「歩くZ旗」みね姉のひとりごと ~矜持 国を護るということ~

私たちを護ってくれている自衛隊を、私が護りたい!そんな気持ちで書いてきました。今は、自衛隊との日々の大切な記録です

桂駐屯地にお邪魔してまいりました♪  ~防衛講和+おまけ編~

2015年03月06日 | 陸上自衛隊
さて、工場見学が終わると、ちょうどお腹が空く時間となりました(笑)


ここでもちろん…そう、体験喫食です


体験喫食、今回のメニューは…たら~~~ん



かつおのたたきの漬けどんぶり


ご飯はすし飯で、けっこう、ぺろっとイケました(笑)


大変おいしゅうございました


食堂の一角をパーテーションで区切られた場所で、食事をさせていただいたのですが、


なぜわざわざ仕切られていたかと言うと…それはたぶん、私達のため…というよりは、


副隊長さんがご同席されたからではないかと思いました…たぶん。


そしてその副隊長さんが、これまたとっても素敵な方です


そしてさらに、食事の後、副隊長さんによって、


防衛講和をして頂くという、これまた貴重な機会を頂きました







会議室に移動すると、入口目の前には席順が貼ってあり、


奥には…



コーヒーが、これまた整然と準備してあります

そして、テーブルの上に…



それぞれ、ネームプレートが置いてあります。


そして、お気づきになったでしょうか?


プロジェクターのコードすら、まっすぐしていることに


なんかもう、いちいちすごさを感じさせる徹底っぷり…


そして、



桂駐屯地の副隊長 中村賀津雄一等陸佐による、防衛講和がはじまり、


主に、東日本大震災での活動状況についてのお話をして頂きました。


副司令は、当時、第6後方支援連隊長をされていたので、


震災の時は、石巻で、派遣部隊指揮官として災害支援の陣頭指揮を執られた方の一人でした。


当時、地元の隊員さんは、いつ終わるともしれない中で、


ひたすら災害支援に携わられていたということが、一番のストレスであったようです。


当然ですが、単に長い期間というよりも、


終わりが見えない、いつまでやるのか分からない、というのは、


人間にとってはものすごいストレスだということは、よく理解できますので、


ただでさえ、過酷な災害支援の中で、


これは本当に辛かっただろうと思いますし、指揮官としても、辛かったと思います。


特に、士長など若い隊員さんたちは、


どこまでやればいいかわからないので、ものすごく、生真面目に必死になって


いっぱいいっぱいで頑張られ、結果、心労がたたって、


残念ながら、自衛隊を去るという残念な結果になることも、しばしばあるのだそうです。


そのために、隊員同士のミーティングをするなどして、


色々な辛い思いを吐き出す場を作って、隊員さんのメンタルの安定のために腐心されました。


ご存知の方も多いとは思いますが、


被災地支援に従事された自衛官には、自ら震災で家族を失った方も少なくありません。


そんな中で、なぜ自分たちががんばれたのか、ということですが、それは、


「今頑張らないで、いつ頑張るんだ!」


という思いであったとのことでした。


長年、不遇を時代を過ごしてきた自衛隊。


地震と原子力発電所の事故という、二正面対処を強いられ、


危険度が増す中、自衛隊がやっぱり最後の砦として対処することで、


自衛隊の必要性を、国民がようやく認知することになりました。


国難において、はじめて歓迎されるという、かの吉田茂の訓示そのままの状況です。


自衛隊は、自分たちの出番がない方がいい、歓迎されない方がいい、と、


それを確かに思っています。


ですが、どんな人間でも、自分たちの存在意義が不確かなまま、


日々、過酷な訓練をするというということは、大きな悩みを抱くのではないかと思うのです。


この、大きなジレンマを抱えてきた組織が、


存在意義を見いだせたこと、国に、国民に認められたことは、


自衛隊にとっての転換期であったことは間違いないと思います。


もちろん、震災を歓迎するものでも肯定するものでもありません。


問題なのは、日本人の想像力の貧困さであり、


実際に国難に直面するまで、自衛隊の必要性に気づけない人が多いという現実です。


おそらく、現在は、「サヨク」でもない限り自衛隊は日本に不要だ、などと言う人は、


もはやいないでしょう。


皮肉にも、多くの国民が自衛隊の必要性を認識するには、


これほどの国難でなければ、気付けなかったという事実が問題だったのだと思います。


しかし今度は、自衛隊でなくとも、災害支援専門部隊というようにして武力放棄させるべきだ、


などと、叫ぶ人が現れました。


認識不足も甚だしいですが、自衛隊がなぜ、あれほど過酷な環境で災害支援ができるか、


それは、このブログでも再三書いてきましたが、


戦闘行為という、人間が行う中で最も過酷な訓練をしてきているからです。


まさしく、命のやり取りの訓練を行っているからなのです。


それは、襲ってくる国難が、自然災害であろうと、外敵からの攻撃であろうと、


最悪の事態が日本に起こった時に、なんとかして国民を護るために、


そういう訓練を命がけで行っている…それが自衛隊です。


それが、実戦で使うことが来ない日を祈りながら…。


ですから、当然、誤解してほしくないのは、


存在意義を認識できたからと言って、嬉々として、災害支援に従事された自衛官など一人もいないし、


むしろ、あまりに精神的に辛い状況を乗り切るためには、


「今頑張らずに、いつ頑張るんだ!」


という思いだけが…自分たちの存在意義を実感することだけが、原動力であったのではないのかと、


そんな風に思った次第です。


ですから、最近自衛隊が人気が出ていることに関して、


「いつから人気が出ていると思いますか?」


と自衛官から質問された時に、


「確実に、震災以降だと思います」


と答えると、正直、微妙というか、複雑な表情をされる自衛官は少なくありません。


少なくとも、嬉しそうにする自衛官を見たことはありません。


それは、彼らが一番、


自分たちが歓迎される事態の意味を、理解しているからに他ならないからです。


それを思うと、実際に被災し自衛官に救助されていない身で、


「震災での自衛隊の活躍がすごい!」


などと、軽々しく口にするのも憚られるような気がしなくもないです。


この時の、彼らが抱えていた様々な想いを慮ると…。


この時の防衛講和では、記事にすることができない話もありましたので、


お話のごく一部だけを、取り上げさせて頂きましたことを、明記しておきます。









お話の後、副隊長自ら正門までお見送りしてくださいました。


この日はちょうど、自衛隊を退官された方のお見送りのシーンにも遭遇でき、


本当に、貴重な数々の体験をさせて頂きました。


このような機会を作ってくださり、


お誘い下さった「いせ後援会」理事の方には、感謝でいっぱいです。


並びに、平素からお忙しい中、この日のためにさまざまな準備とお心配りをしてくださった、


桂駐屯地の皆さまには、お礼の申し上げようもございません。


皆さま、本当に、ありがとうございます。