田熊みうま会 尾道市因島から発信中

昭和40年度生まれで 田熊小学校・田熊中学校に通った人のブログ

10代が驚いた「かつては当たり前だった常識」

2022年11月25日 | 令和4年因島・田熊・仲間の話題
昨夜のテレビ番組から。
次の中で、10代にアンケートして最も驚いたものは何かを当てるを充てるクイズ形式。
①「訪問販売」が多かった
②「体温計」が水銀式で測定に5分もかかった
③男の子は冬でも「半ズボン」
④「500円札」があった
⑤1999年に人類滅亡すると信じる人が多かった「ノストラダムス」
⑥「Jリーグ」関連のあらゆるグッズが溢れていた

管理人の予想は
①ノストラダムス ②500円札 ③体温計 ④訪問販売 ⑤半ズボン ⑥Jリーグ
果てして正解は
  ↓
  ↓
  ↓
  ↓
  ↓
①ノストラダムス ②体温計 ③半ズボン ④Jリーグ ⑤500円札 ⑥訪問販売 でした。

6位「訪問販売」。布団や消火器、日用品が先ず浮かびましたが、訪問した家周辺の航空写真を撮影して販売することも行われており、当時はグーグルアースなどがなかったため購入した人も多かったようです。ウチにはありませんが。。インターホンの進化により直接会う前に断れるようになり減っていきました。5位「500円札」。500円硬貨は昭和57年に誕生、500円札が発行停止になるまでの12年間は両方が使われていたことからそこまで驚かれなかったということでしょうか。4位「Jリーグ」。平成5年にJリーグが開幕すると、Jリーグカレー、Jリーグふりかけ、Jリーグ腕時計、Jリーグラジオなど、様々なJリーグ関連グッズが発売され、さらにはJリーグに関連したドラマも複数あったそうです(覚えてないけど)。3位「半ズボン」。確かに頑張って半ズボン履いてました(それでも10月くらいまでかな)。一説では、皇族が通う学習院の制服が半ズボンだったためそれが影響したらしい。2位「体温計」使用後には水銀を下げるため手で振ってましたね。WHOによる使用中止の指針から見かけなくなりましたが、令和3年まで製造されていたそうです。そして1位の「ノストラダムス」。スタジオで正解者はいませんでしたが、個人的にはこれは鉄板だと思いました。説明不要(笑)

皆さんの感覚はいかがですか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お宮の紅葉

2022年11月18日 | 令和4年因島・田熊・仲間の話題
寒くなってきましたね。七五三詣も終わり、田熊八幡宮の紅葉も見頃になりました。お正月前にお参りしてはいかがですか。


表参道から見る拝殿


太陽の光が三色もみじを彩ります


白い紙垂(しで)と紅葉


手水舎


ちょっと凝ってみました


境内から表参道
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

因島・田熊の方言・慣用句(73)「ほろせ」

2022年11月17日 | 因島・田熊の方言・慣用句
「ほろせ」・・・主に顔などにできる小さく赤いブツブツのよう発疹・湿疹のことで、虫刺されやジンマシンの場合にも使われることもあります。
中国地方と四国・九州の一部で広く使われている方言で、元々「疿子(ほろせ・ほろし)」と書くようです。「疿」は音読みで「ひ」と読み、汗疹(あせも)とか汗により皮膚に生じる腫れ物を意味します。辞書には記載がありますが、古い言葉が方言として残ったものでしょう。

「一日マスクしとったら"ほろせ"ができてしもうた」
とか
「朝起きたら"ほろせ"ができとったけぇ、会社休む言うて電話してきゃぁがった(怒)」
なんて使います。

町のお医者さんに言ったら「久しぶりに聞いた」そうです(笑)

島内での常用度★★☆☆☆(減ってきたかも)
島外での難解度★★★★☆(難しそう)
ではまた次回
インデックスはコチラから

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

因島小唄

2022年11月09日 | 令和4年因島・田熊・仲間の話題
因島小唄のスライドを作ってみました。海賊節(令和4年8月14日記事)と同様、因島の盆踊りでは定番の曲ですね。
コロンビアから発売され、歌手は「誰か故郷を想わざる」「若鷲の唄」「リンゴの唄」などで多数ヒットを飛ばした霧島昇と民謡で注目を集めた久保幸江です。
昭和55年ころのパンフ・広告の画像を使用しました。

YouTube(3分21秒)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

因島・田熊の方言・慣用句(72)「めぐ」「めがす」

2022年11月08日 | 因島・田熊の方言・慣用句
標準語の「めげる」は「気力が失われる」ことや「(精神的に)くたびれる」意味ですが、この地方では「(物が)壊れる」こと意味しますね。もっとも「壊れる」という意味も古い標準語として成立しているので、古語が方言として残った例の一つだと思います。これが「めぐ」「めがす」となると、その傾向が強くなります。

「こんなに道具貸したら、すぐ"めぐ"けぇのお」
(この人に道具を貸すと、すぐに"壊して"しまいます)
とか
「築150年になる実家を、"めがす"ことにしたんじゃ」
(築150年になる実家を、"壊す"ことにしました)
みたいな感じで使います

「めぎ屋」という発展形(?)もあり、通常の解体業者さんを指す場合もありますが、計画や会議を「めがす」人を指すこともあります。

「その実家は明日から"めぎ屋"が工事に入るんよ」
解体工事が始まったら速いですよね

「あんな"めぎ屋"じゃけぇのお、打ち合わせの時は気をつけぇよ」
(彼は"壊し屋"ですから・・・)
はい、気をつけます。。。

島内での常用度★★★★★(標準語並み)
島外での難解度★★★☆☆(ニュアンス勝負か)
ではまた次回
インデックスはコチラから




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田熊神楽の源(賀羅加波神社・三原)

2022年11月03日 | 令和4年因島・田熊・仲間の話題
お宮の祭事などで舞を披露してくれる田熊神代神楽のルーツ、三原の賀羅加波(からかわ)神社にお参りしてきました。(田熊の神楽についてはコチラから令和3年3月24日記事)。
かつては参道だったと思われる一般道を抜けて境内に進むと、神木のイチョウが現れ銀杏の匂いが漂ってきました。お参りを済ませてしばし散策してから社務所の女性にお話を伺いました。その人は、宮司であったご主人が20年ほど前に亡くなった後、他の数人とともに神職を務めておられる80歳過ぎの方でした。先ずは田熊の神楽との関係についてお話すると、現在は大和町の方が指導をされていて、舞う時には大和や豊栄から来て奉納するそうです。明治初頭、この神社から伝えられた田熊神楽の活躍に喜んでおられました。
賀羅加波神社は、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳に記載があることから、古来より国の重要な祭事を執り行ってきたと想像できます。
氏子がいない(少ない?)神社だそうで運営は厳しいが、なんとか此処までやってこれたと話されていました。20年ほど前に田熊八幡宮から「オカノさん」という方がお参りに来られたことを思い出してくれましたが、田熊は「オカノさん」多いですからねぇ。。。
神社なのに鳥居が無いのは珍しいと思って尋ねると、元々参道の入り口にあったが、一般道となり往来に危険だということで撤去してしまったとのことで、同様に注連柱も地権者との関係で撤去したが、現在は境内の入り口に移設したそうです。
話は尽きなかったのですが、別の参拝者が訪ねて来たタイミングで、お礼を述べて銀杏を頂いて神社を後にしました。
因みにおみくじは大吉でした♪


移設された注連柱


狛犬


折敷に三階菱の神紋


手水舎


社頭の様子


立派な拝殿と神木


神木は三本あります


拝殿は昭和後期新築


本殿は修理中でした


頂いた銀杏(^^
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田熊の山車(だんじり)

2022年11月01日 | 令和4年因島・田熊・仲間の話題
大正8年、田熊八幡宮本殿の葺き替え工事完成を祝い、村を挙げての協賛行事が繰り広げられました。各部落が対抗するように時代物の大人形などが制作され参道を飾る中、東浜青年会が中心となり、急造の山車が繰り出され一層賑やかに盛り上げました。この山車興行が氏子の連帯と親睦を深め、中老会を中心に「だんじり」造りの機運が高まっていきます。酒食を伴う山車興行は若者の風紀を乱すのではという不安もありましたが、部落はさらに盛り上がり、HT家の多額の寄付をはじめ、500円程の浄財が集まり、約400円で「だんじり」が制作されました。地元大工のMM氏、MN氏、MY氏らの奉仕、O屋からは大太鼓が寄贈され、多くの人々の協力で立派な「だんじり」が完成しました。
屈強な若い衆が中心の担き手によって、箱崎組との競争にもそうそう負けることはありませんでした。
山車出動の経費は、積立金や商業組合などからの寄贈、当家や浜檀那からの援助があり、寄付金を集める必要はなかったようです。この最初の「だんじり」に太鼓の打ち手として乗った少年のうち2名が大東亜戦争に散り、戦争の暗い影も感じさせます。
昭和3年、新しく西浜の「だんじり」が造られ、秋祭りでは箱崎組と三つ巴の競争が行われるようになりました。
昭和12年、日支事変が勃発し、当局から所謂「お祭り騒ぎ」の自粛通達があり、山車出動は中断することになります。しかし青年団より神、先祖を敬い、出征兵士の武運長久を祈願するとして、御神幸のお供することとなり、山車が出動、酒食も絶って山車の競争を行い、以後は青年団が主宰として活動するようになりました。

戦後の一時期や不慮の事故により中断された時期もありましたが、青年団や区長会、子供育成会ら主宰変遷を経ながら、100余年の間、多くの人が関わり時代の波を乗り越えて紡いできた「田熊のだんじり」のお話でした。
参考・引用・抜粋 田熊の文化財第1巻(昭和56年)


令和元年の競争







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする