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南英世の 「くろねこ日記」

徒然なるままに、思いついたことを投稿します。

関西大回りの旅

2019年08月27日 | 日常の風景
大阪、兵庫、京都、滋賀、奈良のJR線は「大回り」が認められている。満たすべき条件は同じ駅を2度通過しないこと。以前、大阪駅から隣駅の環状線の福島駅まで、大阪駅 → 京都駅 → 奈良駅 → 福島駅と大回りしたことがある。これで料金は120円。



今回は兵庫県を回ってみたいと思って、新書と弁当をリュックサックに詰め込んで家を出た。目指すは 

大阪 → 加古川 → 谷川 → 塚口 である。

まず、神戸線で加古川まで行く。所要時間1時間余り。ついで加古川線に乗って谷川に向かう。ところが加古川線の本数がむちゃくちゃ少ない。土地勘のないまま1両編成の電車に乗ったら、厄神(やくじん)で降ろされた。駅の時刻表を見ると、次の谷川行きは1時間半待ち。西脇までなら30分ほど待てばある。しかし、やはり、西脇で1時間待たねばならない。



とりあえず西脇市まで行く。市だから多少は何か時間つぶしができるかもしれない。




(西脇市駅前の風景)

ところが、西脇「市」とはいうものの時間をつぶすようなものは何もない。本当に駅にベンチが一つあるだけ。店一軒ない。人影もまばらだ。時間をみれば12時半。駅のベンチに腰掛けて持参のステーキ弁当を肴にビールを飲む。13時半、やっと谷川行きの電車がホームに入ってきた。





2時10分、谷川に到着。ここからは福知山線に接続する。しかし、ここでもダイヤは1時間に1本しかない。30分ほど待って丹波篠山口行きに乗り、さらに大阪行きの新快速に乗り換える。

新快速はさすがに快適だ。このまま大阪駅まで行きたい誘惑にかられたが、それでは尼崎を2度通ってルール違反になる。仕方がないので伊丹で乗り換えて、塚口で下車し清算する(240円)。塚口から大阪駅までの切符を買いなおして、結局本日の乗車料金は480円也。



日ごろ、電車の時間をあまり気にすることのない生活をしているので、1時間半待ちはこたえた。それにしても、兵庫県は広い。朝9時半に家を出て、帰ったのが5時半。究極のヒマ人間の旅であった。



悪化する日韓関係

2019年08月24日 | 日常の風景
国際政治学では、「隣同士は仲良くできない」という格言がある。国力に圧倒的な差があれば一方が泣き寝入りをして争いは表面化しない。しかし、国力が接近している場合は何かと関係がぎくしゃくする。独仏の関係、英仏の関係、日韓の関係などはまさしくそうした例と言えるであろう。

特に韓国の場合、儒教の影響もあり、昔から「中華思想」の下で中国が1番で韓国が2番、日本はその下の3番という序列意識がある。そのうえ、古代にあっては日本にさまざまな文化を「教えてやった」という自負もある。ところが近代に入って国力をつけた日本が韓国をリスペクトしなくなった。それどころか植民地にして、ひどい扱いをした。弟分のくせに生意気だ「許せない」と、こうなるのである。同じ日本の植民地となりながら友好的な台湾とは全く違う思考回路を持っている。それが韓国である。

今回の日韓関係悪化の発端は、2018年の「徴用工問題」をめぐる韓国最高裁の判決にある。判決は、1965年の日韓請求権協定で個人の請求権は消滅していないとして、日本企業に損害賠償を払えと命じた。

この判決を聞いた私は次の日の授業で、「韓国の最高裁は国際法を知らないのか」と生徒に話した。日韓請求権協定とは、日本が韓国政府に対して無償3億ドル、有償2億ドルを供与することなどで、両国及びその国民の間の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」とする文書である。当然、この請求権の中には日本の徴用工への補償も含まれるし、これまで韓国政府もそのように理解していた。それにもかかわらず、韓国最高裁はそれを無視する判決を下した。

なぜ、今になって蒸し返すのか?実は、この背景には韓国の国内事情がある。
一つは、民政への移行である。日韓請求権協定が結ばれたときは軍事独裁政権の朴正煕大統領時代だった。ところが、1990年代に民政に移行して市民が強くなった。しかも、韓国政府は教科書を通じて「反日教育」を煽ってきた。被害者意識を煽ることによりナショナリズムが高まり、政権の求心力が増す。慰安婦問題が蒸し返されてきたのも1990年代以降である。

民主主義である限り世論は無視できない。政権が世論を尊重するのは当然である。ところが、韓国の場合、最高裁の上に「世論」が位置するというから穏やかではない。最高裁も世論を無視した判決は出せないお国柄だというのである。その世論を政府は学校教育を通じて「反日」に仕向けて行く。

韓国という国は、大統領が失脚したとたんに裁判にかけられ死刑判決が下されるお国柄である。文在寅(ムンジェイン)大統領にやましいところがあるかどうかは知らないが、権力者は一般に、自らの政権を維持するためには何でもする。文大統領が、自らの支持を高めるために、国際法を無視した韓国最高裁判決を支持し、反日を煽ったとしても不思議ではない。

そもそも、文大統領は最高裁判決に対してどう対処すべきであったのか。三権分立の建前上、最高裁判決を覆すことはできない。しかし、最高裁判決を受けて、「日本企業に対する損害賠償は、すでに日韓請求権協定で日本側から受け取っている。だから、韓国政府が日本企業に代わって支払う」と政治的決着をはかればよかったのである。

しかし、これでは文政権はもたない。過去に行なってきた反日教育のために、国民から「弱腰外交」とののしられ、政権の座から引きずり降ろされるのは間違いない。

日本と対立し、アメリカから見放され、頼みの北朝鮮からも相手にされなくなった文政権。まさに八方ふさがりの状況に追い込まれてしまった。日韓米関係がぎくしゃくする中で、中国やロシアがほくそ笑んでいる。


なぜ秋にやらぬオリンピック

2019年08月24日 | 日常の風景
東京オリンピックまであと1年に迫った。いまさら言っても遅いのだが、なぜ夏に開催するのか? 日本には四季があり、もっといい季節はいっぱいある。実際、前回の東京オリンピックは10月に開かれた。

オリンピックが夏に開催される理由は、欧米のテレビ局の要請だという。なにしろ、IOCの全収入の約7割がテレビ局の放映権料で占められているため、スポンサーの意向を無視して日程を設定することはできないらしい。そのため、アメリカンフットボール、サッカー、バスケットなどの試合が少ない夏にオリンピックが行われることがこの30年ほど続いているらしい。

全くばかげた話だ。
4年に1回しか行われないオリンピック競技と、毎年行なわれるプロスポーツのどっちが大切か。ここはプロスポーツの日程を変更してオリンピックを優先するのが「常識」というものであろう。4年に1回のオリンピックを目指して努力をしてきた選手たちのことを思えば、最高の条件のもとで開催するのが主催者の最低限の守るべきルールである。利権にまみれ、選手ファーストで考えないIOCは腐りきっている。

2020年大会に10月開催でエントリーしたカタールは、一次選考で落選したという。理由はもちろん、開催日程がIOCの条件と合わなかったからである。日本もカタールと同じように10月開催でエントリーして落選したほうが良かったのではないか。それを「晴れることが多く、かつ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」などという大ウソをついて、東京誘致に成功した。しかも、福島原発の放射の汚染は「完全に_コントロールされている」という嘘のおまけつきである。

酷暑の中で競技を行う選手も大変、観客も大変、大会関係者・ボランティアも大変。熱中症で死者が多数出ている日本の夏のことをIOC関係者は知っているのだろうか。


中国は何処へ行く

2019年08月23日 | 日常の風景

1978年に改革開放政策が始まり、中国が資本主義経済に舵を切ってから41年が過ぎた。鄧小平は社会主義の体制下で市場経済を導入し、経済発展を進めることが可能であるとして、これを社会主義市場経済と呼んだ(1992年)。以来、政治は中国共産党が独裁を続け、経済活動だけが資本主義で行なわれるという変則的な体制が続いている。

では、中国に欧米流の民主主義を導入することは可能であろうか?
結論は「不可」である。13億の人間が好き勝手なことを言い出せば、中国は四分五裂に陥ってしまう可能性が高い。政治的混乱を避ける唯一の方法は、天安門事件(1989年)を国家権力で抑え込んだように、強権的に国民を支配し国民を「あきらめさせる」以外にない。かつての皇帝がそうであったように。

民主的手続きによる政権交代がない中国の権力闘争は熾烈である。近年、党高官が次々と汚職容疑で失脚させられ、習近平の一強体制が進んでいる。そして2017年、党の憲法と呼ばれる党規約に「習近平の新時代の中国の特色ある社会主義思想」という文言が盛り込まれた。これにより、習近平は毛沢東や鄧小平と並ぶ権威を獲得した。

天安門広場では今も毛沢東の大きな肖像が掲げられている。毛沢東は今も「建国の父」として中国では尊敬されているという。1950年代末の大躍進政策の失敗で2000万人ともいわれる餓死者を出し、それにより失った権力を奪回するため文化大革命が10年にわたって展開された。その結果、死者1000万人、被害者1億人を出し、中国の発展を少なくとも20年は遅らせたといわれる。

その文化大革命の負のイメージを払しょくする動きがいま中国で行なわれている。中国の歴史教科書の書き換えが行なわれているのだ。中国共産党が間違いを犯したことを認めることは、習近平にとって好ましくないからである。中国共産党の一党独裁体制は今後も継続されるのであろう。

それでは、中国を共産主義国家に戻すことは可能か?
もちろん、この選択肢はさらに困難である。すでに共産主義イデオロギーは地に堕ちた。それに、何よりも中国にはすでに既得権益を持つ多くの大金持ちがいる。彼らから再び財産を奪うことは不可能というほかない。

そもそも鄧小平の「先富論」が間違いだった。一部の人が先に豊かになる人がいてもいいと彼は言ったが、中国では古来国家権力は富の源泉だった。権力を握ったものが富を独占する。もちろん、鄧小平は最初から全部分かったうえで方便として先富論を唱えたとも考えられるのだが。

結局、右にも左にも行けない。これが今の中国の現状である。米中貿易摩擦に象徴されるアメリカと中国の覇権争い。さてさてどうなるのやら。








アジア・太平洋戦争の現実

2019年08月19日 | 日常の風景
『日本軍兵士』(中公新書 吉田裕著)を読んだ。第二次世界大戦に関する書籍はこれまでもたくさん読んできたが、この1冊は今までにない「兵士の目線」からアジア・太平洋戦争をとらえていて、教えられるところが多かった。

第二次大戦の日本人の犠牲者は310万人に及ぶが、実はその9割が1944年以降といわれる。しかも軍人・軍属の戦死者230万人のうち、約6割は栄養失調や餓死・病死であるという。

1944年、フィリピンに向かう輸送船では1坪に5人の兵士がまるで奴隷運搬船のごとく詰め込まれ、途中で多くの兵士が死亡し水葬にされた。出港前に不安が極限に達し発狂者が続出した。絶望的な戦況の中で悲観した兵士が精神を病んだり、時には「足の指で銃の引き金を引いて自殺」する者もいた。

傷病兵が足手まといになるからといって「処置」(=殺害)された。虫歯で歯痛がひどくても治療する体制がなかった。粗悪な軍靴の底が抜けはだしで行軍し、水虫になったり雨にぬれて凍死したりするものが続出した。

上官の命令は天皇の命令として、古参兵(入営2年目以上の兵)が初年兵に「私的制裁」を加えることが横行し、軍での生活は地獄だった。食料がなくなり日本兵を殺害して食料を強奪したり、人肉を常食とする者がいたりした・・・等々。
230万人の死が「実は様々な形での無残な死の集積」だったと著者は書いている。

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この本の特筆すべきところは、兵士の目線で戦争をとらえたことだけではない。こうした無残な死の歴史的背景も分析している。帝国陸海軍の軍事思想が極端な精神主義に偏っていたこと、情報収集や必要な食糧支援を軽視したこと、また日本軍の根本的欠陥として「統帥権の独立」があったことなどが取り上げられている。

明治憲法は第55条で「国務各大臣は天皇を輔弼しその責めに任ず」と定め、「君主無答責」とされる。すなわち、国務に関しては各大臣が責任を負い、天皇には責任がないとされていた。しかし、そうした中で軍の統帥権だけは、内閣も議会も口出しすることは許されず(第11条)、実際、天皇自身も統帥権に関しては自分が絶対者であり最高責任者であると認識していたとする証言もある。

なぜ明治憲法は統帥権が天皇にあると明記したのだろうか?この辺りの事情は『明治という国家』(NHKブックス 司馬遼太郎)の記述が参考になる。

明治憲法を作るためプロイセンに派遣された伊藤博文は、そこでドイツ法学界の重鎮から次のように聞かされた。「たとえ国会を設立しても、国会には決して軍事権と予算その他の財政権にはクチバシを容れさせるな。そんなことをさせると、たちまち乱がおこってしまう。国会というのは、最初はちっぽけなものを作ればいいんだ」(p317)。つまり、政党勢力が議会や内閣を制覇し、天皇の地位が空位化することを恐れたのである。

明治の骨格を作った西郷、大久保、木戸が明治10年に相次いで死に、跡を継いだ伊藤、山縣らの第二世代が明治天皇を支えた。しかし、昭和になると伊藤のような人物はいなくなり、統帥権が天皇に属するという明治憲法の「欠陥」が露呈することになる。司馬は書いている。「ドイツ憲法において、君主が強い専制権を持っていたこと、それを阻むべき国会の権限が弱かったということが、ドイツの滅亡をまねきます。・・・ばかな話です」(p320)

なぜ、1944年以前に戦争を終わらせることはできなかったのか。このことについて吉田は次のように書いている。「敗戦必至となった絶望的抗戦期に入っても、戦争終結を決断できず、いたずらに時が流れていった。そのため、すでに見てきたように、多くの兵士と民間人が無残な死を遂げる。こうした事態を生み出したのは、明治憲法体制そのものの根本的欠陥だった。」


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著者の吉田裕氏は元一橋大学大学院社会学研究科教授である。彼は一度だけ中学校の歴史教科書を書いたことがある。2001年のことである。そのなかに「朝鮮などアジアの各地で若い女性が強制的に集められ、日本兵の慰安婦として戦場に送られました。」という記述があった。これが右翼団体などからのターゲットとなり批判された。そのため、日本書籍の教科書の採択を見送る自治体が増え、日本書籍は2004年に倒産に追い込まれてしまった。

1990年代以降、日本の右傾化が進んでいる。戦争を体験した世代が少なくなり、領土を取り戻すには「戦争しないとどうしようもなくないですか」などと発言する国会議員がいる昨今である。「戦争反対」と叫ぶのも結構だが、それでは国民の心に響かない。戦争の現実はどうであったか。それをリアルに示した本書の意義は大きい。
特に若い人たちに問いたい。「また、あの私的制裁のきびしい軍隊生活の時代に戻りたいのですか。軍人精神注入棒で殴られる時代に戻りたいのですか」と。














給湯器の交換

2019年08月18日 | 日常の風景
お風呂のお湯を入れるたびに、給湯器から「ぼ~~ん」という音がしていた。何か月も前からである。もう12年使ったから、そろそろ交換の時期か。

さて、どこの業者に依頼しようか?
ネットでいろいろ検索してみる。
迷った挙句に電話をしたのが「正直屋」という豊中にある業者さん。最初は「正直屋」という名前にちょっと抵抗を感じたが、いろいろ調べてみると信頼できる業者さんのようだ。

さっそく見積もりを取った。
安い!
ノーリツの給湯器定価41万円を66%引きで、工事費を含めて19万8000円だという。

今日、交換の工事をしてもらったが、作業に来た二人の接客態度も非常に良かった。申し分ない。
粗悪品を安く売るのは世の常だが、安くて客に満足してもらえるサービスを提供する業者は多くはない。そうしたサービスを可能にするさまざまな企業努力があるのだろう。
「正直屋」はおススメである。

ちなみに、このブログを書くにあたって正直屋からはびた一文もらっていない。念のため申し添えておく。





瞬殺

2019年08月15日 | 日常の風景

「ゴキブリー!」

という妻の鋭い叫び声に慌ててティッシュをつかんで駆けつけたら、すでに妻が「素足」で押しつぶして瞬殺していた(笑)。

マンションに引っ越して12年目で初めて出没したゴキブリ。
宅配便にでも紛れ込んでいたのだろうか?

大阪の教育界で起きていること

2019年08月13日 | 日常の風景
1980年代以降、世界的に新自由主義が台頭するようになってきた。競争、競争、競争、何でも競争。負けたくなければ頑張れ。みんなが頑張れば社会は発展する。福祉政策なんかやるから人間は怠惰になる。福祉なんかクソ食らえ! 競争して負けるのはあなたの努力が足りないからであり、それは「自己責任」だ。バブル崩壊以降、こんな18世紀的な思想が日本にも入ってきた。とくに2001年の小泉内閣以降その傾向が強まった。

競争社会は強者に有利にはたらく。だから、競争原理の強調は保守層から強い支持を集める。バブル崩壊以降、日本では思想的にも保守層が台頭してきている。国民に主権があることが間違いだと主張する国会議員がいる。教育勅語を礼賛する大臣もいる。やたらと明治国家を称賛し、個人よりも国家を優先したがる保守系議員がいる。

国民の思想教育を行うには、学校教育を変えるのが一番手っ取り早い。最近の日本の教育界の動きを年表で示してみよう。

1997年 「新しい歴史教科書をつくる会」発足
     日本会議発足
1999年 国旗国歌法成立
2006年 教育基本法改正(第一次安倍内閣)
     大阪で人事評価システム始まる(S,A,B,C,D)。→ 評価により給与に差をつける
2008年 橋下徹知事誕生(大阪府)
2010年 大阪維新の会結成
2011年 国旗国歌条例制定(大阪府)
2012年 国歌斉唱口元チェック事件(大阪府立高校)
     教育行政基本条例制定(大阪府)→ 教育における政治主導の明確化
     府立学校条例制定(大阪府)→ 2014年度から府立高校の学区撤廃、
                          3年連続定員割れの府立高校は統廃合の対象、
     職員基本条例制定(大阪府)
      → 人事評価を「S(職員の5%)・A(20%)・B(60%)・C(10%)・D(5%)」の相対評価で行ない、結果をポストや給与に反映する。同じ職務命令に3回違反した場合は免職、
2012年 第二次安倍内閣成立
2014年 地方教育行政法改正 → 首長が教育長の任命権
2018年 小学校で道徳の教科化開始(全国)
2019年 大阪市の小中学校で、学力テストの結果を校長のボーナスに反映させる試み始まる
     中学校で道徳の教科化開始(全国)
    
こうして年表を作ってみると、改めて歴史が徐々に右傾化していることを感じる。いま始まったばかりの道徳教育。もともとは「いじめ」をなくする目的で取り上げられた。しかし、道徳教育によって本当にいじめがなくなるとも思えない。

教育の目的は何か。教育にどこまで市場原理を取入れるのが望ましいのか。国家権力で道徳教育を行うことに危険性はないのか。教育改革から10年が過ぎた。改革の結果、大阪の教育は本当に良くなったのか。いまだその検証は行われていない。


原子力発電と太陽光発電

2019年08月06日 | 日常の風景
日本はエネルギーの大半を輸入に依存している。1973年の石油ショックをきっかけに、過度の中東依存から抜け出すために原子力の比率を高める国策が展開された。現在の電源構成比は次のようになっている。


2011年の東京電力福島第一原子力発電所の事故をきっかけに、それまで約3割を占めていた原子力発電は停止に追い込まれた。その原子力発電の減少を補ったのは火力発電である。

火力発電の燃料は天然ガス・石油・石炭の3種類である。石炭は石油や天然ガスにとって代わられ、「今や主役ではない」というイメージがあるかもしれない。しかし、日本の電気の約3割は今も石炭火力でつくられている。

今も石炭が使われる最大の理由は価格が安いからである。だから、ベースの発電として用いられる。石炭に次いで価格が安いエネルギーは天然ガスである。したがって、天然ガスはベース~ミドル時の発電として使われる。一方、石油はこの3者の中では価格が一番高いので電力需要が高まるミドル~ピーク時の発電に使用される。

電力会社はベースロード電源の考え方の下に、この3つを組み合わせて電力の安定供給と経済性を確保している(下図参照)。


ベースロード電源の考え方


ところで、東電の事故をきっかけに注目されるようになったのが太陽光発電である。国は2012年に自然エネルギーの固定価格買い取り制度を始めた。これにより太陽光発電は法人の収益事業として、個人の資産運用として、また、老後の備えとして爆発的に拡大し始めた。



しかし、いまその太陽光発電がピンチに立たされている。
原子力発電の再稼働に伴い電力供給が余るようになったため、太陽光発電の送電を停止せざるを得なくなっている
からである。

国は運転コストが安いとされる原発をベースロード電源とする政策をとっている。そのため電力供給がオーバーした場合、まず自然エネルギーを先に停止するルールをとっているのだ。クリーンで燃料費が1円もかからない太陽光発電を捨てて、リスクがあって燃料費もかかる原発を優先するというのだからおかしな話だ。

電力会社は原発再稼働に対する国民の反発を和らげるために、電力料金の引き下げに動いている。「原子力発電を再開したおかげで電気料金を引き下げることができましたあ!」というわけである。



国は将来的にも原発を重視する姿勢を見せている。2030年の電源構成案は下図のとおりである。



しかし、福島の事故にも懲りず原発を再稼働させるのはなぜなのか。廃炉のコストを度外視して目先のコストを優先し、使用済み核燃料の処分地さえ決まっていない原発を使い続ける理由は何なのか。

電気料金の上昇が産業界に与える影響を考えてのことか。東芝をはじめとする原子力関連産業に対する配慮か。それとも、原発から出るプルトニウム(原爆の原料となる)が欲しいからか。まさか!
せっかく脱原発に向けた機運が高まってきたのに、国がなぜ原発を推進したがるのか。私には理解できない。



(本稿は2019年3月22日の「電力供給について考える」を再編集したものです。)





読解力の重要性

2019年08月05日 | 日常の風景
これからたくさんの仕事がAIに置き換えられる。それでも残る仕事とはAIにはできない読解力を身につけた人材だと新井紀子氏は『AI vs 教科書が読めない子どもたち』のなかで言っている。我が意を得たりという思いである。

私が初めて読解力の重要性に気付いたのは50年前の浪人をしているときである。予備校の現代文の先生が、文章を読ませる際に生徒に求めることはただ一つ。

「筆者は何を言いたいのか?」

それだけだった。しかし、そうしたトレーニングをするうちに、現代文だけではなく、古典も漢文も世界史も英語の長文も、どんどん読めるようになっていった。その意味で、現代文の授業は私の人生を切り開いてくれたともいえる。だから、予備校時代に使った「現代文」のテキストは今も大切に持っている。



そもそも文章というのは何かを伝えたいために書かれている。だから、その言いたいことをつかむことさえできればそれで十分である。たとえ1000ページの本でも、一言で「筆者はこういうことを言いたいのだ」ということがわかればいいわけである。

その際大切なことは、まず「全体像=筆者の言いたいこと」をつかむということである。それさえつかめれば、細かなことは自然にわかってくる。

ところが、私が高校時代に受けた教育は「まず部分を理解し、それから全体像をとらえるという方法」であった。しかし、こうした読み方をしていると、細部にとらわれ全体像が見えなくなってしまう。最初に全体像があって、そのあとに部分がわかってくる。普段、ほとんどの先生は実はこうした読み方をしている。

しかし、いざ自分が教室で授業を行うと逆の教え方をしてしまう。授業を「作る」ため、部分をごちゃごちゃ説明し、そして全体像に迫ろうとする。「筆者が言いたいことは何か」を1時間かけて生徒に考えさせるのでは時間を持て余してしまう。だから、部分を詳細に説明し、授業を「作る」。しかし、それでは生徒は部分ばかりを見るようになり、全体が見えなくなってしまう。浪人している時に初めて文章を読むということは、まず「全体像」をつかむことだと気づかされたのだった。

私は教員になって以来、生徒に「自分でまとめて」「書かせること」にこだわってきた。だから、いわゆる「まとめプリント」は出さない。生徒が教科書を読んで自分でまとめるという大切な機会を奪うからである。(この辺りは社会科特有のことかもしれない)。

ともかく、本当に分かれば難しい専門用語を使わなくても「小学生にでもわかるように」やさしく説明できるはずである。そんな風な理解をしないことには現実には使い物にならない。テスト前に一夜漬けで覚えて、テストが終わればすぐ忘れてしまうような薄っぺらな知識ではなく、10年たっても20年たっても脳みそにグサッと突き刺さって忘れることができない本物の知識を身につけてほしい。

そのように生徒の学習態度を変えるにはテスト問題を変えるのが一番である。逆に言えばテスト問題を変えないことには、生徒の学習態度は変わらない。そんなことから、定期考査では、1問=100点の論述試験を課してきた。

今の学校は、目先の得点を挙げることに血眼になっている。行政のトップでさえ、全国学力テストの平均を気にしている。目先の点数をアップさせるために、教師がやさしく書いたまとめプリントを作って「はい、これを覚えなさい」方式の教育が横行している。そんなことをすれば生徒はますます教科書を読んで自分でまとめることをしなくなる。テストで高得点を上げられない一つの理由は、「読解力の欠如」である。一見、親切に見える教育が実は一番罪深い。

新井紀子さんの著書を読んで、ようやく今までの私のやり方が間違いではなかったと言ってもらえた気がする。まさか、読解力の重要性を数学のAI研究者から指摘されるとは思っていなかった。

AI時代の教育

2019年08月04日 | 日常の風景

入院中に『AI vs 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子 東洋経済新報社)を読んだ。結論を簡単に言えば、いま存在している仕事の多くはAIに取って代わられる。だから、これからの教育はAIにはできない人材を育成することであるという。

では、AIにできない仕事とは何か。それは『文章を読解する力」である。そのことについては昨日のブログでも書いた。ところが今の学校教育は、計算したり覚えたり、AIが最も得意とすることばかりに力を入れ、読解力をつける教育を行なっていない。

その結果、教科書さえ読めない生徒をたくさん生み出している。これでは、AI時代に大量の失業者を生み出してしまうことになる。したがって、失業者を出さないようにするためにこれからの教育に必要なのは、『中学卒業までに全員が教科書を読めるようにして卒業させること』だと著者は主張する。

では、どうすれば読解力は養われるのか。いろいろな検証をしたが、読書習慣、学習習慣、得意科目などの要因は読解力とは何の相関も示さなかったという。読解力を養う方法はまだよくわからないらしい。まずは教員自身が生徒に目先の点数をとらせるための教育を改め、読解力を養成するための様々な工夫をする必要がある。

生徒が教科書を理解できないからといって、教師がまとめプリントを作ってそれを覚えればテストの点数がとれるようにする「わかりやすい授業」は、実は生徒の読解力を身につける機会を奪う、もっともやってはいけない授業方法なのかもしれない。

東ロボくん 英文語句整序問題に挑戦

2019年08月03日 | 日常の風景

最近の生徒は教科書をきちんと読むことができない。常々そう思っていたところ、『AI vs 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子 東洋経済新報社)という本を見つけ、その題名にひかれ読み始めた。しかし、読み始めて分かったのは、私が知りたかった「子どもたちが教科書を読めない理由」ではなくて、AIには何ができて、何ができないかという数学者の話だった。

私の期待した話とは違ってはいたが、28万部も売れただけあって非常に面白い本だった。特におもしろかったのは、東大の入試問題に挑戦する東ロボくんの話だった。東ロボくんに英語の語句整除問題を解かせるくだりである。たとえば、次のような問題があったとする。

問題 次の文章の(  )内に(complex , me, solve, for, to, with)の語句を適当に入れて正しい文にせよ。

This problem is too (  )(  )(  )(  )(  )(  )ease.

人間がこの問題を見れば、too…to のあの構文だと一目で分かる。しかし、AIは文章の意味がわからない。AIがわかるのは教え込まれた3300万個の例文だけである。そこでAIにこの問題を解かせる場合、次のようなアプローチになる。

6個の単語をアット・ランダムに並べる。すると6の階乗通り(6×5×4×3×2×1=720通り)の文章が出来上がる。そして、出来上がった文章を片っぱしから検索し、覚え込ませた例文に適合するかどうかを確かめる。

AIは覚えることや検索は大得意である。だから、力任せに一致する例文に遭うまで検索させる。こうして、
This problem is too complex for me to solve with ease. 
という正解にたどりつく。

しかし、こうしたやり方には限界があったという。最終的に、東ロボくんに150億個の文章を学習させたが、会話文や常識が必要とされる文章に対しては歯が立たず、正解率は4割に届かなかったという。

そうかあ。AIは文章が理解できないのか。最近、ロボットに話しかけると、いろいろ応えてくれる対話型のロボットが開発されている。しかし、これらも意味を理解して応答しているわけではなく、キーワードを頼りに検索をして、「さも理解をしているようなふり」をして応答しているだけなのだ。そうだったのか。


支えあう社会

2019年08月02日 | 日常の風景

昨年の夏、不整脈の治療のためにアブレーション(焼灼)手術を受けた。そのことはブログにも書いた。
https://blog.goo.ne.jp/minami-h_1951/e/6d634d03f041fe0f01f351b58f195ca0

1回の手術で完治する確率は70~80%と言われた。手術によって幾分症状は和らいだものの完治までには至らず、この夏2回目のアブレーション手術をした。今回も4時間ほどかかる手術だった。



去年、手術のためにかかった費用が約200万円。そのうち私が支払ったのは10万円ほどだった。今回も同じだけの費用がかかったが、私の自己負担分はいろいろ事情があって2倍に膨らんだものの、それでも20万円で済んだ。実費の1割ほどを負担しただけである。残りは[国民健康保険限度額適用認定」制度が適用され、医療保険から支払われる。

日ごろ、国民健康保険料として毎月8万円(年間約80万円)を支払っている。保険とは助け合いであり支え合いであることを改めて実感した。医療費の大半は70歳以降になってからだといわれるが、私の医療費が膨らむのもこれからなのかもしれない。


(資料 厚生労働省)


ところで、1980年代から世界中を「新自由主義」という妖怪が跋扈し始めた。日本も小泉純一郎内閣あたりから本格的な新自由主義の導入が始まった。要するに、競争を促進させ、競争社会で生き残れなかった人たちは「自己責任」の名のもとにばっさり切り捨てられる政策である。その結果、通信業界も、タクシー業界も、航空会社も、金融業界も、保険業界も、農業も、教育も、みんな競争・競争・競争の社会になった。

競争政策の結果、良くなった面ももちろんある。しかし、非正規雇用の増加、かんぽ生命の悪質商法、市中心部のシャッター通りの増加などに見られるように、負の側面も見逃すことができない。

そんな中で、比較的まだましなのが医療関係である。国民皆保険が実現したのは1961年。日本は3割の自己負担さえ支払えば、誰でも安心して医療機関を受診することができる制度を作り上げた。しかも、医療費が高額な場合、今回私が利用させてもらった[国民健康保険限度額適用認定」制度もある。

しかし、いま、日本の医療業界にアメリカ流の民営化を持ち込む動きがある。アメリカでは医療も保険も市場原理の下で供給され、「金儲けの手段」となっている。公的保険制度を作れば民間の保険会社の利益を奪うことになるから、アメリカでは日本のような公的保険制度はない。盲腸で1週間入院しただけで180万円請求される。だから、みんな民間の保険に入る。もちろん保険料は高い。もし、保険料を払えなければ「無保険」とならざるを得ない。

無保険の人は医者にかかるお金がない。したがって、歯が痛ければ自分でペンチで抜くしかない。病気になってもぎりぎりまで我慢するため、結局手遅れになることも少なくない。要するに、金のない人は医療機関を受診することもできない。これがアメリカ流「自己責任」というやつである。

今、日本では、何百万円もする高額治療でも、高額療養費制度があるから、わずかなお金で世界最高水準の医療を受けることができる。しかし、もしこれがアメリカのように命もカネで買う社会になったら・・・

そんな社会になるはずがないと思っている人が少なくないかもしれない。しかし、日本はアメリカの圧力に弱い。公的医療保険の適用範囲を少しずつ狭めていけば、医療が金もうけの手段となる日はあっという間にやってくる。アメリカの保険会社の力をなめてはいけない。

市場原理の適用範囲をどこまで認めるべきか。どこまでカネの力で買うことが認められるべきか。宇沢弘文は、少なくとも教育と医療には市場原理を適用すべきではないと主張している。賛成である。医療までカネで買う社会は健康とは思えない。これまで日本が築いてきた「支えあう社会」を壊すべきではない。