田熊みうま会 尾道市因島から発信中

昭和40年度生まれで 田熊小学校・田熊中学校に通った人のブログ

田熊の山車(だんじり)

2022年11月01日 | 令和4年因島・田熊・仲間の話題
大正8年、田熊八幡宮本殿の葺き替え工事完成を祝い、村を挙げての協賛行事が繰り広げられました。各部落が対抗するように時代物の大人形などが制作され参道を飾る中、東浜青年会が中心となり、急造の山車が繰り出され一層賑やかに盛り上げました。この山車興行が氏子の連帯と親睦を深め、中老会を中心に「だんじり」造りの機運が高まっていきます。酒食を伴う山車興行は若者の風紀を乱すのではという不安もありましたが、部落はさらに盛り上がり、HT家の多額の寄付をはじめ、500円程の浄財が集まり、約400円で「だんじり」が制作されました。地元大工のMM氏、MN氏、MY氏らの奉仕、O屋からは大太鼓が寄贈され、多くの人々の協力で立派な「だんじり」が完成しました。
屈強な若い衆が中心の担き手によって、箱崎組との競争にもそうそう負けることはありませんでした。
山車出動の経費は、積立金や商業組合などからの寄贈、当家や浜檀那からの援助があり、寄付金を集める必要はなかったようです。この最初の「だんじり」に太鼓の打ち手として乗った少年のうち2名が大東亜戦争に散り、戦争の暗い影も感じさせます。
昭和3年、新しく西浜の「だんじり」が造られ、秋祭りでは箱崎組と三つ巴の競争が行われるようになりました。
昭和12年、日支事変が勃発し、当局から所謂「お祭り騒ぎ」の自粛通達があり、山車出動は中断することになります。しかし青年団より神、先祖を敬い、出征兵士の武運長久を祈願するとして、御神幸のお供することとなり、山車が出動、酒食も絶って山車の競争を行い、以後は青年団が主宰として活動するようになりました。

戦後の一時期や不慮の事故により中断された時期もありましたが、青年団や区長会、子供育成会ら主宰変遷を経ながら、100余年の間、多くの人が関わり時代の波を乗り越えて紡いできた「田熊のだんじり」のお話でした。
参考・引用・抜粋 田熊の文化財第1巻(昭和56年)


令和元年の競争







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