『 燃えば燃え 』
富士の嶺の ならぬ思ひに 燃えば燃え
神だに消たぬ 空し煙を
作者 紀乳母
( 巻第十九 雑躰歌 NO.1028 )
ふじのねの ならぬおもひに もえばもえ
かみだにけたぬ むなしけぶりを
* 歌意は、「 噴煙を上げている富士の嶺よ 空しい思いを激しい火となって 燃えるなら燃えよ わたしの思いは空しい煙だが 神であっても消すことは出来まい 」と、受け取りました。
この歌は、『雑躰歌』に区分けされていますが、和歌(短歌)として何の不備もないと思うのですが、歌の内容が激しすぎるためにこうなったのでしょうか。
おそらく、「恋歌」の類いだと思うのですが、作者の悲劇を思えば、もっと激しいものかも知れません。但し、事件とこの歌が詠まれた時期は分っていませんが。
* 作者の紀乳母とは、陽成天皇の乳母である紀全子(キノゼンシ・生没年とも未詳。)のことです。
作者は元は山村姓でしたが、紀姓を賜って紀全子となりました。その経緯などは分らないのですが、従五位上を叙位されていますので、それに関係があるかもしれません。
全子は、源蔭と結婚し、益(マサル/ススム)を儲けました。その後、誕生間もない清和天皇の皇子貞明親王(後の陽成天皇)の乳母として出仕しました。869 年のことと思われます。(貞明親王の誕生は、貞観 10 年 12 月 16 日/西暦 869 年 1 月 2 日。)
全子の息子の益も、ほぼ似た頃の誕生と思われます。
* 全子は、天皇の乳母として内裏で恵まれた地位を占めていたでしょうし、息子の益も天皇の乳兄弟として仕えていて、恵まれた環境にあったと思うのですが、突然、大事件が発生しました。益が何者かに殴殺されたのです。
内裏内での殺人事件ですから、おそらく箝口令も出されたでしょうし、外部へは秘匿したことでしょうが、隠しきれるものでもなく、この後一、二ヶ月間の祭祀が中止されることになりました。
事件の真相は明らかにされないまま、陽成天皇の関与や、直接の犯人といった噂さえあったとされます。おそらく、実行者は誰であるとしても、皇位をめぐる政争の激しい時代でから、そうした陰謀も絡んでいた可能性は十分考えられます。
そして、陽成天皇は、事件後三か月を待つことなく退位に追い込まれているのです。
* 事件の後、失意の全子は、どのように過ごしていたのでしょうか。残念ながら、伝えられている情報はほとんどないようです。
陽成天皇には、同母弟や異母弟もいましたが、皇位を継いだのは、仁明天皇の皇子で陽成天皇からみると大叔父にあたる五十五歳の光孝天皇でした。つまり皇位の移動が画策されたのです。陽成天皇は上皇として65年を生きていましたが、皇位が「清和ー陽成」の系統に戻ることはありませんでした。
光孝天皇やその後継の天皇と、それを支える勢力は、陽成天皇並びに周辺勢力の復権を警戒し続け、公的記録に残される機会も激減したことでしょう。
全子の消息の量が激減しているのも、そうした動きに関係しているのかもしれません。
* 掲題の歌が、我が子が殺されるという事件の後か先かで、その意味が大きく違うような気がしてならないのですが、諸般の事情を考えますと、事件の前の可能性の方が高いと思われます。
しかし、個人的には、あえて、事件の後に、堪え難い思いを絶唱したのだと思えてならないのです。
☆ ☆ ☆
『 峰の雲にや 』
郭公 峰の雲にや まじりにし
ありとは聞けど 見るよしもなき
作者 平 篤行
( 巻第十 物名 NO.447 )
ほととぎす みねのくもにや まじりにし
ありとはきけど みるよしもなき
* 歌意は、「 ほととぎすが 峰の雲間に 入ってしまったらしい 声だけは聞こえてくるが 姿を見ることができないなぁ 」といったもので、のどかな光景を詠んだものと受け取れます。
ただ、この歌の題として、「やまし」と記されています。「やまし」とは、はなすげ(ゆり科の多年草。「やまじ」とも。)の異名だそうで、この歌が『物名』に加えられていることから、それを詠み込むために作られたのかもしれません。
もし、そうだとすれば、「うまく詠み込んだものだ」という気持ちより、せっかくの作品が味気なく感じられるような気がするのです。
個人的には、出来上がった作品の中に、偶然「やまじ」が入っていたのだと考えたいのですが、本当はどうだったのでしょうか。
* 作者の平篤行(タイラノアツユキ)は、平安時代前期の貴族です。生年は未詳ですが、亡くなったのは 910 年です。
父は、興我王という皇族です。桓武天皇の曾孫に当たるようですが、両親が誰だかよく分りません。
興我王は 860 年に従五位下を直叙されて、869 年に従五位上に上っています。その後、871 年、881 年、884 年には伊勢神宮への奉幣使を務めていますので、皇族の一員として活動していたと考えられます。そして、886 年に、篤行らのわが子5人に平朝臣の姓を賜って臣籍降下させています。興我王自身も臣籍降下したのか皇族のままであったのかは確認できませんが、その前年あたりは、山城守として地方官を勤めていたようです。
* さて、作者の篤行ですが、上記のように、886 年に臣籍降下していますが、後の経歴などから推定すれば、10歳前後だったのではないでしょうか。
893 年に文章生に補され、秀才(文章得業生のことか?)を経て、898 年に対策(官吏登用のための試験)に及第しています。この間にも地方官として勤めているようですが、899 年に式部少丞、902 年に式部大丞(文部官吏で六位程度の官職。)に就いています。
この文章生に選ばれるのは、相当優秀な人材に限られていたようです。あの菅原道真も選ばれていますが、その時の年齢が18歳でした。それから考えますと、篤行の年齢も、それより上と推定されます。
* 903 年に従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たしました。おそらく、二十代後半から三十代前半にかけての頃だったのではないでしょうか。
これと同時に地方官に転じ、三河守、筑前守を勤め、909 年には大宰少弐を兼任しました。
この間に、従五位上に上っていますが、910 年 1 月に亡くなりました。行年は、まだ40歳前後だったのではないでしょうか。
* 平篤行の官暦を見る限り、下級貴族としては平均的な生涯だったのではないでしょうか。
しかし、篤行が臣籍降下したのは、おそらく、十分物心がついた年頃だったでしょうから、それが、彼の生涯にどのような影響を与えていたのか、少し気になるところです。
☆ ☆ ☆
『 山路の菊の 』
濡れてほす 山路の菊の 露のまに
いつか千年を 我は経にけむ
作者 素性法師
( 巻第五 秋歌下 NO.273 )
ぬれてほす やまぢのきくの つゆのまに
いつかちとせを われはへにけむ
* この歌の前書き(詞書)には、「仙宮(センキュウ・仙人の住む家)に菊をわけて人のいたれる形(カタ・模型)をよめる」とあります。この歌は、この前書きをもとにしなければ作者の意図は伝わらないことになります。
それを考慮した上で、歌意は、「 山路の菊の間を行くうちに すっかり濡れてしまった衣を干す 束の間だと思っている間に いつの間にか千年の年月を 私はこの仙境で送ったのだろうか 」といったものでしょう。なお、仙境の一日は人間界の千年にあたる、といった考え方が加味されています。
この歌は、『秋歌』に編集されていますが、秋を詠んでいるというより、もっと技巧的なものを感じます。
* 作者の素性法師(ソセイホウシ)は、平安時代前期から中期にかけての僧侶・歌人です。
生没年は共に不詳ですが、850 年より前に誕生し、909 年より後に亡くなっていることは確認できます。
* 素性法師の父は、歌人として名高い僧正遍照(ヘンジョウ・ 816 - 890 )です。遍照は六歌仙の一人にも加えられている著名な歌人ですが、桓武天皇の皇孫にあたる人物ですから、素性法師も桓武天皇の曾孫に当たるということになります。
遍照は、俗世において従五位上蔵人頭に上っていますが、850 年に仁明天皇の崩御をうけて出家しています。
素性は、遍照が俗世にあった時の子供とされていますので、この情報によれば、誕生は 840 年代ぐらいではないかと推定できます。俗名は良岑玄利(ヨシミネノハルトシ)と伝えられていますから、元服の頃までは俗世にあったようで、清和天皇の御代に殿上人になったとの情報もありますが、父の意向で早くに出家したようです。
* 素性について、僧侶としての消息はそれほど多くなく、もっぱら歌人としての物が中心のようです。
出家後は、雲林院に住んだようですが、この雲林院というのは、仁明天皇の第七皇子常康親王が、父の崩御後に出家して、雲林院を御所としているのです。おそらく、血族的にも、仁明天皇の崩御により出家しているなど、常康親王と遍照は近しい関係にあったと考えられ、遍照・素性親子は雲林院には常に出入りしたようです。
そして、親王の死後は遍照が管理を任され、遍照の死後は素性が引き継いでいます。この間、和歌や漢詩の会が開かれるなど文芸の場を提供し続けていたようです。
* 896 年、素性は権律師の位を受けています。その後、大和の良因院に移り、その後は此処を住まいとしたようですが、多くの歌会に出たり、屏風歌を詠進するなど、宮廷や貴族らとの交流は多かったようです。
909 年 10 月に、醍醐天皇の前で屏風に歌を記したというのが最後の消息のようで、これから程なくして没したのではないかと推察されます。行年は七十歳前後だったのではないでしょうか。
* 素性法師は、この時代の歌人としては超一流の人物と考えられます。
古今和歌集に採録されている歌数を見ますと、紀貫之102首、凡河内躬恒60首などが突出していますが、いずれも本歌集の撰者であり、個人的には、これにより古今和歌集の選歌方法に不満を感じているのですが、撰者以外では素性法師の36首が最大なのです。
また、現代の私たちには、父の僧正遍照の方がメジャーに感じますが、勅撰和歌集に採択されている歌数を比べてみますと、遍照が「古今和歌集16首・勅撰和歌集全体35首」に対して、素性は「古今和歌集36首・勅撰和歌集全体61首」であり、素性法師が後の世でも高い評価を受けていたことが分ります。
* 遍照・素性親子は、ともに百人一首でもお馴染みなので、最後にその和歌を記しておきます。
僧正遍照
「 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめん 」
素性法師
「 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな 」
☆ ☆ ☆
『 波路はあとも残らず 』
かの方に いつからさきに 渡りけむ
波路はあとも 残らざりけり
作者 阿保経覧
( 巻第十 物名 NO.458 )
かのかたに いつからさきに わたりけむ
なみじはあとも のこらざりけり
* 歌意は、「 あの向こう岸に あの人たちは いつの間に先に 渡ったのだろう 波の上には船の跡も 残っていないのに 」といった、比較的分かりやすい歌ではないでしょうか。
考えようによっては、男女の仲や、もっと運命的な場面も想像できないわけではありませんが、この歌には、「からさき」という題があり、また『物名』として編集されていることからも、「からさき」を詠み込むのが目的の歌と考えられます。
「からさき」は、琵琶湖畔の唐崎と考えられます。
* 作者の阿保経覧(アボノツネミ・ ? - 912 )は、平安時代前期の官人・貴族です。
彼の官暦は残されていますが、逸話などはあまり伝えられていないようです。彼を知るためには、父の情報が有力のようです。
* 阿保経覧の父は、阿保今雄( ? - 884 )ですが、もともとの姓は「小槻山」でした。小槻山氏は、滋賀県の南西部辺りを拠点とする豪族でした。おそらく、朝廷の出先機関や時には中央の官吏としても働いている一族だったのでしょう。
そうした背景をもとに、今雄は中央の官吏として勤め、内務官吏として相当優秀だったと考えられ、875 年に、「阿保朝臣」の姓を下賜されて改姓しました。そして、その前後に外従五位下を受けており、879 年には従五位下(内位)を叙爵して、押しも押されもせぬ貴族の地位に上っているのです。
なお、「外位(ゲイ/ガイイ)」というのは、中央官僚の「内位」に対するもので、地方出身者などに与えられ、内位より下位として扱われました。
* 作者の経覧の誕生年は不詳ですが、記録されている官職は、893 年に主計権少属ですので、この時には阿保氏として任官しているはずです。父の跡を追うような職務ですが、父はすでに 884年に亡くなっており、格別優遇されることはなかったようで、この職務は従八位下程度と考えられます。また、この時の年齢ですが、父が亡くなった年を考えますと、この職務が最初とは考えられず、おそらく数年間は下積みの任務に就いていたのではないでしょうか。そうだとすれば、この時には、二十歳をかなり超えていたのではないでしょうか。
その後、内務官吏を勤め、907 年に外従五位下に上りましたが、やはり父と同じように、「外位」という扱いでした。
912 年正月七日に、待望の従五位下(内位)を叙爵し、父の地位に追いつきましたが、その十日後に世を去りました。おそらく、四十代の半ばぐらいだったのではないでしょうか。
* 経覧には、当平、糸平ら数人の兄弟がいたようですが、この兄弟らは、「小槻宿禰」の姓を賜り改姓しています。朝臣より宿禰の方が格下ですから、何らかの理由があったと思われます。実子でなかったからという推察もされているようですが、よく分りません。
当平らの子孫は、下級の内務官吏として官職にあったようです。
経覧にも子供がいたようですが、詳しい消息は伝えられていないようです。
* 阿保氏を名乗る人物は他にもおりますが、「小槻山」ー「阿保」-「小槻」と改姓した一族では、「阿保」を名乗った人物は、今雄と経覧の二人(もしかすると、経覧の子も名乗ったかもしれないが。)だったと考えられます。
阿保経覧には、近江にそこそこの領地を有していた可能性はありますが、父に早く死なれ、内務官吏として懸命に努力を重ねる生涯だったのかもしれません。そして、遂に貴族の地位を得ることになりますが、その時は、死に臨んだ状態だったのではないでしょうか。いささかの哀れみを感じてしまいますが、歴史の流れという立場から見ますと、小槻山系の阿保氏を名乗った、たった二人のうちの一人であったと考えれば、そこには、何かがあったようにも思えてくるのです。
☆ ☆ ☆
『 知る人のなき 』
わが恋は み山がくれの 草なれや
繁さまされど 知る人のなき
作者 小野美材
( 巻第十二 恋歌二 NO.560 )
わがこひは みやまがくれの くさなれや
しげさまされど しるひとのなき
* 歌意は、「 私の恋は 奥山の山陰にそっと生えている 草のようなものです いくら激しく繁ろうとも 知ってくれる人はいないのだ 」といった秘めた恋を詠んだものでしょう。
* 作者の小野美材(オノノヨシキ・ ? - 902 )は、平安時代前期の官吏で下級貴族に上っています。
父は、小野俊生、あるいは小野忠範と伝えられています。この二人は小野篁(オノノタカムラ)の子息ですから、美材が篁の孫であることは、確かなようです。
篁(タカムラ・ 802 - 853 )は、学問に勝れ、従三位参議を勤めた人物ですが、本稿はじめ当ブログのあちらこちらに登場する、私の大好きな人物です。ただ、その伝えられている逸話などは、舞台が閻魔大王まで登場するスケールの大きさで、判断に迷う物が多いようです。
* 美材の誕生年は不明ですが、伝えられている情報から推定しますと、860 年前後と思われます。まだ、篁の死後十年ほどしか経っていない頃の事です。
伝えられている情報によりますと、
880 年に、穀倉院学問料を受けています。これは奨学金のようなものですが、美材がはじめてのことのようです。つまり、相当学問の面で勝れていたか、篁の影響力が残っていたかのどちらかと考えられます。
886 年、文章特業生(文章生のうち優秀な者二名が選ばれた。)となり、892 年に対策(官吏登用のための試験。)に及第し、894 年に少内記に就いています。少内記は正八位上相当官です。
これらのことから、文章生としては極めて優秀であり、大変な能書家であったという逸話もありますので、篁の才能の片鱗を受け継いでいるようにも思われますが、官吏としての昇進はままならなかったようです。
* 897 年に、従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たしています。三十代後半の頃ではないかと推定されますが、本人の努力面が大きかったような気がしてなりません。
これにより大内記となり、以後、伊予権介、信濃介と地方官に就き、902 年に亡くなりました。
おそらく、学問の面では高い能力を有していたであろう美材としては、官吏としては満足できるものではなかったのではないでしょうか。
伝えられている小野氏の系図によりますと、美材は篁の孫であり、あの小野小町や小野道風はいとこにあたります。
ただ、美材を含め彼らの生母は伝えられておらず、例えば、小町の父とされる小野良真は美材の父の異母弟にあたると思われますが、出羽の郡司であったとされ、小町伝説に合わされたようなところがあります。資料によっては、良真を伝説上の人物としているものさえあります。
* こう見てきますと、美材もまた現実と幽玄の世界の狭間で生きたようにも考えてしまいますが、伝えられている美材の官職などは事実でしょうから、おそらく、豊かな才能に恵まれながらも、藤原氏の台頭などもあって、歯を食いしばって生きた多くの下級貴族の一人なのかもしれません。
しかし、それゆえに、晩年は地方官を勤めているので、中央政治のトラブルに巻き込まれることなく、心身共に意外に豊かな生涯だったのかもしれません。
☆ ☆ ☆
『 いよいよ見まく 』
老いぬれば さらぬ別れも ありといへば
いよいよ見まく ほしき君かな
作者 業平の母
( 巻第十七 雑歌上 NO.900 )
おいぬれば さらぬわかれも ありといへば
いよいよみまく ほしききみかな
* 歌意は、「 年を取ると 避けることの出来ない別れも あると言いますから ますますお会いしたいと 願うあなたです 」といった、子を慕う親心を詠んだものでしょう。
* この歌には前書きがあって、「 業平朝臣の母の皇女、長岡に住み侍りける時に、業平宮仕へすとて時々も えまかりとぶらはず侍りければ、師走ばかりに母の皇女のもとより、『とみのこと』とて文を持てまうできたり。あけて見れば、詞(コトバ)はなくてありける歌 」とあります。
この前書きから、作者は「業平の母」だと分りますが、古今和歌集は、天皇や皇子・皇女などの和歌には作者名としては記さず、このような形で記しています。
* 「業平の母」とは、伊勢物語の作者とされている在原業平(アリハラノナリヒラ・825 - 880 )の母の伊都内親王( 801? - 861 )のことです。
伊都内親王は桓武天皇の第八皇女です。第一皇子は平城天皇です。
桓武天皇には数え切れないほどの后妃や夫人・宮人などがおり、皇子や皇女も同様ですが、それゆえに、皇位や皇族間の勢力争いや、藤原氏を中心とした政権争いが激しい時代でもありました。
* 伊都内親王は、平城天皇の第一皇子である阿保親王と結婚しました。伊都内親王にとって一粒種となる在原業平の誕生が 825 年なので、この少し前に結婚していたのでしょう。
ただ、阿保親王は、810 年に平城上皇と嵯峨天皇が対立するという薬子の変に連座して、太宰権帥に左遷され京を追われていて、帰京できたのは平城上皇が崩御した後の 824 年のことなので、その直後のことかもしれません。
* 阿保親王は平城天皇の第一皇子ではありますが、生母が宮人の葛井藤子で、その父は五位クラスの下級貴族であり、皇位を継承する候補からは外れていたと考えられます。ただ、性格は控え目で、文武の才は勝れていたとも伝えられていますので、政争に巻き込まれる懸念はつきまとっていたようです。
826 年に、まだ二歳の業平らに在原朝臣の姓を賜って臣籍降下させているのも、そうした争いから子供たちを守ろうとしたのかもしれません。
しかし、絶大な権力を誇った桓武天皇の皇女として宮廷生活しか知らなかった伊都内親王の生活にどのような変化を与えたのでしょうか。
* 京に戻った阿保親王は、827 年に上総太守に任命されました。実権などほとんどない名誉職なのでしょうが、安定した収入が保証されたものと考えられます。その後、様々な役職に就いていますが、上総太守は常に兼務していることからも、阿保親王のみならず伊都内親王の生活面を支える意味もあったのかもしれません。
その後、833 年に三品を授与され、収入面ではいっそう厚みを増したことでしょう。さらに、治部卿、宮内卿、兵部卿などを歴任しており、嵯峨天皇の信頼は厚かったと考えられます。
ところが、842 年に、廃太子を巡る政争(承和の変。藤原氏による他氏排斥の最初の事件とされる。)に巻き込まれそうになります。この時には、嵯峨上皇の皇太后橘香智子に報告することで難を遁れていますが、何か事を起こそうとする勢力にとっては、阿保親王は味方に引き入れたい人物なのでしょう。
ただ、政争を避けたはずの阿保親王ですが、この三か月に急逝しています。死因は伝えられていませんし、病気であったという記録はありません。そして、葬儀にあたって、反乱を未然に防いだことが評価されて、一品を追贈されています。
* さて、作者の伊都内親王にとっては、どのような生涯だったのでしょうか。
伊都内親王は桓武天皇の晩年の皇女で、父とは六歳の頃に死別しています。おそらく、父との思い出などほとんどなかったのではないでしょうか。また、母とは三十三歳の頃に死別しています。
阿保親王と結ばれたのは、二十三、四歳と推定されますので、当時としては遅い結婚です。結婚生活は十八年程に及びますが、どのようなものだったのでしょうか。
四十二歳の頃に、阿保親王が急死しました。伊都内親王はその後も同じ邸で暮らしていたようですが、848 年に邸は落雷により焼失し、その後は長岡の山荘に移っています。
長岡での暮らしは、861 年に亡くなるまで十三年に及んでいます。掲題の和歌は、この間に詠まれたものでしょう。
桓武天皇の皇女として生まれた伊都内親王ですが、桓武天皇の跡は、平城・嵯峨・淳和と異母兄が皇位に就き、その跡は、甥の仁明、その子の文徳、さらにその子の清和天皇と皇位は移っていました。
伊都内親王が逝去した時の天皇は清和天皇ですが、まだ十一歳であり、皇族の大長老の死をどのように受け取ったのでしょうか。
* 伊都内親王の生きた時代は、皇位をめぐる激しい時代でした。伴侶となった阿保親王はその荒波を被った人物の一人でもありました。
しかし、長岡に移ってからの晩年は、中央からは忘れ去られたような存在だったかもしれませんが、わが子に思いを馳せながらも穏やかな十余年だったのではないでしょうか。
最後に、掲題歌に対する業平の返歌を記しておきます。
『 世の中に さらぬ別れの なくもがな 千代もと嘆く 人の子のため 』
☆ ☆ ☆
『 蔭を恋ひつつ 』
筑波嶺の 木のもとごとに 立ちぞ寄る
春のみ山の 蔭を恋ひつつ
作者 宮道潔興
( 巻第十八 雑歌下 NO.966 )
つくばねの このもとごとに たちぞよる
はるのみやまの かげをこひつつ
* 歌意は、「 筑波嶺の 木のもとごとに 立ち寄ってお願いしているのです あの筑波嶺の春の御山のような皇太子の お陰を願っているのです」といった切ないもののようです。
この和歌の前書き(詞書)には、「親王の宮の帯刀(タチハキ・皇太子を警備する役人。)に侍りけるを、宮仕へつかうまつらずとて、解けて侍りける時によめる」とありますので、作者は皇太子の御所の警備を勤めていたが、何か失態があって謹慎処分を受けていた時にこの歌を詠んだ、とありますので、この歌は復帰を願ってあちこちに依頼して回っていたということなのでしょう。
* 作者の宮道潔興(ミヤジノキヨキ)は、平安時代前期の官人です。
宮道氏は、日本武尊を始祖とする一族とされていますが、この頃には、京都近くの山科あたりで小豪族として根を張っていたようです。朝廷で高官として活躍したという記録は無いようですから、せいぜい七位程度の下級の官人であったと考えられます。いずれも、個人的な推定ですが。
* 潔興の生没年は不詳ですが、官職歴は残されています。
898 年、内舎人。
900 年、内膳典膳。
907 年、越前権少掾。
以上の三件ですが、いくつかのことが推定できます。
まず、和歌の前書きに登場している親王は、皇太子の保明親王です。
保明親王( 903 - 923 )は、醍醐天皇の第二皇子ですが、伯父にあたる左大臣藤原時平の強権を背景に生後満二か月(904 年。数え年では二歳。)で皇太子になりました。以後二十年に渡り皇太子の地位にあり、天皇の寵愛もあつく藤原氏の期待も大きかったのですが、父に先立って亡くなりました。
ただ、ここから、潔興が皇太子の近くに仕えていたのは、904 年から907 年までの間であると考えられ、掲題の和歌が詠まれたのも、その間のことと推定されます。
しかし、どのような失態で謹慎させられていたのか不明ですが、残念ながら復帰は叶わず、越前権少掾として左遷されたのではないでしょうか。
* 潔興の父(あるいは祖父)の宮道弥益は、醍醐天皇の外祖父にあたり、従四位下宮内大輔に上っており、公卿に至らないまでも歴とした貴族だったのです。そして、その地位に上ったのには、なかなかドラマチックな出来事が伝えられています。
まず、醍醐天皇の父は宇多天皇ですが、宇多天皇の父光孝天皇は、五十四歳という高齢で即位しました。その理由は、光孝天皇は仁明天皇の第三皇子ですが、仁明天皇の跡は第一皇子の文徳天皇が就き、その跡も清和、陽成とその子孫に引き継がれていました。
ところが、陽成天皇の御代に,宮中で殺人事件が発生し天皇が関与しているともされて退位を余儀なくされました。おそらく、藤原氏内の勢力争いが主因と思われますが、後継者の選定が難航し、急遽、先祖返りするような形で光孝天皇が誕生しました。
* 光孝天皇は誠実な人柄だったとも伝えられていますが、皇統を陽成天皇の皇子に戻すべきと考えていたようで、即位とともに自らの二十六人の皇子・皇女を源の姓を与えて皇室を離れさせたのです。
光孝天皇の第七皇子であった定省親王( 867 - 931 )もその一人で、十八歳の頃のことでした。ところが、光孝天皇は即位後三年余りで病気となり、宮廷内の政争も絡み、定省親王を皇族復帰させることになり、887 年 8 月 25 日に皇族に復帰、翌日に立太子、その日のうちに光孝天皇が崩御し、定省親王が践祚し宇多天皇が誕生したのです。
そして、宇多天皇の女御であり敦仁親王の母である胤子は、父は正三位内大臣藤原高藤ですが、母は宮道弥益の娘列子なのです。
* やがて、敦仁親王が醍醐天皇として即位したことにより、宮道弥益は天皇の外祖父の地位を得ているのです。
また、おそらく山科あたりの小豪族に過ぎなかった宮道弥益の娘である列子が、藤原冬嗣の孫にあたる名門藤原北家の御曹司高藤と結ばれた経緯については、今昔物語(巻22)にも採録されている純愛物語があったようです。それによりますと、「高藤が十五、六歳の頃、山科での鷹狩りの途中に雨に遭い、土地の有力者の家に雨宿りしたが、その家の娘に一目惚れし、結ばれる。その後、帰宅が遅れたことから高藤は父に鷹狩りを禁じられる。二人が再開するのは6年後のことで、娘は一人の女の子を連れていたが、その女の子が後に天皇の女御になる。・・・」といった内容です。
* おそらく、作者である宮道潔興の姉(あるいは伯母)である列子と藤原高藤との劇的な出会いがなければ、潔興は山科あたりの有力者として、あるいは下級の官人としての生涯を送ったのでしょう。
ところが、運命は潔興に違う道を用意していて、皇太子の側近くに仕えるようになりましたが、失態により、越前の下級官吏に左遷させられました。その後の消息は不明で、その地で生涯を終えたのか、もし帰京したとしても中央の官吏に復帰するようなことはなかったのでしょう。
また、失態を犯したとされますが、潔興が仕えていたときの皇太子の年齢は、満年齢でいえば、せいぜいゼロ歳から四歳位までのうちの何年かでしょうから、皇太子本人の意志とは考えられず、別の思惑もあったのかもしれません。むしろ、成り上がってきた状態の潔興は、足を引っ張られたような気がしてならないのです。
そして、その事が、潔興の後半生にどのような影響を与えたのでしょうか。
下級官吏とは言え、地方へ下ればそれなりの地位と収入も得られたでしょうから、針のむしろのような宮廷より、良い生活を送ったのではないかと思い描くのです。
☆ ☆ ☆
『 わびしき春霞 』
花の散る ことやわびしき 春霞
たつたの山の うぐひすの声
作者 藤原後蔭
( 巻第二 春歌下 NO.108 )
はなのちる ことやわびしき はるがすみ
たつたのやまの うぐひすのこえ
* 歌意は、「 花が散ることが 心細いのか 春霞が立っている たつたの山の うぐいすが鳴いているよ 」と、行く春を惜しむ歌でしょう。
この歌の前書き(詞書)には、「仁和の中将の御息所の家に歌合せむとて、しける時によみける 」とありますので、歌会で詠まれた作品だと考えられます。
ただ、この中将、あるいは御息所が誰かは不詳です。
* 作者の藤原後蔭(フジワラノノチカゲ)は、平安時代前期の貴族です。
生没年は不詳ですが、官暦などが伝えられていますので、880 年前後から 923 年頃にかけて生存した人物と考えられます。
後蔭は、藤原北家末茂流の従三位中納言藤原有穂の次男として生まれました。公卿の子息ということになります。母は、正妻の安倍興武の娘です。安倍興武の官位などは不詳ですが、下級貴族の家柄と推定されます。
* 後蔭の伝えられている官暦の一部を列記してみます。
895 年、大蔵大丞。
897 年、宇多天皇の六位蔵人。譲位後も醍醐天皇の蔵人を勤める。
その後、左近衛将監。
902 年、従五位下を叙爵して貴族の仲間入りを果たす。越中守に就く。
904 年、左馬助。 907 年、佐兵衛佐。 910 年、左近衛少将。
911 年、従五位下。 917 年、正五位下。 919 年、従四位下。
923 年正月、右近衛督。
以上のように、主として武官として勤め、順調に昇進したようです。
後蔭の記録は、この後は残されていないようなので、程なく死去したのではないかと思われます。
* 後蔭が活躍した時代は、すでに藤原氏、それも北家の勢力が宮廷政治を牽引する状況になっていました。
北家は、藤原不比等を父とする四兄弟のうちの次男房前を始祖とする家柄です。
房前の子孫は幾筋もに分かれていますが、有力なものとしては、
「房前ー真楯ー内麻呂ー冬嗣ー良房・・」という流れが権力の中枢を握り「道長」の時代へと繋がっていきます。
これに対して、「房前ー魚名ー末茂ー総継ー直通ー有穂ー後蔭」の系列は劣勢であり、良房( 804 - 872 )以降は、差は広がるばかりだったでしょう。
後蔭は、そうした情勢下の真っ只中で生きたのでしょう。
* しかし、そうした中での後蔭の昇進は、並の貴族として十分なものと思われます。おそらく、武官としての能力が評価されたのでしょうが、当時は、武官や武者の地位は決して高くはなかったようです。
後蔭が歌人として評価された記録は残されていません。その武官としての活動が長かったと考えられる彼でさえ、歌会に加わって和歌を詠んだことが伝えられていることに、当時の貴族の生活の一端が窺えるような気がするのです。
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『 奈良の都も 』
人ふるす 里をいとひて 来しかども
奈良の都も 憂き名なりけり
作者 二条
( 巻第十八 雑歌下 NO.986 )
ひとふるす さとをいとひて こしかども
ならのみやこも うきななりけり
* 歌意は、「 ある人から古い女だと見捨てられて 里(京都を指している)が嫌になって ここまで来ましたが 奈良の都も 古都と呼ばれていて 辛い名前でありました 」といったもので、失恋を匂わせる歌のようです。
この歌の前書き(詞書)には、「 初瀬にまうづる道に、奈良の京に宿れりける時よめる 」とありますので、旅の途上で、少々感傷的になっていたのかもしれません。
* 作者の二条は、平安時代前期の宮廷女房と推定されますが、その情報はほとんど伝えられていないようです。
そうした中で、貴重な情報である「源至の娘らしい」というものを信じることにして、源至の足跡を追うことにしました。
* 源至(ミナモトノイタル)は、平安時代前期の貴族です。嵯峨天皇の孫という血筋ですが、正確な生没年は伝えられていません。
至の父の源定(ミナモトノサダム・815 - 863 )は、嵯峨天皇の皇子で、生母は女御の百済王教俊の娘です。嵯峨天皇には、皇后や妃、女御、更衣、あるいは多くの宮人がおり、その正確な数はとても確認できませんが、数十人といっても大げさではないようです。皇子・皇女となるとその何倍かにもなりそうです。従って、定には誕生の段階で皇位継承の可能性はなく、828 年、源朝臣の姓を賜与されて臣籍降下しました。
嵯峨天皇の皇子・皇女たちのうち、17人の皇子、15人の皇女が源朝臣姓を賜っており、嵯峨源氏と呼ばれる一族は多くが高位に昇り、宮廷政治において藤原北家と並び立つ勢力を有し、二世源氏の頃まで続いたようです。
定も、正三位大納言まで昇っています。
* 作者である二条の父の至は、851 年に無位から従五位下に直叙されています。おそらく、十五歳から遅くとも二十歳までの頃だったのではないでしょうか。二世源氏として厚遇されての叙爵でした。
その後は、武官を中心とした地位にあったようですが、858 年に就いた右兵衞佐(次官)は、以後20年ほども務めています。途中で相模守を兼務したりしていますが、これは、実務面よりも収入面で配慮されたものではないでしょうか。
885 年に右京大夫、886 年に従四位上に叙されているのが消息の最後です。この右京大夫というのは、京の司法・行政・警察などを担った京職(左京職と右京職の二つがあった。)の長官で、公卿に昇ることは出来なかったものの重職を務め続けていたようです。
* さて、本稿の主人公である作者の二条ですが、すべて推定となってしまいます。
父の年齢も不明ですが、おそらく 860 年を挟んだ前後十年ぐらいの間に誕生したのではないでしょうか。そして、880 年前後には成年に達していたのではないでしょうか。
その推定をもとにすれば、まだまだ二世源氏の娘として、あるいは嵯峨天皇の曽孫として認知されていて、恵まれた環境に育ったのではないでしょうか。
もし、女房として出仕していたとすれば、宮中あるいは相当高官の邸と考えられ、掲題の歌から受けるような、鬱々とした生涯では決してなかったと推定したいと思うのです。
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『 あらじとぞ思ふ 』
ひととせに ひとたび来ます 君待てば
宿かす人も あらじとぞ思ふ
作者 紀 有常
( 巻第九 羈旅歌 NO.419 )
ひととせに ひとたびきます きみまてば
やどかすひとも あらじとぞおもふ
* 歌意は、「 七夕姫は 一年に 一度だけやってくる 愛しい君を待っているのですから その君以外に 宿を貸してもらえる男など あるまいと思う 」といったもので、恋歌に加えてもよい内容ですが、この歌には前書き(詞書)があり、少し違う風景が見えてきます。
* 前書きには、「親王(ミコ)、この歌をかへすがへすよみつつ返しえせずなりにければ、供に侍りてよめる」とあります。
つまり、この歌(本歌の前にある「在原業平」の和歌のこと。)に対して、親王が返歌することが出来なかったので、親王の供をしていた作者が代わりに詠んだものなのです。
従って、在原業平の歌と合わせれば、「羈旅歌」であることが分りますし、それ以上に、歴史の一コマのようなものが垣間見える気がするのです。
*(NO.418)の在原業平の和歌と前書きを記してみます。
「 惟喬親王の供に、狩にまかりける時に、天の河といふ所のほとりにおりゐて、酒など飲みけるついでに、親王の言ひけらく、「狩して天の河原にいたるといふ心をよみて、盃はさせ」と言ひければよめる 」
『 狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり 』
惟喬親王の求めに在原業平がこのように詠みましたので、次は親王が返歌すべきなのですが、うまく詠めなかったので、作者が代わりに詠んだということです。
* 惟高親王(コレタカシンノウ・文徳天皇の第一皇子。)と在原業平(アリハラノナリヒラ・平城天皇の孫。)の関係は、共に皇族であり、業平の方が大分年長なので、臣従しているということではなく、親しい関係といったものと考えられます。
そして、この二人は、共に皇族としては不運であり、作者の紀有常とも密接な関係にあります。
* 作者の紀有常(キノアリツネ・815 - 877 )は、平安時代初期の紀氏の中心人物の一人です。
紀氏は、武内宿禰の子の紀角を始祖とする武門の名族ですが、宮廷政治において頂点に立つことはなく、この頃には藤原氏の圧迫を受け、衰退への途上にありました。
有常の父紀名虎は、官職は正四位下刑部卿ですから、公卿に至ることが出来ませんでしたが、二人の娘(有常の妹(あるいは姉)に当たる。生母はいずれも不詳。)は宮廷勤めをしていて、種子は仁明天皇の更衣に、静子は文徳天皇の更衣になっているのです。二人とも更衣という低い身分でしたが、いずれも皇子・皇女を儲けています。とりわけ静子は、文徳天皇の第一皇子である惟喬親王の生母なのです。
当然、有常と惟喬親王とは近しい関係であったでしょうし、有常の娘は在原業平の室になっているのです。
* 文徳天皇は、第四皇子の惟仁親王(後の清和天皇)に譲位していますが、これには外祖父の藤原良房の強い圧力があったもので、文徳天皇には譲位の意向を固めるに当たって、惟仁親王が幼いことを理由に(惟仁親王九歳、惟喬親王十五歳)、一定期間惟喬親王に皇位に就ける意向があったともされていますが、藤原氏の権勢に抗しきれず、惟高親王の即位を実現させることは出来ませんでした。
* 掲題の和歌とその前の和歌に登場している、惟喬親王、在原業平、そして作者の紀有常は、激しい皇位争いの中で、いずれも不運を背負うことになったと言える人物なのです。
惟喬親王は上記した通りですが、在原業平の父である阿保親王も平城天皇の第一皇子でありながら政争に巻き込まれ即位への道を断たれています。
紀有常は、皇室に繋がる上の二人とは違って中級貴族の家柄ですが、もし、惟喬親王の即位が実現していれば、有常の宮廷での立場は相当違うものになっていたと推定できます。
* 紀氏は本来武門の家柄です。有常も武官として評価されていたようですが、晩年は地方官の方が主体になっています。もしかすると、惟喬親王と引き離そうとする藤原良房らの意向が働いていたのかもしれません。
有常は、877 年に六十三歳で世を去りました。最終官位は従四位下周防権守でした。この後、中央政治においては、ますます藤原氏の勢力が強まり、紀氏の活躍の場はなくなっていきました。
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