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南英世の 「くろねこ日記」

徒然なるままに、思いついたことを投稿します。

東山魁夷展

2018年09月28日 | 日常の風景

芸術の秋

絵はやっぱり日本画が好きだ。中でも東山魁夷はとりわけ好きだ。絵を見ていると心があらわれる。「白い朝」「緑響く」「静唱」「白夜光」なども展示されており、画集では伝わらない圧倒的な迫力を身近に感じることができた。
もちろん、唐招提寺の襖絵もあった。

以前、京都の高島屋で唐招提寺襖絵を見たときは、ものすごい人波で、「押さないでください」「止まらないでください」という中での駆け足鑑賞だった。しかし、今回は平日だったこともあり、広い展示室でゆっくり見ることができた。いい1日だった。




「運」を引き寄せる

2018年09月25日 | 日常の風景

アパホテル社長の元谷芙美子氏の本を買った。アパホテルの部屋数は今や74,000室を超え、収益率は世界一を誇るという。書いてあることは書店の立ち読みでほぼ分かったが、どうしても手元に1冊置きたくなって、最後は買ってしまった。

印象的だったのは、日常的に起きる大小さまざまなトラブルさえも、現状をプラスに転換するチャンスととらえるという言葉だった。我々ならすぐへこんでしまうようなことでも、彼女は前向きにとらえ、その逆風を利用して前に進んでしまう。
たとえば、客からクレームが来れば「なにもなければ気づかなかったことを気づくことができたのだから、感謝の気持ちが芽生える」といってのける。

あるとき、日経新聞の一面に「私が社長です」ってドーンと出たら、もう誹謗中傷の嵐が始まった。なかには「公共の福祉に反する!」なんていう手紙ももらった。そこで「ご意見ありがとうございます。よろしければぜひ私に会いに来てください。そうしたら、きっと好きになっていただけると思います」って書いて、宿泊券を添えて返事を出したという。自分が美人ではないことすらウリにしてしまうたくましさである。

また、モノを売ることについては「買ってもらうことによって相手に幸せになるチャンスを提供させていただいている」と考えるのだそうだ。買ってもらうことによって相手が幸せになり、相手の喜ぶ姿を見て自分も幸せになる。これが営業の基本だと説く。なるほど、そう考えると営業にも社会的意義を見出すことができる。いままで、営業とは買いたくない人に売りつける仕事だと思っていた私には、新鮮な驚きであった。

その他、たくさんの人生訓がちりばめられている。その多くは日ごろ私が思っていることと同じである。しかし、彼女のすごいところはそれを実践していることである。彼女のように生きていたら、人間関係がうまくいき、強運を引き寄せることができるのだろうと思った。この本と出会えて「ラッキー」だった。

読書の秋

2018年09月22日 | 日常の風景

手持ちの本がなくなったので、紀伊国屋から仕入れてきた。読書の秋というわけでもないが、退屈しのぎには少し軽めの本がちょうどいい。万が一、仕事に役に立つことが書いてあればなおいい。

この頃、何をしても新鮮さが感じられなくなった。あんなに好きだった囲碁も、考えるのが面倒くさくなった。老いるということはこういうことか、とふと思う。

人生、すべては退屈しのぎにやっているのではないか。仕事をするのも退屈しのぎ、本を読むのも退屈しのぎ、酒を飲むのも退屈しのぎ。何もなかったらきっと退屈して死んでしまうから、いろんなことをして気を紛らわしているのではないか。ふとそんなことを思う。

2013年から単行本の執筆で忙しかったが、去年2冊目を出して一区切りついた。以来、抜け殻のようになった感がある。
先日、金沢でお世話になった大学のY先生から「今度完全に仕事から引退します」という連絡を頂いた。確か、僕より一回りほど上である。「南さんはまだ若いから頑張ってください」といわれビックリした。そうか、まだ若いのか。ちょっと充電して、それからまた考えよう。



個人か国家か

2018年09月10日 | 日常の風景
二つの大きな思想がある。「個」から出発する思想と、「国家」から出発する思想である。明治憲法は「国家」から出発する思想であった。これに対し日本国憲法は「個」から出発する思想である。もし、文部行政のトップが「個」から出発する思想を追求しようとすればどうなるか。保守派の政治的圧力の中で、「面従腹背」しながら進むしかない。本書は、そうした文部官僚の苦悩を綴った本である。

1980年代、中曽根康弘首相は、個人を過度に重視する思想から脱却し、国家をもっと重視しようとするする思想への転換を図った。そして、教育基本法の改正の必要性を説いた。ところが、臨時教育審議会が示した教育改革は、中曽根氏の意に反して個人重視、学習者の主体性を重視するものだった。1989年の学習指導要領改訂では「新しい学力観」として自ら学ぶ意欲や思考力・判断力・表現力の育成を目指す方向が示された。

中曽根氏にとって、国家とは天皇を中心とする民族的共同体であり、その立派な構成員となるよう人間を教化することが真の教育であるということなのであろう。その思想は、森喜朗氏、安倍晋三氏らの保守派に受け継がれ現在へと続いている。
2006年、安倍第一次内閣のもとで、教育基本法の改正がなされた。その後、日本の国家主義への傾斜が急速に始まった事を考えると、2006年というのは特筆すべき年であったともいえる。

列車のポイントを切り替えてもすぐには進行方向は変わらない。しかし、時間がたてばたつほど進行方向は以前とは異なったものになる。戦後9度目となる2017年の学習指導要領の改訂では、道徳の教科化が示され、小学校に「道徳」、中学校に「人間科」が設けられた。そして小学校では2018年度から実施され、中学校では2019年度から実施されることになっている。

今回の学習指導要領では、道徳の教科化と同時に「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」も導入された。個人的には「何を今さら。そんなもの、言われなくたって昔からやってきている」という気がする。しかし、道徳教育が教科化されたことと合わせて考えると、戦前のように「道徳」を上から教え込むのではなく、生徒に「自分で、主体的に、考えさせる」ことは、保守派の政治的圧力を和らげようとする文部科学省の精いっぱいの「面従腹背」と考えられなくもない。そう考えると、アクティブ・ラーニングにもそれなりの意味があるのかなという気もする。

私が教科書の執筆にかかわったのは、1999年からの19年間である。幸せな時代だったともいえる。いま、新しい学習指導要領に基づいた教科書作りが進められている。もちろん、定年退職した私はもう関わってはいない。今回の改定で「現代社会」という科目がなくなり、「公共」という科目が新設されたが、いったいどういう性格の科目になるのやら。道徳教育の高校版の役目を担うことにならなければいいのだが。

「自由」「平等」「平和」といった、戦後日本が大切にしてきた価値観がどんどん失われている。日本国憲法を変えたいと思っている政治家からすれば、日本国憲法をきちんと教えること自体が「左翼的」に見えるのかもしれない。おかしな時代になったものだ。

貿易戦争の嵐

2018年09月09日 | 日常の風景

台風が去ったと思ったら、今度は貿易戦争の嵐がやってきそうだ。
中国に対し「私が望めば、さらに2670億ドル(約30兆円)分をすぐにでもかける準備がある」と言っているという。

なんと愚かなことを。
側近は何をしているのか。
経済学者は何をしているのか。
行政の力が強すぎると、困るのは国民自身だ。
どこの国でも同じだね。

台風21号

2018年09月04日 | 日常の風景


怖かった。台風が怖いと思ったのは初めてである。
台風が接近するに伴い、午後2時ころから住んでいるタワーマンションが揺れ始めた。震度1くらいでゆっくり揺れた。猛烈な雨風が吹き、外を見るとビニール袋などが猛スピードで空中を飛んでいる。ものすごい光景だ。ネコがビビッて、緊張している。



テレビをつけると、立木が倒れ、トラックが横転している映像が流れている。関空の滑走路が海水で冠水し、関空への連絡橋にタンカーがぶつかり、橋の一部が損壊しているというニュースも流されていた。

家の前の道路を、ひっきりなしに消防車や救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎていく。午後3時ころにはピークが過ぎたが、これは思ったより被害が大きいかもしれない。皆さんのご無事を祈りたい。

自閉症とサヴァン

2018年09月02日 | 日常の風景

木曜日の夜「グッド・ドクター」というテレビドラマをやっている。自閉症で且つサヴァン症候群の主人公が小児科医として活躍するドラマである。

発達障害と呼ばれるものには自閉症のほか、ADHD(注意欠陥多動性障害)、学習障害、読字障害(例:トム・クルーズ)などがある。長い間教員をしてきたが、これまで自閉症の生徒と直接接したことがなかった。だから、自閉症というものがどういうものなのかいまひとつピンとこなかった。そこで、このテレビドラマをきっかけにもっとよく知りたいと思うようになり、数冊の本を買ったという次第である。

自閉症は、自分以外の他者や外の世界をすべて排除しているかのような患者の状態をいう。自閉症が論文に最初に現れたのは1943年にさかのぼる。具体的な症状としては

 ① 社会性の異常(コミュニケーションの障害)
(例)・人と目を合わさない
   ・まるで耳が聞こえないように名前を呼んでも返事をしない
   ・他人の立場でものを考えることができない(=相手の心を読むことができない)
   ・相手の表情や声色から感情を読み取ることができない
   ・共感能力の欠如
   ・話題の流れにあわない発言をしてしまう
   ・オウム返しの返事をする
   ・言葉の遅れ

 ② 常同行動をする
  (例)同じおもちゃでずっと遊び続ける(趣味の限定)

また、自閉症患者は感覚が過敏であったり、反対に鈍感であったりもする。たとえば、音に敏感だと、普通の人が無意識に遮断している小さな音まですべて耳に届いてしまうため、ちょっとした音にも耳を手で覆ってパニック状態になったり、あるいは教室の外の雑音が先生の声と同じレベルで聞こえてしまい、人の声が聞き取れなかったりする。人の声が聞き取りにくいと、自閉症特有の「言葉の遅れ」にもつながる。

しかし、こうした感覚異常は、ある分野で驚異的な天才性を発揮する場合があり、サヴァン症候群と呼ばれる。
(例)
一度本を読んだだけですべての内容が頭の中に入る。たとえば映画「レインマン」のモデルとなったキム・ピークという人は、読んだ9000冊の本の内容をすべて記憶していた。「グッド・ドクター」に出てくる主人公もそういう設定になっている。
一度聞いた音楽はすべて正確に再現し、暗譜できる
一度見た風景を瞬時にスキャンして、1年後に絵に描くことができる。(山下清画伯)。
・風景を3Dとして見ることができる。(スピルバーグ)
・過去および未来のカレンダーの曜日を言い当てることができる。
・並外れた暗算力を持つ
・数字が風景のように見える。
 


ダニエル・タメット著『ぼくには数字が風景に見える』



最近有名なアスペルガー症候群も、自閉症の一つである。ただし、アスペルガー症候群は、他者とのコミュニケーションに障害があったりはするが、知能は高い。それで、アスペルガー症候群の人は「高機能自閉症」と呼ばれたりもする。自閉症は重い症状から軽い症状まで幅が広いことから「自閉症スペクトラム障害」(連続体)と呼ばれ、一番程度の軽い自閉症と健常者との間には明確な境界線はないとされる。
だから、わずかな自閉傾向を持つ人は身近にも存在する。とくに偏差値の高い理系の大学には、比較的多くの自閉傾向の学生がみられるという。
古くはニュートン、アインシュタイン、モーツァルト、ベートーベン、『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルなどのほか、現代ではビル・ゲイツなどもそうした傾向があるといわれる。

もし、江戸時代だったら読字障害や学習障害などはほとんど問題にならなかった。みんな字が読めなかったからである。また、コミュニケーション能力に障害があったとしても、人とのかかわりが少ない職人として生きる道がたくさんあった。ところが、学校教育が進み、人とかかわる3次産業が発展した結果「普通であること」が求められるようになり、「普通」からはみ出してしまった人たちにとっては生きにくい時代になってしまった。

以前、ピアノで演奏された曲を聞いた直後に全く同じように弾くことができ、しかもこれまで聞いた10万曲を全部暗譜しているという人をテレビで見たことがある。「すごい、天才だ」と言ったら、娘が「お父さん、あれも障害だよ」と言われてはっとしたことを思い出した。

一度聞いたり見たりしたことをすぐ記憶できるというのは、うらやましいようにも思う。しかし、いやなこともずっと記憶から消すことができないのだから、これほど不幸なことはないともいえる。忘れることができるというのは、神が人間に与えた素晴らしい能力の一つなのかもしれない。