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日本共産党の95年の歴史を語る ― 不破社研所長の講演

2017-07-23 | 日本共産党は

 社会科学研究所の不破哲三所長が19日の日本共産党創立95周年記念講演会でおこなった講演は次の通りです。


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(写真)講演する不破哲三・社会科学研究所所長=19日、東京都中野区

 会場のみなさん。全国でインターネットをご覧のみなさん。こんばんは。不破哲三でございます。日本共産党創立95周年の集まりにたくさんの方がおいでいただきまして、本当にありがとうございます。

 このように、一つの政党が同じ名前で95年という長い歴史を活動してきた、このことは日本の政治史にかつてなかったことであります。その歴史には、みずから歴史を開く開拓者の精神でこの事業に取り組んだ多くの先輩たちの活動が刻まれているのであります。

 さきの都議選では、全党が「一つ」になったたたかいで、19議席という貴重な前進をかちとりました。この勝利のなかで党創立95周年を迎えたことを、ともに喜びたいと思うのであります。(拍手)

 きょうは、この記念の日に、私なりの経験もふりかえりながら、日本共産党の歴史を語りたいと思います。なかでも、今年の第27回党大会決議が結びの部分で強調した、「歴史が決着をつけた三つのたたかい」に焦点をあててお話ししたいと思います。

一 戦前の暗黒政治とのたたかい

軍国少年と教育勅語

 まず第一は、戦前の暗黒政治とのたたかいです。

 1945年8月15日、私は、敗戦の瞬間まで、典型的な軍国少年でした。動員先の工場、明電舎の屋上で敗戦の詔勅を聞きました。実はその前の日に、あすは敗戦になるらしいといううわさが工場に流れてきて、そんなことがあるはずがないと、友人と論争したばかりでした。本当に小学校入学以来、教育勅語と軍人勅諭をたたきこまれて育った軍国少年だったのです。

 「教育勅語」というのは、幼稚園で大声で合唱するような軽々しいものではありませんでした(笑い)。どこの小学校にも、小型の神社風の奉安殿という建物があって、そこにいつもは教育勅語がまつられていました。祝日など学校の節目の日には、校長が恭しくそこから勅語を取り出してきて、全生徒が集まった講堂で、袱紗(ふくさ)の包みからそれを取り出し、厳(おごそ)かに一語一語重々しく読みあげるのです。生徒はそれを、身動き一つせずに頭を垂れて聞く。咳(せき)をすることも、唾(つば)をのむこともできない空気でした。学校生活で、もっとも厳粛な時間だったのです。6年間、それを節目ごとに繰り返すわけですから、暗唱させられなくても、一字一句が頭に刻み込まれました。

 内容は、「臣民」、つまり天皇の家来である国民、当時の憲法には「国民」という言葉はなく、「臣民」と呼ばれていました。その「臣民」にくだした、道徳についての天皇の命令書なんです。「朕(ちん)惟(おも)うに」で始まりますが、「朕」とは天皇が自分を指す代名詞です。その言葉で始まり、この国は天皇の祖先がおこしたもので、国民の道徳もそのとき定めたものだ、だから「爾(なんじ)」ら「臣民」は絶対にその道に背いてはならないぞ、というのが前書きです。道徳の項目も、最初が「克(よ)く忠に」、つまり、天皇への忠義です。そして最後の大項目が、「一旦緩急(かんきゅう)あれば義勇公に奉じ以(もっ)て天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼すべし」、要するに、戦争になったら天皇家の存続のために命をささげろ、こういうことだと、子どもながらに分かりました。

 中学に入ると、今度は「教練」という軍事教育が正規の科目になります。各学校に軍人が配属されていて、毎週、何時間か軍事教練を受けるのです。そのときに、今度は、「軍人勅諭」を暗唱させられました。

 これも、「我が国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにぞある」、天皇の軍隊なんだ、途中で実権を武家に取られたが、それを明治維新で取り返した、これが日本の軍隊の本来の姿だ、こういう歴史の解説から始まって、「朕は汝(なんじ)ら軍人の大元帥なるぞ」、こういう命題が押し出されます。続いて、天皇への忠義こそが軍人の本分だとしたうえで、「ただただ一途に己(おの)が本分の忠節を守り、義は山嶽(さんがく)よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ」。「こうもう」とは鳥の羽のこと、天皇への忠義は巨大な山よりも重いが、君たち軍人の命は鳥の羽よりも軽い、その覚悟で軍人の任務を果たせ、これが軍人勅諭でした。それが、中学生にたたきこまれました。

 こういう教育が、日本全土が焼け野原になっても「神国日本」の最後の勝利を疑わない軍国少年を育て上げたのです。

戦後最大の衝撃――日本共産党との出会い

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(写真)戦前、世界で初めて刊行された『マルクス・エンゲルス全集』(改造社版)=党資料室所蔵

 敗戦で、その価値観が覆(くつがえ)されました。新聞の紙面にも、にわかに「民主主義」という耳慣れない言葉や、戦争への反省などが顔を出すようになりました。しかし、それらの言葉にはなかなか実感が感じられませんでした。

 そういう中で、敗戦の2カ月後、社会全体を驚かせた出来事が起こりました。「治安維持法」が連合軍の命令で廃止され、獄中にあった闘士の人びとを中心に、日本共産党が、初めて日本の国民の前に公然と姿を現したのです。

 あの時代に、主権在民の民主主義の旗、侵略戦争反対の平和の旗を断固として掲げ、民主主義の日本のために、命をかけてたたかった人びとが、そしてその政党があった、「ポツダム宣言」以前の日本に、先駆的な人びとによる平和と民主主義のたたかいの伝統があった、このことをはじめて知ったことは、私が、少年ながらに受けた最大の衝撃でした。

 父がとり始めた「赤旗」を復刊第1号から読み、出始めたパンフレットや、古本屋で探せるようになった戦前のマルクス主義関係の本に飛びついて、共産党とその思想・理論の勉強を夢中ではじめたのでした。

 戦後の政界は、日本共産党以外は、戦争推進の政党が名前を変えた、にわかづくりの政党ばかりでした。46年4月に最初の総選挙があり、5月から憲法議会が開会されましたが、そこでも、「国民主権」を憲法に明記せよと最初から主張したのは、日本共産党だけでした。7月に極東委員会という連合諸国の会議で、「主権在民」を取り入れろという決定がおこなわれ、憲法議会の最後の段階で、ようやく憲法に国民主権の規定が書き込まれる、こういう状態でした。

 こういう状況を見ながら、私は、敗戦の翌年9月、旧制一高に入り、4カ月後に日本共産党に入党しました。1947年1月、あとわずかで17歳の誕生日をむかえるときでした。今年でちょうど入党70年になります。(拍手)

戦前のたたかいの歴史的な意義

 戦前の日本共産党のたたかいの歴史は、日本のどの党ももちえないものでした。そこには、日本共産党が自由と民主主義、平和を断固としてまもる党であることを実証する、不滅の歴史的な記録が刻まれています。

 きょうは、その活動を、二つの角度から考えてみたいと思います。

 第一は、それが、絶対主義的天皇制という軍国主義的独裁政治のもっとも凶暴な弾圧に抗してのたたかいであったことであります。相手側の最大の武器は、さきほど戦後廃止されたといった治安維持法でした。

 この弾圧法が1925年に制定されてから1945年に廃止されるまでの20年間、本当に猛威をふるいました。弾圧による逮捕者は数十万人、投獄された者は5千人を超えるとされていますが、その弾圧法が日本社会に与えた重圧とその残酷さは、こういう数字だけで表現できるものではありません。党の幹部や著名な活動家でも、小林多喜二や岩田義道は、最初から殺人を目的の拷問で、逮捕の直後に虐殺された。獄死者も、党の中央幹部の野呂栄太郎、市川正一、国領五一郎など、500人を超えました。

 こうした暴圧が、日本社会にのしかかっていたのです。ヒトラーがドイツに専制独裁の暴力体制を確立したのは1934年ですから、日本共産党への弾圧はそれに先立つもので、当時の資本主義世界でほとんど例をみない、最も凶悪で苛烈(かれつ)なものだったのです。

 私は、この機会に、この過酷な条件のもとで、国民主権の民主主義と侵略戦争反対の平和の旗を勇敢にかかげ、誇るべき歴史を築くたたかいのなかでその生涯を終えた多くの先輩同志にたいして、心からの敬意と感謝の言葉をささげたい、と思うのであります。(大きな拍手)

 第二は、日本共産党のこのたたかいを底流として、新しい社会をめざす新しい文化の運動が花開き、戦後の私たちに大きな遺産を残したことであります。

 治安維持法の支配のもとでも、戦前の日本では、学問の分野でマルクス主義の理論が大きな力をもつようになり、さらに、文学、演劇、映画、音楽、美術など多くの分野にわたって、当時「プロレタリア文化」と呼ばれた新しい活動が、社会の全体に大きな影響をおよぼしたものでした。

 小林多喜二や宮本百合子の作品も、『中央公論』や『改造』といった当時一流の総合雑誌が競争で掲載したものであります。共産党の地下活動を描いた多喜二の「党生活者」も、非合法活動に移った多喜二から、『中央公論』編集部に郵送で原稿が届けられ、編集者が「転換時代」と題名を変えて、連載したものでした。そういう勇気ある編集者もいたのです。

 学問の方面でも、マルクス主義の理論が経済学、哲学、歴史学など多くの分野で、ブルジョア学派をしのぐ力を発揮するようになっていました。

 野呂栄太郎が中心になって、党の綱領的立場から日本社会の歴史・現状・展望を分析する講座を計画したときには、大学に籍を置く研究者を含めて多くの人びとが結集し、1932年から33年にかけて『日本資本主義発達史講座』全7巻を岩波書店から刊行し、大きな影響をあたえました。

 また、マルクスの理論そのものの研究という点でも、ソ連においてさえ、全集の刊行が最初の部分だけで中断していたときに、『マルクス・エンゲルス全集』全32冊、『資本論』を含めると37冊になりましたが、これが世界で初めて刊行されたのであります。このことも、この時代の特筆すべき成果でした。これは、多くの研究者が、マルクス、エンゲルスの文献をヨーロッパ方面で収集しながら刊行したもので、科学的社会主義の研究への大きな貢献となりました。

 治安維持法体制のもとでそれに抗して発展した「プロレタリア文化」の諸成果は、戦前の暗黒の時代のもとで、未来をひらく明るい灯(ともしび)となったのでした。きびしい情勢の中での活動でしたが、そこに、戦後に残した貴重な文化的、理論的遺産があったことを、私は強調したいと思います。

二 覇権主義の無法な攻撃とのたたかい

自主独立の共産党――資本主義世界で唯一の存在

 つづいて、戦後の党の歴史ですが、まず第二のたたかい、60年代、70年代を中心とした、ソ連と中国の二つの覇権主義とのたたかいについて述べたいと思います。

 私が入党して3年後の1950年、スターリンの無法な干渉が始まり、それに占領軍の弾圧が加わって、党は「五〇年問題」といわれる分裂と混乱の苦難の状態に突き落とされました。50年代半ばに、この混乱からぬけだして党の統一を回復した時、党は、“自分の方針は自分で決め、外国のどんな党の干渉も許さない”という自主独立の原則を決定しました。この原則は、その後の党のすべての活動を貫く基本精神となったのであります。(拍手)

 その後、ソ連と中国の間の論争が激しくなったために、1960年11月、この論争を解決し、国際的な共通の運動路線を確立するために、共産党・労働者党の国際会議が開かれることになりました。これは、第2次世界大戦後、最初の国際会議であり、そしてまた、結局はこの種の会議の最後の開催となったものでした。

 当時、共産主義運動は世界でかなり大きな勢力をもち、そのなかでは、ソ連がスターリン時代以来の圧倒的な支配力を持っていました。国際会議には81カ国の党が集まりましたが、そのなかで事実上ソ連の支配下にあった党が76と、圧倒的多数でした。とくに、資本主義世界で活動している69の党のうちでは、自主独立の立場をとった党は日本共産党だけでした。

 11月の本会議の前に、予備会議が10月に開かれ、ここで共同声明の草案が討論されました。この会議で、宮本顕治同志を団長とする代表団は、ソ連共産党が中心になって用意した原案にたいし、80項目を超える修正案を提出しました。高度に発達した資本主義国での革命の戦略問題や、共産党間の関係での対等・平等性、自主独立の原則など、多くの重要な提起をおこない、間違った主張にたいしては断固とした論戦を展開しました。

 資本主義国の党の中でも、当時イタリアやフランスの党は、議会でも大きな議席をもつ党でしたが、それらがみんな、論戦ではソ連の側に回ります。そういうなかで、その時衆議院で1議席しかもたなかった日本共産党が、一歩も引かずに正論を主張する。この毅然(きぜん)とした態度は、会議でひときわ異彩をはなったようであります。

 こういう自主独立の党の存在が許せない、このことが、その後起こった二つの覇権主義による干渉攻撃の、共通する背景ともなり、動機ともなったのだと思います。

「ニセ共産党」づくりで日本共産党の転覆を

 ソ連は、60年会議の直後から、日本の党指導部内に内通者をつくる工作をはじめ、日本共産党打倒作戦をすすめ始めました。

 それが表に出て、ソ連の干渉攻撃との全面的な闘争が始まったのが1964年であります。

 つづいて1966年からは、中国の毛沢東派から、同様な攻撃が開始されました。ここであえて「毛沢東派」というのは、当時の中国共産党が、毛沢東の一派が起こした「文化大革命」のもとで、旧来の指導部の主要部分が追放・弾圧され、党を乗っ取られた状態にあったからであります。

 日本共産党にたいする二つの勢力の攻撃は、手段を選ばない、実に激しいものでした。中国の場合をいいますと、彼らは、「毛沢東思想」を旗印に、対外的な干渉攻撃を世界で手広くおこないましたが、その国の共産党を“主要な敵”の一つだと位置づけて、攻撃を集中したのは、日本共産党にたいしてだけでした。

 どちらも、海を越えての攻撃だけではなかったのです。内通者を動員して、全国に「ニセ共産党」の組織をつくり、それを日本共産党にとってかわらせる。こういう目的をもった干渉で、当時の国際運動の中でも、前例のない、まさに無法きわまる攻撃でした。

どんな状況で干渉攻撃とたたかったか

 このときの干渉とそれにたいする闘争の経過は、別の文献に譲りたいと思いますが、きょうとくに説明したいのは、この闘争をめぐる当時の状況の特徴であります。

(イ)全党にとっては不意打ちだったという問題

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(写真)ソ連共産党への日本共産党の「返書」を一挙掲載した当時の「赤旗」のコピーを示して語る不破氏

 一つは、この攻撃が、全党にとっては、不意打ちだったという問題です。

 日本共産党は、64年以前は、ソ連共産党との論争や干渉行為への批判は、運動内部の問題として、国際ルールを守って、こちらからは公表しないでいました。

 だから、64年に始まった干渉攻撃は、全党の目から見ると、まったくの不意打ちで、突然始まったものでした。

 私自身、この年の3月、労働組合の活動から党本部に移って、理論政策活動の任務に就いたとき、60年以来のソ連との論争の経過や、ソ連大使館を拠点にした日本国内での干渉攻撃の実情をはじめて知りました。

 ところが翌4月には、ソ連共産党から日本共産党への非難・攻撃の書簡が寄せられました。続いて5月には、党幹部で国会議員だった志賀義雄らが、ソ連に追従して反党分派の旗揚げをする。こうして、これを支持するソ連共産党との公然の論戦が始まったのです。

 8月末、私たちは、ソ連側の批判に全面的に反論し、数年来の干渉行為を具体的に告発する「返書」をソ連に送りました。この返書を、私たちは9月2日の「赤旗」に発表しましたが、どんなものであったかを紹介するために、そのコピーをここにもってきました。(コピーを手にして)返書は「赤旗」の1面から始まります。論文ではなく相手への手紙ですから、途中、章の区切りはあっても、内容を示す見出しは何もありません。それが8ページも続くのです(どよめき)。当時、「赤旗」は8ページ建てでしたから(笑い)、その日は特別に12ページ建てにしたのですが、続いて掲載したソ連の書簡が2ページ余り、最後のページはテレビ・ラジオ欄ですから、一般記事は「潮流」欄を含めて1ページに満たない紙面になりました。

 これを全国に配布しましたから、読者はびっくりしたでしょうが、これを身につけないと、干渉者とたたかえないのです。なにしろ相手は、海を越えた彼方にいるだけではない。各地に「ニセ共産党」をつくって、攻撃してくるのですから。必死になって、この日の「赤旗」を勉強したものです。

 中国・毛沢東派との闘争でも、「赤旗」に発表した月日をとって、「4・29論文」とか「10・10論文」とか呼ばれた長い論文を何回も発表しました。

 こうして、文字通り全党が、日々の「赤旗」を手に、「返書」や諸論文を理論的武器にして、干渉者を打ち破る闘争に取り組んだのでした。

(ロ)国内でのマスコミと政界の対応

 では、国内ではどんな状況だったでしょうか。

 マスコミについていいますと、ソ連、中国、どちらの場合も、干渉の問題を紙面で完全に黙殺しました。私の記憶にある唯一のまとまった記事は、中国との闘争が始まった時に、“「自主独立」と言うが現実には「自主孤立」ではないか”、という冷やかしの論評だけです。

 とくに、中国の毛沢東派の干渉攻撃は、日本共産党への攻撃というだけでなく、日本の国内政治への干渉そのものでした。日本の国民に議会政治の否定と暴力革命路線を押し付ける呼びかけ、過激派分子が暴力事件を起こすたびにこれを礼賛する報道、まさにむきだしの内政干渉でしたが、この干渉を批判する文章は、日本のマスコミには、ついに一度も現れませんでした。

 政界の場合はどうか。社会党は、断続的にせよ私たちと共闘関係にあった党でしたが、ソ連、中国、どちらの干渉の場合にも、干渉者の側に立ちました。中国問題では、田中角栄首相の訪中で国交回復して以後は、各党が競争で「文化大革命」下の中国に代表団を送りました。共同声明で、日本共産党主敵論に同調する代表団もありました。「文化大革命」の問題でも、公明党の代表団が「紅衛兵の目は澄んでいた」という帰国報道をすれば、社会党代表団は、「文化大革命万歳」のプラカードを胸に掲げて北京の市内を歩く姿を演じることまでやりました。

 こういう意味では、私たちの闘争は、国内的には、“孤独の闘争”だったのです。

「二つの戦線でのたたかい」の中で党躍進を実現

 第2次大戦後、ソ連崩壊までの半世紀に、こういう闘争を、同時に二つの巨大な敵を相手にしてたたかった共産党は、日本共産党以外には、世界のどこにもありません。(拍手)

 わが党は、この闘争に全力で取り組みながら、国内政治での躍進をかちとりました。衆議院で14議席をかちとった69年総選挙、39議席で野党第2党に躍進した72年総選挙、これらの前進もこの激烈な闘争のなかで成し遂げたものでした。

 そして、干渉の暴挙に出た二つの党も、最後には、自分たちの誤りを認めざるを得なくなりました。ソ連は、干渉攻撃の開始から15年たった1979年12月、両党会談で干渉の誤りを公然と認めて反省の態度を示しました。

 中国の干渉攻撃は、76年に毛沢東が死んで以後、多少は弱まりましたが、鄧小平時代になっても「ニセ共産党」を支持する干渉活動は続きました。中国側がその態度を根本的に改めて関係を正常化する両党会談が開かれたのは、98年6月でした。この会談で、中国側から、自分たちの行動が「内部問題相互不干渉」という党間関係の原則を破った誤った行動であったことをはっきり認め、「真剣な総括と是正」をおこなったことが表明され、32年ぶりに関係の正常化を実現しました。

 二つの覇権主義にたいするこれらの闘争は、世界の運動史に例のない、偉大な闘争だったと思います。そしてその勝利は、全党の総力を結集した奮闘でたたかいとった、まさに歴史的な勝利だったのであります。(拍手)

自主独立の立場で科学的社会主義の「ルネサンス」を

 ここで強調したいのは、わが党が、自主独立の立場を政治行動の分野だけにとどめず、理論活動の分野でもその立場を貫いたことであります。

 世界の運動のなかでそれまで国際的定説とされていたのは、ソ連中心に築き上げられてきたカッコ付きの「マルクス・レーニン主義」でした。私たちは、1976年の党大会で、ソ連流の「マルクス・レーニン主義」と手を切ることを決定し、マルクスの理論そのものの自主的探求とその現代的発展に力をつくしてきました。

 私は5年前、党創立90周年の記念講演で、科学的社会主義の「ルネサンス」について述べました。

 「われわれが半世紀にわたって取り組んできたこの仕事は、スターリン時代の中世的な影を一掃して、この理論の本来の姿を復活させ、それを現代に生かす、いわば科学的社会主義の『ルネサンス』をめざす活動とも呼ベるものだ、と思っています」

 こういう仕事をやりとげてきたからこそ、世界を揺るがせたソ連の崩壊という激動の中でも、日本共産党は、科学的社会主義の旗を断固として守り、ソ連とそれを支配したスターリン主義の「巨悪」の実態の科学的な解明に取り組むことができたのであります。

 2004年に採択した党綱領は、その輝かしい成果であります。(拍手)

 わが党が、社会主義の「ルネサンス」を体現する党となり、政治活動のうえでも、理論活動のうえでも、資本主義世界で最前線に立つ党となっていることを、祝賀しようではありませんか。(大きな拍手)

三 「共産党を除く」という“壁”とのたたかい

支配体制が総力を挙げた戦略的攻撃だった

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(写真)統一戦線運動の推進力となった全国革新懇の結成総会。意見発表するのは宮本顕治委員長(当時)=1981年5月、東京・東急文化会館

 では、次の第三のたたかいに進みましょう。

 70年代は、全体として党と革新勢力の前進の時期でした。途中、宮本委員長(当時)を標的に、戦前のでっち上げ暗黒裁判を材料にした反共攻撃があり、76年選挙で議席を一時減らしましたが、79年の選挙ではそれをはね返して、72年選挙を超える41議席を獲得しました。革新自治体も全国に広がり、70年代後半には社会党との党首会談で、国政での革新統一戦線をめざす合意を3回も確認し合いました。

 この流れを一挙に断ち切ったのが、1980年1月10日、突然発表された社会党と公明党の「政権合意」、いわゆる「社公合意」でした。

 これは連合政権についての合意と称するものでしたが、その最大のねらいは、冒頭の部分に、「日本共産党をこの政権協議の対象としない」ことを「基本原則」として打ち出したところにありました。これによって、60年の安保闘争以来、70年代まで共産党との共闘関係にあった社会党を、反日本共産党の陣営に引き入れたのであります。

 社会党からはこのことについて事前事後、何の通告もありませんでした。突然のニュースを聞いて、私はすぐ、社会党書記長に電話で説明を求めたが、電話口にはでたものの、一言の説明もできず、事実上沈黙の応答でした。こうして、長年の両党会談で築いてきた共闘関係を無通告、無説明で破棄したのでした。

 私たちは、社会党の右転落の本質をつく批判をただちに公表しましたが、そのとき、私は、社会党のこの突然の路線転換のかげには、公明党からの工作にとどまらないもの、日本の支配体制の、総力を挙げた戦略的攻撃があることを実感していました。

 実際、この「社公合意」を転機として、日本の政界には、「共産党を除く」という“壁”、トランプ流の異常な“壁”が築かれたのであります。

 党は、これにたいして、80年2月の第15回党大会で、日本の民主的再生を願う団体と個人による「革新統一懇談会」の結成を提唱しました。これは、社会党が脱落した情勢のもとで、革新をめざす政治勢力と市民勢力との共闘という方針でした。この提起に応じ、松本清張さん、中野好夫さんの両氏も賛同の声を上げて、81年5月に全国革新懇が発足し、統一戦線運動の力強い推進力となったのであります。

 この方針を決めた党大会には、ソ連との和解直後だったという背景もあって、30カ国という党史上最も多数の外国代表団が参加しました。それらの外国代表が無党派の勢力と共産党との共闘という方針に驚きの声をあげ、大会後に私のところに来て、「社会民主主義の政党抜きで統一戦線が可能なのか」という疑問を次々にぶつけてきました。状況と方針を詳しく説明すると、最後には「分かった」と言ったものの、「それにしても勇気が必要な方針ですね」との言葉を残して帰りました。

 実際、この提起は、“共産党と社会民主主義政党との共闘”、これが統一戦線の核心だという古い図式を乗り越えたものでした。そしてそこには、いま振り返ると、今日の「市民と野党との共闘」を予感させるものがあったのでした。(拍手)

 「共産党を除く」というこの“壁”は、世界でも異常なものでした。しかし、その政界支配は、34年間も続きました。戦前の党創立以来の抑圧体制、これは23年間でしたから、それをはるかにこえる期間続いたのです。

 これを打ち破るたたかいでは、二つの覇権主義との闘争以上の意志と力が党に求められました。そして、今、これが打破されて新しい政治の展望が切り開かれています。その根底には、この長期の苦しい時期を不屈にがんばりぬいた全党の奮闘があったことを、私は強調したいと思います。「苦節10年」という言葉がありますが、「苦節34年」がこのたたかいでした。それがまさに新しい歴史を開く苦闘であったことを、いま、たがいに確認しあおうではありませんか。(拍手)

体制側にとっても多難の道だった

 実は、この道は、相手側にとっても多難の道でした。

 最初の10年間は、共産党を除く「オール与党」体制のもと、なれ合い政治と金権政治が花盛りとなりました。その結果、89年にはこんなことが起こりました。年初めから、2月の徳島市の市長選、3月の千葉県の知事選、4月の名古屋の市長選、こういう選挙で、共産党がおす候補が、自民党中心の「オール与党」連合と対決して、40%台の得票を得る事態が続いたのです。

 マスコミには、共産党の躍進で「政界に地殻変動起こるか」という予想記事まで出ました。この予想は6月の天安門事件とそれに続く東欧・ソ連の激動の始まりで、現実化はしませんでしたが、自民党政治の危機そのものは深刻でした。

 それを打開する新戦略が、小選挙区制を中心にしたいわゆる「政治改革」だったのです。ねらいは、小選挙区制で共産党を封じこめ、そのあと、自民党政治を共通の土俵として、一方は自民党、他方は共産党を除く「非自民」野党連合、この二大勢力のあいだで政権を争う、日本の政治をこういう政治構造に仕立て上げようではないか、ここにありました。

 それがうまくゆかなくなると、さらに90年代には、財界が総出で本格的な「二大政党」体制づくりに乗り出しました。選挙方式まで、「マニフェスト」方式などという耳慣れない言葉まで輸入して、政権選択の選挙に切り替えて、共産党を国民の選択の対象から外す、そういう新たな作戦にまで踏み出しました。

 こういう、小選挙区制と「二大政党」戦略のもとで、最後に誕生した内閣が、第2次安倍政権であります。この政権のもとで、自民党政治そのものの異常な変質があらわになり、いたるところで矛盾と破たんが噴き出ていることは、みなさんがいまご覧になっているとおりです。

戦前回帰めざすウルトラ右翼政権への変質

 最近、マスコミから私へのインタビューの注文が多少増えていますが、質問内容はすべて共通です。自民党政権の変質ぶりを語ってほしい、いわばその歴史の生き証人としての呼び出しでした。

 政策面でいうと、対米従属と財界密着というのは、自民党結党以来の路線です。

 「安倍政治」はそれにくわえて、戦前の体制に戻りたい、“戦前回帰”という「日本会議」系のウルトラ右翼の怨念を大きな特質としたものです。ウルトラ右翼の潮流というのは、アメリカでもヨーロッパでもいまさかんに問題になっていますが、政権党の主流がこうした方向に変質したというのは、まさに日本独特の現象であります。

 「安倍1強」とよく言われます。しかし、「1強」というのは、民意の反映では決してありません。それは、小選挙区制による架空の多数でしかありません。

 実際、2014年の総選挙をみてみましょう。獲得した議席は、自民党は290議席、対する野党4党は合わせて98議席でした。では得票はどうか。比例代表の得票率は、自民党の33%に対し、野党4党の合計は34%です。国民の信の多いほうが、議席では少数になる、ここに、「安倍1強」なるものは「架空の多数」でしかないことの、実証があるではありませんか。

 そして、これをもとにした現在のウルトラ右翼の支配には、制度的な道具立てがいろいろあります。

 第一は、小選挙区制のもとで、総裁が候補者の指名権を実際ににぎり、自民党そのものへの首相の支配権が圧倒的に強化されてきたことです。

 第二は、特定秘密保護法(2013年12月成立)で、国政の真相を国民の目からかくす秘密主義が横行していることです。政府に資料を要求すると、分厚い資料がでてくるが、中身は全部黒塗りで見出ししか読めない。こんなバカげたことは、世界に例がありません。こういうやり方で、まさに国政全体が密室化しているのです。

 第三は、内閣人事局の設置(2014年5月)です。これで、どこの官庁でも、上級幹部は官庁自身で選ぶことはできず、すべてを官邸が決める体制になった。いわば官僚機構が首相官邸の絶対支配下におかれることになったのです。

 こういう体制のもと、国政の「私物化」が急速に進んできました。問題は、「森友」問題や「加計」問題だけではありません。国政の全体が、ウルトラ右翼の潮流によって「私物化」されているのです。安保法制、戦争法もそうでした。「共謀罪」法もそうでした。さらに、今年の5月以来の憲法9条改定の計画は、「日本会議」派が提案したものを安倍首相がうのみにして、自民党に押し付けたものです。

 まさにウルトラ右翼の潮流による国政私物化の危険は、いま、より深刻な、新しい段階に入っていると言わなければなりません。

「市民と野党の共闘」が新しい政治への展望を開いた

 これとは対照的に、自民党政治とたたかう国民の側では、日本政治上まったく新しい展望が開かれています。

 2014年、「オール沖縄」の共闘の成立と12月総選挙でのその勝利は、34年間、日本の政治を支配してきた「共産党を除く」の“壁”に、大きな突破口を開けました。

 続いて、2015年、安保法制反対の闘争は、「共産党を除く」“壁”を全国的な規模で一挙に打ち砕きました。こうして生まれた市民と野党の共闘は、まさに戦後政治の歴史を画する壮挙だと言わなければなりません。(拍手)

 1960~70年代には政治の舞台で統一戦線への努力を続けた歴史がありました。しかし、そのすべてが80年の「社公合意」で打ち切られ、国政での共同の体制がついに実現せずに終わったことは、さきほど申し上げた通りであります。

 2015年に成立した今日の野党共闘は、すでに昨年の参院選で、国政選挙での共闘を実現し、自民党による1人区独占を大きく打破するところまで進んでいるではありませんか。(拍手)

 発展しつつある市民と野党の共闘は、文字通り、日本の政治史を画する意義をもち、さまざまな困難はあっても、日本の政治に新しい段階と展望を開く力をもつことは、すでに実証された現実であります。

自民党政治は衰退と没落の段階に

 国民多数の意思に背をむけた安倍政治の暴走は、自民党政治が没落の段階に入ったことを示す末期現象にほかなりません。(「そうだ」の声)

 都議選での自民党の無残な敗北は、そのことの、何よりもの実証となりました(拍手)。マスメディアでも、政治の「劣化」という言葉が公然と飛び交い、安倍政治の「終焉(しゅうえん)近し」ということが現実問題として語られるようになりました。

 安倍政権は、日ごとに矛盾と危機を深めつつあります。この危機の根源は、専制独裁という安倍ウルトラ右翼政権の体質そのものにあります。“内閣改造”などの小細工では、そこからぬけだすことは不可能であります。

 日本共産党の躍進と市民・野党の共闘の発展で、この政権を打倒し、新しい日本政治の実現という、日本列島全体に渦巻く国民的願望を実現するために、力をつくそうではありませんか。(大きな拍手)

四 党綱領は世界と日本の激動の情勢を進む道しるべ

 今日、国際的にも国内的にも、新しい情勢が展開していますが、私たちは有力な道しるべをもっています。

 それは、21世紀を迎えて2004年に党が決定した新しい綱領であります。そこには、自主独立の立場での科学的社会主義の理論の独自の全面的研究と、半世紀にわたる私たち自身の政治活動の経験・教訓が、全面的に反映しています。その党綱領の真価が、国内的にも国際的にも試される時代を迎えた、といってよいと思います。(拍手)

世界――大国支配の再現はもはや不可能になった

 世界を見てみましょう。党綱領は、大国が世界を支配した時代は終わり、21世紀は、新たに政治的独立をかちとった国ぐにが重要な役割を果たす新しい時代となるという展望を示しました。この7月、核兵器禁止条約の成立は、この変化を画期的な事実をもって示しました。志位委員長を先頭とする党代表団が日本の被爆者団体、平和組織とともに国連会議に正式に参加し、この条約の成立に貢献したことは、本当にうれしいことであります。(大きな拍手)

 覇権主義の新たな動きに注目すべきことは党大会決定が示した通りでありますが、20世紀のような大国支配の時代の再現は、もはや不可能になってきているのであります。

日本――主権者国民の合意のもとに一歩一歩の前進を

 日本自身の問題では、党綱領は、自民党政治に代わる新しい政治の展望を、大きな構想をもって示しました。

 新しい政治への変革をめざす党綱領路線の核心は、主権者国民の多数意思を基本にし、その合意にもとづいて変革をすすめるという立場にあります。この立場を、安倍政治を打倒する当面の闘争から、人間の自由を全面的に実現する未来社会にいたるまで、これから開く歴史の一歩一歩、そのすべての局面、すべての段階でつらぬく――ここに日本共産党綱領の基本路線があります。だからこそ、わが党は、日本の将来を見通した大きな展望をもちながら、当面する国民的課題の実現のために、市民と野党の共闘の前進のために、私心なく全力をつくすことができるのであります。(拍手)

 私たちは、党創立95周年を、政治的激動のさなかに迎えました。この歴史は、党創立以来、多くの同志たちの苦難にたえた奮闘によってつづられてきたもので、今日の新しい政治的情勢も、全党の努力と活動によって基礎が築かれました。その途上に生涯を終えた同志たちの志を引き継ぎつつ、日本共産党の歴史の輝かしい新たなページを開いてゆこうではありませんか。(大きな拍手)

 歴史を築く大きな気概を持って、当面する中心任務――日本共産党の躍進と市民・野党の共闘の前進、この二つの任務をしっかりとにぎり、安倍政治の打倒、日本の政治の国民的転換という大目標の実現のために全力をつくそうではありませんか。

 そのためにも、私たちの党が、この目標実現にふさわしい大きな力をもたなければなりません。5年後にせまる日本共産党創立100周年を、このたたかいと党建設の努力の、実り豊かな、さらなる前進の中で迎えようではありませんか。


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