南英世の 「くろねこ日記」

交代可能性に思いをはせる想像力を


 今の政治家に必要なのは、自分のこととして置き換える「交代可能性」に思いをはせる想像力ではないか。1970年代までは、社会的弱者を包み込むゆとりがまだ日本には存在していた。しかし、バブル崩壊後、人間はコストとしてしかみなされなくなった。会社にとって労働者はコスト、障害を持つ人は社会にとってのコスト。おかしな社会になってしまったものである。

 政治家だけではなくて、国民みんなが「交代可能性」について思いをいたすことができれば、世の中はもう少し違った風景になる。人間はいつまでも若くて生産的で世の中の役に立つ存在であり続けるわけではない。年をとれば病気がちになり社会のお荷物になる。若くても病気など様々な理由から働けなくなることもある。いつ自分も社会的弱者になるかもしれないのだ。そうしたとき、弱者の処遇をどうすべきか。それによって国家の品格が決まる。

 交代可能性に思いをはせることの大切さを私に教えてくれたのは、元沖縄県知事の太田昌秀さんの著書である。本土の人は、しょせん沖縄のことを他人事だと思っている。それを自分のこととして受け止める感性。センター試験で9割とることよりも、そんな感性を教えることのほうが大切だと思って授業をしている。

 歴史は振り子みたいなものである。平等を追求すればその反動として平等政策の弊害を論じる意見が台頭する。逆に、自由な競争が行き過ぎれば、その反動が起きる。第二次世界大戦後、平等を追求する価値観が重視された。1980年代以降その反動として新自由主義が台頭してきた。ソ連が崩壊したため平等を追求する正当性がさらに失われた。人間はどこまで不平等に耐えられるか。れいわ新選組は新自由主義に対する挑戦であるというのが私の理解である。

 世の中には「富裕層は累進課税で国に貢献しているから、それで十分」と思っている人がいる。それは全くの誤解である。下のグラフを見ていただきたい。日本で累進課税が機能しているのは所得が1億円以下の人である。1億円を超えるとむしろ税負担率は急激に下がっていく。理由は、利子・配当に関しては累進課税が適用されず、20%しか課税されないからである。本当の富裕層は利子や株の配当で所得を得ている。貧困は目に見えるが、富裕層の実態は目に見えにくい。


(朝日新聞 2015年3月26日)

 ほとんどの国民は、富裕層や法人がいかに課税逃れをしているか理解していない。マスコミは、企業のCM収入で経営が成り立っており、自分のスポンサー企業に弓矢を引くことはできない。だから真実が国民の目にされることはない。

さらに言えば教育の仕方にも問題がある。学校で「所得の再分配政策」=「累進課税」と教える先生が多すぎるのではないか。日本の再分配政策は累進課税制度ではなく、主として社会保障政策によるものである。


建て目盛りはジニ係数の改善度(内閣府 経済財政白書2009年度版)


もし生まれる前に「無知のベール」に包まれていて、自分が高度の障害を持っていたり、勉強が苦手だったりしたら、どんな人生を望むだろうか? 何でもかんでも自己責任のせいにする人がいるが、世の中には努力しようにもできない人もいる。交代可能性について少しでも思いをはせる感性を持っていたら、もう少し柔軟な考え方もできるように思う。
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