるようになるのには、もっともっと時間が必要なのよ、きっと・・・」
それは、正雄くんのことだけでなく、自分に対しても言っているのだと道子さんは感じました。そして、もっともっと時間が必要なのは、きっとお母さんなのだと思うと道子さんはとても悲しくなりました。
道子さんは、正雄くんのことをお母さんと長い時間話し合いましたが、絵のことについては、どうしても話すことが出来ませんでした。絵のことを話すのが、正雄くんをひどく傷つけることのように思われたからです。
しかし、正雄くんの絵の変化に気づいている人が、もう一人いました。正雄くんの担任の山村先生です。
三学期が終わる前の保護者会の時、山村先生がお母さんに正雄くんの絵の変化について話してくれたのです。
正雄くんが学校で描いた何枚かの絵は、どれも弱々しいものでした。一つ一つの描写は丁寧なのですが、全体に小さく、特に色づかいが以前の正雄くんのものとは全然違うものでした。暗い青や緑が多く、赤や黄色がほとんど使われていません。それに、使われている色の数が極端に少ないのです。
山村先生とお母さんは、正雄くんのことについて相談し合いましたが、しばらくはそっと見守っていこうということになりました。正雄くんは四月から四年生になりますが、クラス替えはなく、山村先生が担任のままなのです。
お母さんは、女性で年齢も近い山村先生を大変信頼していましたので、クラス替えがないことはうれしいことでした。
道子さんは、この話をお母さんから聞きました。
「道子も悲しいでしょうが、正雄のこと頼むね。あの子は男の子だから、きっと、わたしたちとは違う悲しさを感じているのよ・・・」
と、二階の自分の部屋にいる正雄くんに聞こえないように、お母さんは道子さんの肩を抱くようにして小さな声で言いました。
そして、お父さんの仏壇の前で、二人は泣いてしまいました。
お母さんが言うように、お葬式の時あまり泣かなかった正雄くんが、お父さんと別れるのを一番悲しんでいたのだ、と道子さんは思いました。
( 5 - 1 )
正雄くんは、夜中に目を覚ましました。
何か夢を見ていたらしいのですが、どんな夢だったのか分かりません。ただ、夜中なのに目がぱっちりとしているのです。
最初は朝だと思ったのですが、目覚まし時計は十二時を少し過ぎているだけです。それに、春休みなので学校に遅れる心配もありません。
正雄くんは、ベッドからおりて部屋を出ました。トイレへ行こうと思ったからです。
正雄くんの部屋もお姉ちゃんの部屋も二階にありますが、トイレは一階なので、足音を忍ばせるようにして階段を下りました。みんなを起こしてはいけないと思ったからです。
トイレを出て、部屋に戻ろうと階段に足をかけた時、話し声のようなものが聞こえました。お仏壇のある部屋の方からでした。その部屋は日本間で、お母さんが寝ているのです。
正雄くんは足音を忍ばせて、その部屋に近づきました。柱とふすまの間から明かりがもれています。正雄くんは目を隙間につけるようにして中をのぞきました。
お仏壇が半分見えました。その前にお母さんがうずくまるようにして座っています。肩や背中が揺れています。とぎれとぎれに声が聞こえます。
「お母さんが泣いている・・・」
正雄くんはふすまを開けようと手をかけましたが、思いとどまりました。なんだか、お母さんの秘密を見てしまったような気がしたからです。
正雄くんは、そっと離れました。下りる時よりももっと慎重に足音を忍ばせて階段を上りました。自分の部屋に入ろうとしましたが、何だかこのまま眠れそうもない気がして、このことをお姉ちゃんに話そうと思いました。
お姉ちゃんの部屋のドアを、そっとノックしました。返事はありません。こんな時間だから寝ているのは当たり前だと思いました。それに、強くノックをするとお母さんに聞こえてしまうので、小さくしか出来ません。
勝手に中に入ってお姉ちゃんを起こすか、話すのは朝にしようかと迷っていると、突然ドアが開きました。
「マーくん・・・。どうしたの?」
眠そうな顔のお姉ちゃんが立っていました。
「お母さん、泣いているよ」
正雄くんが助けを求めるように、お姉ちゃんにささやきました。
お姉ちゃんは、階段の方をうかがうように見てから、正雄くんの手をひっぱりました。部屋のドアを静かに閉めてから、電灯を明るくしました。
「どうしたの、こんな時間に・・・」
「うん。おしっこに行ったら、お母さんの部屋から声が聞こえたんだ。そっと、のぞいたら、お母さん、泣いていたんだ・・・」
「お仏壇の前で、でしょう?」
「うん・・・。でも、どうして知ってるの?」
「あたしも、前に見たのよ。お母さんが、お仏壇の前で泣いてるのを・・・」
道子さんは、正雄くんを座らせました。そして、肩を寄せあうようにして自分も座りました。床にはカーペットが敷かれているので、冷たくはありません。
「ねえ、マーくん。お母さんは、悲しいのよ。お昼の間は、お仕事もあるし、あたしたちがいるから元気にしているのよ。でもね、夜になると、お父さんのことを思いだすのよ。そして、悲しくなって泣いているのよ」
「ふうーん・・・」
「ねえ、マーくん。マーくんも悲しいのでしょうけれど、元気出さないとだめよ。だって、一番悲しいのはお母さんよ、きっと・・・」
「ぼくが・・・、ぼくが悪いんだ・・・」
「えっ?」
「ぼくが悪いんだよ。ぼくがお父さんを死なせてしまったんだ・・・」
「ええっ? 何を言ってるの、マーくんが悪いことなど、何もないよ」
「ううん、ぼくのせいなんだ、お父さんが死んじゃったのは・・・。ぼくがお父さんを怒らせたから・・・、ぼくがわがままを言ったから、お父さんは死んじゃったんだ・・・。ぼくが、お母さんや、お姉ちゃんを悲しくさせてしまったんだ・・・」
正雄くんは泣きじゃくりながら、ずっと心に秘めていたことをしゃべり続けました。
道子さんは返答に困り、正雄くんの顔を見ながら激しく首を横に振りました。道子さんの頬にも、涙が流れていました。
正雄くんは、夜中に目を覚ましました。
何か夢を見ていたらしいのですが、どんな夢だったのか分かりません。ただ、夜中なのに目がぱっちりとしているのです。
最初は朝だと思ったのですが、目覚まし時計は十二時を少し過ぎているだけです。それに、春休みなので学校に遅れる心配もありません。
正雄くんは、ベッドからおりて部屋を出ました。トイレへ行こうと思ったからです。
正雄くんの部屋もお姉ちゃんの部屋も二階にありますが、トイレは一階なので、足音を忍ばせるようにして階段を下りました。みんなを起こしてはいけないと思ったからです。
トイレを出て、部屋に戻ろうと階段に足をかけた時、話し声のようなものが聞こえました。お仏壇のある部屋の方からでした。その部屋は日本間で、お母さんが寝ているのです。
正雄くんは足音を忍ばせて、その部屋に近づきました。柱とふすまの間から明かりがもれています。正雄くんは目を隙間につけるようにして中をのぞきました。
お仏壇が半分見えました。その前にお母さんがうずくまるようにして座っています。肩や背中が揺れています。とぎれとぎれに声が聞こえます。
「お母さんが泣いている・・・」
正雄くんはふすまを開けようと手をかけましたが、思いとどまりました。なんだか、お母さんの秘密を見てしまったような気がしたからです。
正雄くんは、そっと離れました。下りる時よりももっと慎重に足音を忍ばせて階段を上りました。自分の部屋に入ろうとしましたが、何だかこのまま眠れそうもない気がして、このことをお姉ちゃんに話そうと思いました。
お姉ちゃんの部屋のドアを、そっとノックしました。返事はありません。こんな時間だから寝ているのは当たり前だと思いました。それに、強くノックをするとお母さんに聞こえてしまうので、小さくしか出来ません。
勝手に中に入ってお姉ちゃんを起こすか、話すのは朝にしようかと迷っていると、突然ドアが開きました。
「マーくん・・・。どうしたの?」
眠そうな顔のお姉ちゃんが立っていました。
「お母さん、泣いているよ」
正雄くんが助けを求めるように、お姉ちゃんにささやきました。
お姉ちゃんは、階段の方をうかがうように見てから、正雄くんの手をひっぱりました。部屋のドアを静かに閉めてから、電灯を明るくしました。
「どうしたの、こんな時間に・・・」
「うん。おしっこに行ったら、お母さんの部屋から声が聞こえたんだ。そっと、のぞいたら、お母さん、泣いていたんだ・・・」
「お仏壇の前で、でしょう?」
「うん・・・。でも、どうして知ってるの?」
「あたしも、前に見たのよ。お母さんが、お仏壇の前で泣いてるのを・・・」
道子さんは、正雄くんを座らせました。そして、肩を寄せあうようにして自分も座りました。床にはカーペットが敷かれているので、冷たくはありません。
「ねえ、マーくん。お母さんは、悲しいのよ。お昼の間は、お仕事もあるし、あたしたちがいるから元気にしているのよ。でもね、夜になると、お父さんのことを思いだすのよ。そして、悲しくなって泣いているのよ」
「ふうーん・・・」
「ねえ、マーくん。マーくんも悲しいのでしょうけれど、元気出さないとだめよ。だって、一番悲しいのはお母さんよ、きっと・・・」
「ぼくが・・・、ぼくが悪いんだ・・・」
「えっ?」
「ぼくが悪いんだよ。ぼくがお父さんを死なせてしまったんだ・・・」
「ええっ? 何を言ってるの、マーくんが悪いことなど、何もないよ」
「ううん、ぼくのせいなんだ、お父さんが死んじゃったのは・・・。ぼくがお父さんを怒らせたから・・・、ぼくがわがままを言ったから、お父さんは死んじゃったんだ・・・。ぼくが、お母さんや、お姉ちゃんを悲しくさせてしまったんだ・・・」
正雄くんは泣きじゃくりながら、ずっと心に秘めていたことをしゃべり続けました。
道子さんは返答に困り、正雄くんの顔を見ながら激しく首を横に振りました。道子さんの頬にも、涙が流れていました。
( 5 - 2 )
「入りますよ」
声とともに、お母さんがドアを開けました。
「どうしたの、こんなに遅くまで、二人とも・・・」
お母さんは、二人の顔を交互に見ると、自分も床に座りました。
「マーくんが・・・、マーくんが、自分のせいでお父さんが死んだって言うの・・・」
それだけ言うと、道子さんはお母さんの胸に顔をうずめて声を出して泣きだしてしまいました。
お母さんは、道子さんの背中を優しく撫でていました。
「どうしたの、マーくん。なんで、そんなことを思ったの?」
道子さんの泣き方があまりに激しいので、少し圧倒されながら正雄くんはお母さんに答えました。
「ぼくが、お父さんを怒らせたから・・・。ね、ぼくがわがまま言ったから・・・。だから、お父さんは死んでしまったんだ・・・」
お母さんは、正雄くんを抱き寄せました。片手で道子さんの背中を撫で、片手で正雄くんの肩を抱いていました。
正雄くんは、「ぼくが悪いんだ」と何度も繰り返し、道子さんは激しく泣きじゃくっていました。
そのままの時間がしばらく続きました。
道子さんが少し落ち着いた頃、お母さんは二人を離しました。
「マーくん。ねぇ、マーくん、よく聞いて。お父さんが亡くなったのは、マーくんのせいではないのよ。誰のせいでもないのよ。ねえ、分かるでしょう、あの優しいお父さんが、正雄のわがままぐらいで本気で怒ったりしないわ。正雄がお父さんのこと好きだったように、お父さんは正雄が大好きだったのよ。道子がお父さんのこと好きだったように、お父さんは道子のことが大好きだったのよ。お母さんも、お父さんのことが大好きよ・・・。誰のせいでもないのよ。誰が悪いわけでもないのよ・・・」
「でも、お父さんは死んでしまったよ。もう、帰って来ないんだよ」
正雄くんは、自分が悪いのだという気持ちを消すことが、なかなか出来ません。
「マーくんも、ミッちゃんも、お父さんが亡くなってしまって、悲しいよね。お母さんも悲しいわ・・・。お父さんだって、お父さんだって、きっと悲しいのよ。だから、悲しい時は辛抱しなくていいのよ。泣いていいのよ。辛抱しないで泣いていいのよ。少しも恥ずかしいことじゃないのよ・・・。
苦しくなったらお母さんに話して。助けてあげられなくても、一緒に泣いてあげるわ・・・。三人一緒になっても辛抱できない時は・・・、その時は、お父さんに助けてもらうわ」
「でも、お父さんは、もういないわ・・・」
道子さんが、泣き腫らした目で、お母さんにうったえました。
「そうねえ、お父さんは亡くなったものねぇ・・・。でも、お父さんはいらっしゃると思うの。亡くなったので、わたしたちと一緒に生活することは出来ないけれど、お父さんはずっと一緒だと思うの」
「でも、お父さんは帰って来ないよ」
「でも、いるのよ。ずっとわたしたちのこと、見守ってくれているのよ。そして、どうしても困った時には、きっと助けてくれるわ」
道子さんは、じっとお母さんの顔を見つめています。そして、時々頷いたりしているのですが、正雄くんには、お母さんの言うことが納得できません。
「どうして、お父さんは死んでしまったのかなあ・・・。やっぱり、ぼくのこと、嫌いになったのかなあ・・・」
「そんなこと、絶対にないわ。ねぇ、マーくん。お父さんはどうしても天国へ行かなくてはならなかったのよ」
「ぼくらだけ残して?」
「とても大切なお仕事があるのよ」
「どんな?」
「さあ、お母さんにもよく分からないわ・・・。でも、お父さんでなくては出来ない、大切な大切なお仕事が出来てしまったのよ、きっと・・・」
「ふうーん」
正雄くんと道子さんが、同時に声を出しました。納得したわけではないのですが、お母さんの言うことが本当のような気もします。
三人は、この後も長い時間話し合いました。
亡くなったお父さんのことについて、こんなに話し合うのは初めてのことでした。
「入りますよ」
声とともに、お母さんがドアを開けました。
「どうしたの、こんなに遅くまで、二人とも・・・」
お母さんは、二人の顔を交互に見ると、自分も床に座りました。
「マーくんが・・・、マーくんが、自分のせいでお父さんが死んだって言うの・・・」
それだけ言うと、道子さんはお母さんの胸に顔をうずめて声を出して泣きだしてしまいました。
お母さんは、道子さんの背中を優しく撫でていました。
「どうしたの、マーくん。なんで、そんなことを思ったの?」
道子さんの泣き方があまりに激しいので、少し圧倒されながら正雄くんはお母さんに答えました。
「ぼくが、お父さんを怒らせたから・・・。ね、ぼくがわがまま言ったから・・・。だから、お父さんは死んでしまったんだ・・・」
お母さんは、正雄くんを抱き寄せました。片手で道子さんの背中を撫で、片手で正雄くんの肩を抱いていました。
正雄くんは、「ぼくが悪いんだ」と何度も繰り返し、道子さんは激しく泣きじゃくっていました。
そのままの時間がしばらく続きました。
道子さんが少し落ち着いた頃、お母さんは二人を離しました。
「マーくん。ねぇ、マーくん、よく聞いて。お父さんが亡くなったのは、マーくんのせいではないのよ。誰のせいでもないのよ。ねえ、分かるでしょう、あの優しいお父さんが、正雄のわがままぐらいで本気で怒ったりしないわ。正雄がお父さんのこと好きだったように、お父さんは正雄が大好きだったのよ。道子がお父さんのこと好きだったように、お父さんは道子のことが大好きだったのよ。お母さんも、お父さんのことが大好きよ・・・。誰のせいでもないのよ。誰が悪いわけでもないのよ・・・」
「でも、お父さんは死んでしまったよ。もう、帰って来ないんだよ」
正雄くんは、自分が悪いのだという気持ちを消すことが、なかなか出来ません。
「マーくんも、ミッちゃんも、お父さんが亡くなってしまって、悲しいよね。お母さんも悲しいわ・・・。お父さんだって、お父さんだって、きっと悲しいのよ。だから、悲しい時は辛抱しなくていいのよ。泣いていいのよ。辛抱しないで泣いていいのよ。少しも恥ずかしいことじゃないのよ・・・。
苦しくなったらお母さんに話して。助けてあげられなくても、一緒に泣いてあげるわ・・・。三人一緒になっても辛抱できない時は・・・、その時は、お父さんに助けてもらうわ」
「でも、お父さんは、もういないわ・・・」
道子さんが、泣き腫らした目で、お母さんにうったえました。
「そうねえ、お父さんは亡くなったものねぇ・・・。でも、お父さんはいらっしゃると思うの。亡くなったので、わたしたちと一緒に生活することは出来ないけれど、お父さんはずっと一緒だと思うの」
「でも、お父さんは帰って来ないよ」
「でも、いるのよ。ずっとわたしたちのこと、見守ってくれているのよ。そして、どうしても困った時には、きっと助けてくれるわ」
道子さんは、じっとお母さんの顔を見つめています。そして、時々頷いたりしているのですが、正雄くんには、お母さんの言うことが納得できません。
「どうして、お父さんは死んでしまったのかなあ・・・。やっぱり、ぼくのこと、嫌いになったのかなあ・・・」
「そんなこと、絶対にないわ。ねぇ、マーくん。お父さんはどうしても天国へ行かなくてはならなかったのよ」
「ぼくらだけ残して?」
「とても大切なお仕事があるのよ」
「どんな?」
「さあ、お母さんにもよく分からないわ・・・。でも、お父さんでなくては出来ない、大切な大切なお仕事が出来てしまったのよ、きっと・・・」
「ふうーん」
正雄くんと道子さんが、同時に声を出しました。納得したわけではないのですが、お母さんの言うことが本当のような気もします。
三人は、この後も長い時間話し合いました。
亡くなったお父さんのことについて、こんなに話し合うのは初めてのことでした。