緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

日々の発見と思いのあれこれなど

「ポーの一族」のことなど

2019年12月23日 | マンガ

もう終わったのですが、大阪梅田の阪急百貨店で、ポーの一族展が開かれていました。

「ポーの一族」は知る人ぞ知る萩尾望都さんの少女漫画で、去年だったか、私は観ませんでしたが宝塚歌劇で舞台化もされました。

友人と梅田でランチすることになったので、友人に会う前にポーの一族展を見に行きました。
主に「ポーの一族」の原画が展示されていたのですが、人が多くて見づらかったです。

原画は写真撮影は禁止でした。
宝塚歌劇で使用された衣装の方は撮影スポットになっていてOKでした。

原画の方は、どれも皆、見覚えのあるものばかりでした。
若い頃、何度となく繰り返し読んだのですから当たり前です。

私は萩尾望都さんの作品のファンで、きっかけとなったのが「ポーの一族」だったのです。
私くらいの年代では、そういう女性は多いと思います。
雑誌で連載されていた頃(1972年~)は、読み返す度に切なくて胸が締め付けられる思いでした。

当時、萩尾さんはもう一方で「トーマの心臓」という、大人になる事=子供時代の死をテーマにした作品も描いていたのですが、もう一方の「ポーの一族」は14歳の少年のまま永遠に死なない吸血鬼が主人公で、全くの別作品ながら、まるで表と裏のような作品世界でした。(「トーマの心臓」では主人公の少年は神父になる決心をし、「ポーの一族」では吸血鬼のまま・・・。)

2017年に40年ぶりに「ポーの一族」の続きが刊行され、私も読んでみたのですが、かつての「ポーの一族」とは別の作品のようでした。
なんていうか、かつての作品には作者自身意識していない深い意味があったように思います。

ここで、萩尾望都さんの作品について、私がかつてなるほどと思ったことを書いてみます。
興味のない方はスルーしてください。
芸術や思想系の雑誌で萩尾望都さんの作品の特集が組まれることはよくあるのですが、その内の4、5年前に刊行された一冊の中で書かれていたことです。(その雑誌が見当たらないので以下記憶のまま書きます)

「ポーの一族」以降、人気作家となった萩尾さんは、出版社に勧められて、自分がマンガ作家としてやっていくための会社「望都プロダクション」を1977年に設立します。
そして会社の代表にしたのが、それまで勤めていた会社を定年退職した自分の父親でした。
そんなふうに経営面を家族に任せることを勧めたのも出版社のようでした。
そこで母親もまた萩尾さんの仕事に口を出すことになりました。
その結果、両親と大喧嘩になってしまったとのことなのです。

雑誌に書かれていた萩尾さんのお姉さんの言葉によれば、母親は萩尾さんの作品のキャラクターをグッズにして、それを売りだすことを考えるようなタイプだったそうです。
要するに完全に金儲けまっしぐらです。

会社代表となった父親の方はもっと酷いものでした。
少女マンガに限らず漫画家はアシスタントを雇って作品作りのお手伝いをしてもらいます。
アシスタントになる人は自らもまた漫画家志望で、アシスタントをしながら作品作りの技術的なノウハウを学び、力をつけてデビューを待つのです。

ところが父親は、萩尾さんがアシスタントにマンガの描き方を教えているのだから、アシスタントに給料を支払う必要はない。むしろアシスタントから教授料としてお金をもらうべきだという考えだったのです。
これまた自分の金儲けだけを考え、人は搾取と収奪の対象でしかないという考えです。
仮に父親の考えを実行したら望都プロダクションにアシスタントは来ないでしょう。
同様のことを日本のマンガ界が実行したら、後進は育たず、世界に誇る日本のマンガ文化は壊滅するしかないでしょう。

萩尾さんは、自分はお絵かき教室の先生をしているのではない、漫画家なんだと父親を説得したそうですが、父親はまったく納得せず、萩尾さんは結局2年で自ら会社を壊し、両親には引き取ってもらったそうです。

どんな業界でもその業界の流儀があり、誰でも説明されれば多少は納得するものですが、父親がまったく納得しなかったこと-会社設立時から随分経ったその雑誌の発刊時でも「娘は世の中のことを何も知らないから」と語っています-は、萩尾さんにとっては大変な困難だったと思います。

母親の方も同じ雑誌のインタビューで、娘には漫画家ではなく絵本作家になってほしいみたいなことをまだ言っていて、これまた少女マンガに革新をもたらし、文学を超えた表現に変えた萩尾望都という作家の偉大さが全然分かっていない様子。
(同様の事例としてピーターラビットを描いたビアトリクス・ポターとその母親との関係が思い出されます。)

萩尾さんはそのような両親との葛藤を経て、内なる親と向き合うべく心理学を学び始めていたそうです。
一読者としての私は、萩尾さんの会社設立や両親との葛藤など、まったく知りませんでした。
ただ1980年代に入って、萩尾望都の作品には親殺し等、親との葛藤をテーマにしたものが現れ、そうした作品もまた衝撃的だったのです。
実のところ、親との関係には似たような体験をしてきていたからです。
それは私だけではなく、私の当時の友人達においても同様でした。

実は当時の私の友人知人の内3人が、母親が今でいう統合失調症や鬱を病んでいました。
そのために母親を自殺で無くしていたり、母親が服薬中で抜け殻のようだったりしたのでした。
(父親が精神を病んでいたという話は聞いたことがありません。)
これは今でも語られることのないことでしょうが、私達の親の世代の女性達は、優秀であったり繊細であったり前向きで野心的であったりすればするほど狂気スレスレで生きていたと思われます。
私の母も精神こそ病んでいませんでしたが、新興宗教のキ×ガ×信者でした。

当時、子供達が母親の在り方を原因として精神を病むことが母原病として取沙汰されたりもしていましたが、そのように見えるのは母達が自分が抱えきれない問題を子供に負わせていただけだったと思います。
萩尾さんの作品はその問題を子供の立場から根源的なところで掬い取っていたのでした。
そのような作品を衝撃的と言わずして何と言えるか。

初期の「ポーの一族」のような作品では、直接的な親との葛藤みたいなものは描かれていません。
でも作者と両親の隠れていた関係を知ってもう一度「ポーの一族」という作品を見ると、実は象徴的レベルで世の中と自分自身との関係が描かれていたことが分かります。

たとえば、どのような社会でも自分達が生きている社会は、良い時は平穏でも、危機的状況になるとその本質を剥き出しにすると私は思っています。
ちょうどリーマンショックの頃、町に失業者があふれた時、それでも儲けている会社がありました。
そのような企業の経営者は、テレビを始めとしたメディアでは寵児でした。

数年後、そうした企業がブラック企業だったことが明らかになるのですが、どうやって儲けていたかその一例。
普通なら社員に無料で貸与するユニフォームを、社員の給料をカットする形で買い取らせていたとか、普通なら会社の必要業務の一環である労務管理の費用を管理費として社員の給料から徴収していたというようなことです。
こういう発想は萩尾さんの父親のアシスタントに対してとった発想と近似しています。
いずれも弱い立場の人の生き血を吸い取って自分は肥え太る発想です。

「ポーの一族」は、自分が人の生き血を吸い取ってしか生きられない吸血鬼であることを呪う吸血鬼の少年が主人公です。その養父は人を餌としか考えない酷薄な吸血鬼です。
萩尾さんの父親が言ったように、若い頃の萩尾さんは、意識レベルでは「世の中のことを何も知らな」かったかもしれないのですが、無意識のレベルでは世の中がどんなものか、そして自分が否応も無く何者であるかも知っていたと思います。
自分がどこにも属せないその悲しみを「ポーの一族」は描いていたのでした。
だから「ポーの一族」は頭で考えて作れる作品ではなかったのです。

今の私は萩尾望都の作品の良き読者とは言えないと思います。
難しいと言われていた「銀の三角」も「マージナル」もとても好きな作品でした。
でも「残酷な神が支配する」以降、萩尾さんの作品を読んでも、それまでの作品では感じられたカタルシス=心の浄化がまったく感じられなくなったのです。

原因は何よりも齢を取って立場を同じくしなくなっているからでしょう。
今の萩尾さんは、交友関係もおじさん文化人と交流し、おじさん文化人のアイドルみたいになっています。
そういう人達から受ける発想は私とは相いれないのではないかと思います。
「ポーの一族」の再開も、そういうおじさん文化人の一人からのリクエストだったそうです。
齢が齢ですので、好きなように作品を描かれれば良いと思います。



                                             

12月も下旬となり、ようやく暇になりました。
12月になってようやく割れたミツバアケビの実。

収穫したらこれだけありました。
やっぱり不気味ですね。

毎年12月になるとサンタを飾る町内のお家です。
よくよく見ると大きいサンタの顔の向きが変です。

2019年も終わります。
後は大掃除だけです