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南英世の 「くろねこ日記」

アジア・太平洋戦争の現実

『日本軍兵士』(中公新書 吉田裕著)を読んだ。第二次世界大戦に関する書籍はこれまでもたくさん読んできたが、この1冊は今までにない「兵士の目線」からアジア・太平洋戦争をとらえていて、教えられるところが多かった。

第二次大戦の日本人の犠牲者は310万人に及ぶが、実はその9割が1944年以降といわれる。しかも軍人・軍属の戦死者230万人のうち、約6割は栄養失調や餓死・病死であるという。

1944年、フィリピンに向かう輸送船では1坪に5人の兵士がまるで奴隷運搬船のごとく詰め込まれ、途中で多くの兵士が死亡し水葬にされた。出港前に不安が極限に達し発狂者が続出した。絶望的な戦況の中で悲観した兵士が精神を病んだり、時には「足の指で銃の引き金を引いて自殺」する者もいた。

傷病兵が足手まといになるからといって「処置」(=殺害)された。虫歯で歯痛がひどくても治療する体制がなかった。粗悪な軍靴の底が抜けはだしで行軍し、水虫になったり雨にぬれて凍死したりするものが続出した。

上官の命令は天皇の命令として、古参兵(入営2年目以上の兵)が初年兵に「私的制裁」を加えることが横行し、軍での生活は地獄だった。食料がなくなり日本兵を殺害して食料を強奪したり、人肉を常食とする者がいたりした・・・等々。
230万人の死が「実は様々な形での無残な死の集積」だったと著者は書いている。

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この本の特筆すべきところは、兵士の目線で戦争をとらえたことだけではない。こうした無残な死の歴史的背景も分析している。帝国陸海軍の軍事思想が極端な精神主義に偏っていたこと、情報収集や必要な食糧支援を軽視したこと、また日本軍の根本的欠陥として「統帥権の独立」があったことなどが取り上げられている。

明治憲法は第55条で「国務各大臣は天皇を輔弼しその責めに任ず」と定め、「君主無答責」とされる。すなわち、国務に関しては各大臣が責任を負い、天皇には責任がないとされていた。しかし、そうした中で軍の統帥権だけは、内閣も議会も口出しすることは許されず(第11条)、実際、天皇自身も統帥権に関しては自分が絶対者であり最高責任者であると認識していたとする証言もある。

なぜ明治憲法は統帥権が天皇にあると明記したのだろうか?この辺りの事情は『明治という国家』(NHKブックス 司馬遼太郎)の記述が参考になる。

明治憲法を作るためプロイセンに派遣された伊藤博文は、そこでドイツ法学界の重鎮から次のように聞かされた。「たとえ国会を設立しても、国会には決して軍事権と予算その他の財政権にはクチバシを容れさせるな。そんなことをさせると、たちまち乱がおこってしまう。国会というのは、最初はちっぽけなものを作ればいいんだ」(p317)。つまり、政党勢力が議会や内閣を制覇し、天皇の地位が空位化することを恐れたのである。

明治の骨格を作った西郷、大久保、木戸が明治10年に相次いで死に、跡を継いだ伊藤、山縣らの第二世代が明治天皇を支えた。しかし、昭和になると伊藤のような人物はいなくなり、統帥権が天皇に属するという明治憲法の「欠陥」が露呈することになる。司馬は書いている。「ドイツ憲法において、君主が強い専制権を持っていたこと、それを阻むべき国会の権限が弱かったということが、ドイツの滅亡をまねきます。・・・ばかな話です」(p320)

なぜ、1944年以前に戦争を終わらせることはできなかったのか。このことについて吉田は次のように書いている。「敗戦必至となった絶望的抗戦期に入っても、戦争終結を決断できず、いたずらに時が流れていった。そのため、すでに見てきたように、多くの兵士と民間人が無残な死を遂げる。こうした事態を生み出したのは、明治憲法体制そのものの根本的欠陥だった。」


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著者の吉田裕氏は元一橋大学大学院社会学研究科教授である。彼は一度だけ中学校の歴史教科書を書いたことがある。2001年のことである。そのなかに「朝鮮などアジアの各地で若い女性が強制的に集められ、日本兵の慰安婦として戦場に送られました。」という記述があった。これが右翼団体などからのターゲットとなり批判された。そのため、日本書籍の教科書の採択を見送る自治体が増え、日本書籍は2004年に倒産に追い込まれてしまった。

1990年代以降、日本の右傾化が進んでいる。戦争を体験した世代が少なくなり、領土を取り戻すには「戦争しないとどうしようもなくないですか」などと発言する国会議員がいる昨今である。「戦争反対」と叫ぶのも結構だが、それでは国民の心に響かない。戦争の現実はどうであったか。それをリアルに示した本書の意義は大きい。
特に若い人たちに問いたい。「また、あの私的制裁のきびしい軍隊生活の時代に戻りたいのですか。軍人精神注入棒で殴られる時代に戻りたいのですか」と。
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